史上最高の恋愛小説をリスペクトしつつ、挑戦した野心作
私は『私的世界の十大小説』という書籍をキンドルから出版しています。その本の中でアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』こそ史上最高の恋愛小説だと大絶賛しているのですが、私と同意見のフランス人がいました。
その人はデュマ・フィス。アレキサンドル・デュマの息子(小デュマと呼ばれる)にして『椿姫』の作者です。小デュマが『マノン・レスコー』に力いっぱい挑戦した作品こそが、同じく売春婦・ファムファタールがヒロインの『椿姫』なのでした。
アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』が下書き
マルグリッドが椿以外の花を手にしているのを見たものはいない。行きつけの花屋でとうとう椿姫と渾名されるようになり、これがそのまま彼女の通り名になったのである。
表題は『マノン・レスコー』
ぼくにお譲りいただきたいからです。
これをマルグリッドに贈られたのは、あなたなんですね?
はい、このぼくです。
→語り部の作家と、グリューに相当するアルマン・デュヴァルの出会いが、隠せばいいのに『マノン・レスコー』なのでした。ちなみに両作品の話主の構成もそっくり同じです。
最初に作家が、絶望している謎の人物と出会い、その人の話しを聞くことになります。その人物が話し始めた時点で話主が作家から絶望している人物に切り替わるという階層構造になっているのです。
墓を替えたいというのは、あのひとの顔をもう一度見てみたいということなんでございますよ。
あんなに美しかったあの人が、もうこの世にいないなんて想像できないんですよ。自分の目で見届けなくちゃならない。ぼくがあんなに愛した人を、神様がどういう姿にされたのか見届けなくちゃならないんです。
やっと棺が開いた。棺には芳香性の植物が敷かれていたものの、たちまち悪臭がむっと鼻をついてきた。墓堀り人たちでさえ、たまらずに後ずさりしてしまった。マルグリッドの顔をむき出しにした。両目はもはや二つの穴でしかなく、唇は消え失せて、固く食いしばった白い歯だけが見える。
→恋人の遺体を見るところも『マノン・レスコー』と同じです。グリューもマノンの遺体を見ています。同じファムファタール系統の『カルメン』も恋人の遺体を見ますね。ほかに恋人の遺体を見るので有名なのは『嵐が丘』でしょうか。
遺体の悪臭といえばドストエフスキーが有名ですね。小説なので臭いはしないのですが、臭いのことを描写されるとみょうに記憶に残るのは、やはり臭覚が人間の脳の太古の部分に訴えかけるからでしょうか。
あの目を見ましたか?
以下は彼が話したことである。私はこの感動的な物語にほとんど手を加えなかった。
そうです、と彼は言葉を継いだ。そう、こんな晩だったんですよ。ぼくは……
→この通り。これ以降、話主がアルマンに切り替わります。話主がファムファタールの被害者本人に切り替わる手法も『マノン・レスコー』のまんまですね。
たぶん英訳本だったら「私=I」しかないので同じでしょうが、日本語の私を指す言葉はたくさんあるので、話主は「私」から「ぼく」と自分を呼称するようになります。
彼女がまだ悪習に染まっていないことは外からもよくわかりました。この娘はちょっとしたはずみに高級娼婦になった処女なのです。
あたしみたいな女は、すぐに身を任せるか、ぜったいに身をまかせないか、そのどっちかしかないのよ。
あたしみたいな女なんか、世の中にいてもいなくても、べつにどうってこともないでしょう? 体なんか大事にしていたら、あたし死んでしまうわよ。体を大事にしなさいなんて社交界の奥さんたちに対して言うことよ。あたしたちのような女は、男たちの虚栄心や快楽の役に立たなくなったら最後、それっきり捨てられてしまうのよ。
→無邪気なのでいっけん純真に見えますが、やはり売春婦らしく冷めた目で愛情を見ていることがわかります。
毎日あたしのそばにいてくださるの? 「そうです」 夜も? 「あなたの迷惑にならない限り、いつだって」それはつまり、あたしに恋しているってこと? それならそうと、さっさと言いなさい。そのほうがずっと話しがはやいわ。
あなたは知らないのよ。あたしがまたたくまにあなたを破産させてしまうことを。あたしたちの世界で生きるには、あなたは若すぎるし、繊細すぎるの。
→マノンに相当する椿姫ことマルグリッドは高級娼婦です。そしてはじめから死を背負った人物として登場します。マノンは結果として死にますが、はじめから死ぬ暗示を持ちあわせてはいませんでした。読者を感動させるキャラクター設定を作者は考えますが、どちらの設定が正解でしょうか?
