座右の銘は「エブリデイ クリスマス」
平凡で退屈な日常を、パーティーに、お祭りに変える魔法があったらいいのに……。そう思いませんか? しかもそのお祭りは年に一度の特別なものではなく、毎日あったらいいなと思うのです。
私の座右の銘は「エブリデイ クリスマス」です。毎日がクリスマスであるかのように特別感をもって充実した毎日を過ごしたい、という願望です。
このブログが一編の小説だとすれば、このページは最終章にあたります。物語のラストに配置すべき、私の最終的な結論について書いています。
走りながら常に見ていたのは「自分の心の内側」だった
現実には毎日をクリスマスのように過ごすことは、そう簡単なことではありません。
今日は昨日と同じような日であり、昨日は一昨日と何ら変わることなく、日常に変化は少なく、一日一日は、かわりばえのない平凡な日常の中に埋没してしまいます。
どうすれば、特別な毎日を生きてゆけるのでしょうか。
私はもう地球一周以上の距離を走り続けてきました。しかし実際には同じコースを毎日ひたすらくりかえし走っただけで、間寛平さんのアースマラソンのように本当に世界を一周したわけではありません。走りながら世界を見たわけではありません。走りながら常に見ていたのは「自分の心の内側」でした。
この人生に「体をつかうこと」以上の生きる歓びはない
長年、ランナーをしていると、思うことがあります。暑い夏に、汗ビショビショになって走った後に浴びる冷水シャワーより気持ちのいいことって、この世にそうそうないなあって。冷水で、ほてった身体から熱が奪われていく時は、ほんとに気持ちがいいものです。
寒い冬に、白い息を吐いて走ってきた後、沸かしておいた熱い風呂に入るのより気持ちのいいことって、この世界にそうはないと感じます。もしもあるというのなら、ぜひ教えてください。外の寒さに抵抗するために、必死になって発熱していた体中のミトコンドリアは、お湯の暑さが発熱という仕事を代わりにやってくれるから、ゆったりと仕事を休むことができるのです。そのリラックス感は、この世で最高の快楽のひとつでしょう。
走って飢渇状態になった後の飲食は、この世で最高のもののひとつです。体中の細胞に水分や栄養が染み渡るのを感じます。走る前とは食べ物の味がちがいます。空腹こそ最高の調味料だというのは本当です。
全身の力をつかって本番レースを走り終え、疲れ切った身体をベッドに横たえた時以上の安楽の時間が、人生に果たしてあるでしょうか。これこそがこの世で最高の快楽なのだと思います。頭を使う労働では、この快楽を味わえません。私はこの人生に「体をつかうこと」以上の生きる歓びを見つけることができませんでした。
もうじゅうぶんに生きてきました。これを私の人生の結論としましょう。
「人間は精神的な生き物だというのに、なんて情けない結論だ」と、あなたは思うでしょうか。でも人間もしょせんは動物です。原始的な快楽は文化的な快楽にまさるとわたしは思っています。動物の真実と人間の真実が違うはずがありません。それが私の結論です。
生きる歓びとか命の実感というものは、自然と湧いて出てくるものではありません。この世界の中で肉体を思う存分に動かして、はじめて感じられるものなのです。
身体をつかうことが、人生の基本であり、究極の快楽
ランナーは、走り続ける限り、この世界で最高の快楽をいつでも手に入れることができます。それこそが「Everyday Christmas」なのだと私は悟りました。身体をつかうことが、人生の基本であり、究極の快楽なのだと思い知ったのです。身体をつかわずに、自分の限界を知ることも、その限界を押し広げることも、難しい。他人と競り合う時の燃える気持ちも、負けて悔しい思いをすることも、勝って自分の力を感じることも、全能感に満たされることも、すべてはこの体を使うことで手に入れることができた感情です。
私の快楽論とは「ハレとケ」「onとoff」が両方そろってこその快楽です。走ることは気持ちがいい。でもその後のシャワーや休息や飲食を含めてこその快楽であり、スポーツの快楽だけを訴えている人の快楽論と私のものとはすこし違います。
退屈な日常を、パーティーに、お祭りに、クリスマスに変える方法
結局、人生というのはハレとケなのでしょう。ケばかりの人生なんて冗談じゃないけれど、ハレばかりではハレがハレでなくなってしまう。
ビーチリゾートで寝そべって読書するのが楽しい人は、普段、本を読む暇もないほど忙しく働いている人だけなのでしょう。時間だけはたくさんあるさすらいの旅人は、そのようには日々を過ごしません。
退屈なケの日常を、わずかな時間でハレのパーティーに、お祭りに、クリスマスに変える方法を、わたしは知っています。それは走ることです。走ること、それは子供に戻る魔法。青春を取り戻す魔法です。
夢中になって追いかけること。無心になって集中すること。自分と対話すること。すべてを忘れること。世界が美しく見える魔法。それが走ることなのです。
走れば、平凡な一日の中にハレとケという起伏をつくることができます。いつもと同じ一日の中のハレ、それが走ることです。走ることには魔法のような効果があります。全身の細胞が覚醒し、生きる気力を取り戻し、想像もしなかった一日をつくってくれます。
ケガで何度か、走ることを中断したことがあります。その頃は、鬱鬱として、何をやっていても面白くなかった。生きているのが、つまらなかった。からだをつかうことをしていなかったから。
走ることは快楽です。走っているからこそ、生きていると実感できるのです。走ることそのものには意味などありません。走ることが生きることだから走るのです。そして走れなくなったときには、この世界とサヨナラをします。それまでは走り続ける。なぜなら走ることが生きることだから。走るために生まれたのだから。