あたしが他の人たちより長く生きられないから、太く短く生きようって決めたからなの。ああ、でも安心して。いくら生きる時間が短いといっても、あなたがあたしを愛してくれる時間より、もっと長く生きるわよ。
→金で買う恋愛を経験しているために、マルグリッドは心まで本当の処女というわけではありません。それはアルマンの独りよがり、勘違いです。しかしこの擦れた部分が、ラストの別れの高潔さとの対比となって、彼女を高める役目を果たすのです。
あんたの収入なんかではとてもじゃないけど、あの子の贅沢三昧を支えられはしない。
若い男はなんにも知らないふりをして、いいかげん嫌になったら姿を消してしまうのよ。見栄を張ってなんでもかんでも自分で出してやろうとすると、破産するのが落ちというものよ。当の女が感謝するとでも思っているの? とんでもない。その逆よ。気まぐれに恋をされたからって真に受けて欲しくないの。
利益は二人で山分けよ。B氏のお金をデ・グリューといっしょに使い果たしてしまうマノン・レスコーを思い出したからです。
→また登場しました『マノン・レスコー』。ここまではっきりと元ネタのことを書くとむしろ小デュマが純情可憐に見えますね。そんなことは読者が思い出せばいいことであって、自分から下敷きにしていると告白しなくたっていいのに。シンデ・ファッキン・レラ!
まるで夕食の勘定書を渡されるのを恐れる恋人気取りの居候みたいじゃないですか。すべてを独り占めにしたがり、彼女の未来の収入となってくれる過去の関係を断ち切らせようとしたのです。まるでオセロみたいに彼女を探り、もう二度と会わないことで彼女を罰したつもりになっていたのです。
→そういえばシェイクスピアの『オセロ』も独占欲のあまり妻を殺して、その遺体を見ますね。自分で殺害するのであたりまえですが。
純情男アルマンは売春婦マルグリッドをふつうの女のように独占しようとしてトラブルを引き起こします。マルグリッドには莫大な借金がありました。
つまり、ぼくとの別れもマルグリッドの習慣をなんら変えることがなかったというわけです。
→マルグリッドはすぐに新しい(金づるの)男をつくってしまうのでした。
あのすばらしい女性が、おれのことを考えに入れ、しかるべき役を与えて自分の人生の中に入れてくれたというのに、おれはそれだけでは満足できないのか。
→おさなく、つたない男の欲求はエスカレートします。はじめは見てもらえるだけで満足していたのに、今や愛する人と呼ばれる立場になっても満足しないのですから。
あたしたちから何も得られずに身を亡ぼす男もいれば、花束ひとつであたしたちをものにしてしまう男だっている。
あたしが愛したのは、そうであってほしいと願う男としてのあんただったの。あんたはそんな役割を受けいれず、自分にふさわしくないと撥ねつけて、そんじょそこらの男のようになってしまっている。だったら、他の男と同じようにしたらいいじゃないの。あたしにお金を払ってよ。
世の中から孤立させたいという欲求。ぼくはパリで一歩歩くごとに、かつてこの女の愛人だったか、明日にも愛人になるかもしれない男と出会いかねないのです。恋人を隠してこそ、なんの恥ずかしさも恐れもなく愛することができるのです。
→さしづめ現代でいうならば売れっ子のAV女優と結婚する男がアルマンと同じように感じるかもしれません。女房の裸を街ゆく人々がみんな知っている、というようなことですから。
債務者のゴーティエ嬢は公爵に捨てられ、一文無しの若造と一緒に暮らしているって教えたの。
みすみす丸裸にされていくあの娘。でも彼女はあたしのいうことを聞きたがらなかったわ。あんたを愛しているから。どうあっても裏切ることができないんだってよ。
そのうちに慣れてしまうわよ。あんたのほうが、マルグリッドが結婚をしていて、その夫から女房を寝取ってやったって思えばいいじゃないの。それだけの話しよ。
→たしかにこの話主(アルマン)は、よく言えば恋に一途、悪く言えば不器用です。この時代の人は●●夫人のような立場の人妻を愛人にしているのがふつうのようなのですが、そうなったらアルマン君は独り占めしたい男なので、離婚騒動になってモメそうですね。不器用だなあ。
あんなものがなくたって、いっこうに構わない。あんたに愛してもらうこと、それだけよ、あたしに必要なのは。
きみに宝石ひとつだって手放してほしくないんだよ。たとえほんのしばらくでもぼくといっしょに暮らしたことを後悔してほしくないんだ。
→ 借金がある売春婦の女の方がカネもモノもいらないと言っているのに、男の方がそれじゃあだめだと言い出す始末です。私だったら「坊やだからさ」と言いたくなりますね。
『椿姫』はデュマ・フィス版のマノン・レスコー
どんなマノン・レスコーでも、かならずデ・グリューをつくってしまうものなんだぞ。
→またしても『マノン・レスコー』に言及しています。『椿姫』はデュマ・フィス版のマノン・レスコーだといいえるでしょう。史上最高の恋愛小説に、偉大な父を持つ作家志望が、力いっぱい挑戦したものだと言えるでしょう。
ぼくは今にも気が狂うかと思いました。あたりを見回すと、他の人々の生活がぼくの不幸などにはなんのお構いもなく、ずっとつづいていることに呆然としました。
こうなったら、なんとしてもこの苦しみの代償を支払わせてやらねばなりません。ぼくはあの女性のすることに無関心でいられませんでした。ということは逆に、あの女性をもっとも苦しめるのはぼくが無関心でいるということになるはずです。
→無視する、という手にアルマンは出ます。子供だなあ! しかし案の定マルグリッドには効果があるのでした。愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言いますが、当たっているんですね。
ぼくが破廉恥なまでに残酷だったときは、マルグリッドがときどき懇願するような視線を必死に向ける。
→マルグリッドは、愛するアルマンに無視されて、他の女に気があるように振舞われて、苦しむあまり健康を害してしまいます。さらにそこにアルマンの父親がやってきて、息子と別れるように懇願されるのでした。
それでは、一度だけでいいですから、お嬢さまになさるような口づけをあたしにしていただけませんか。
あなたは気高い娘さんだ。
アルマンの父親に売春婦のように扱われた時には別れを承諾しませんでしたが、レディーのように扱われて、マルグリッドはアルマンと家族の将来のために別れることを決めるのでした。
この別れはお金のためにならず、売春婦のふるまいではありませんでした。ようやくマルグリッドの愛は誰に対しても文句のつけようがない形で証明されたのです。
作品は進化する。後発作品が、先発作品よりもできがいいのはあたりまえ
映画でも小説でもなんでもそうですが、ふつう、作品というものは、どんどんよくなっていくものです。先発作品よりも、後発作品のほうができがいいのがあたりまえです。良い点は踏襲し、悪い点は改善していくからです。作品というものは進化するものなのです。
しかし、しかし……運命の女、ファムファタールを描いた作品として『カルメン』も、『椿姫』も、後発作品でありながら、先発作品の『マノン・レスコー』を乗り越えられません。なぜそうなのか、知りたい方は私の著作『私的十大小説』をお読みください。詳しい検証をしています。
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『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え
(本文より)「エンキドゥが死ぬなら、自分もいずれ死ぬのだ」
ギルガメッシュは「死を超えた永遠の命」を探し求めて旅立ちますが、結局、それを見つけることはできませんでした。
「人間は死ぬように作られている」
そんなあたりまえのことを悟って、ギルガメッシュは帰ってくるのです。
しかし私の読書の旅で見つけた答えは、ギルガメッシュとはすこし違うものでした。
なぜ人は死ななければならないのか?
その答えは、個よりも種を優先させるように遺伝子にプログラムされている、というものでした。
子供のために犠牲になる母親の愛のようなものが、なぜ人(私)は死ななければならないのかの答えでした。
エウレーカ! とうとう見つけた。そんな気がしました。わたしはずっと答えが知りたかったのです。
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