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モーパッサン『脂肪のかたまり』。文学界隈に出没する「性格のいい売春婦」という妖怪

Tan Pra Maha Kajjana

脂肪が厚すぎて北斗神拳が通用しないハート様みたいな人の話しかと思った。

ここではモーパッサン『脂肪のかたまり』の書評をしています。

アニメ北斗の拳に出てくるハート様って知っていますか? 脂肪が厚すぎて北斗神拳がぜんぜん通用しないおデブちゃんです。タイトルからそんな人の話しかと思ったのですがぜんぜん違いました。

あらすじ(ネタばれあり)

普仏戦争においてプロシア兵から馬車に乗って逃避行するフランスの人々。その中に太った売春婦がいました。彼女が通称「脂肪のかたまり」さんです。おデブちゃんなんですね。

逃避する人々が空腹のとき、自分の食料をわけあたえるようなやさしい心をもった女性でした。そしてフランスの愛国者でもありました。

しかしプロシア司令官に「自分と商売(売春)しないと先に行かせない」と逃避行グループは足止めされてしまいます。

フランス愛国者の「脂肪のかたまり」さんはプロシア人に抱かれるのは嫌だったので断りました。すると周囲の人たちは自分が先に行きたいものだから彼女に強烈なプレッシャーをかけてきます。

「どうせ今まで相手かまわず客をとっていたんだから売春してたんだから誰に抱かれようと今さらじゃないか」

「あの女に客をえり好みできる権利はない。今になって妙に気取るな」

「プロシアの上官は支配者で誰でも力づくでものにできるのに、人妻には手を出さず売春婦ですますのはむしろ立派だ」

などなど。

自分からそうする気にさせたほうがいい、と狡猾な手を考える人もいます。ユーディットなどの故事をひいて、諭そうとします。どんな強い男でも、女なら寝首をかくことができるというわけです。

みんなのために、とうとう「脂肪のかたまり」さんは同胞たちのためにプロシア司令官に抱かれました。

彼女のおかげで逃避行一行は先へと進むことができました。しかし人々はプロシア人に抱かれた「脂肪のかたまり」さんに対して、恩義を感じるどころか、冷たく接し、軽蔑さえするのでした。

身勝手な人間を描いた短編として評価の高い作品です。

感想。「いいひと」と「人間のクズ」。戦時下で評価が逆転する

一般的に堕落と見られている売春婦が「いいひと」で、一般的に高潔と見られている逃避行グループの貴族たちが「人間のクズ」だったという作品です。追い詰められた戦時下では人間の本性が剥き出しになります。ピンチの時こそ人間の本性があらわれるのです。

庶民が、兵隊に対してこんな文句を言います。

「あわれな国民の税金で養われているくせに、なんだって世の中の害になるために骨をおらなきゃいけないんだろう。せめて畑でも耕すか、道路工事でもすればいいのに。兵隊なんて誰のためにもならない。いちばん余計に殺したものが勲章なんかをもらってね」

ストーリー以外にも、ひとつひとつ小さなセリフに味があります。だからこそ名作と名高いんですね。

短編で、簡単に読めます。ご一読ください。

性格のいい売春婦は、モテない男の幻想、ドリーム

余談です。

『椿姫』のマルグリットもですし、『罪と罰』のソーニャもですが、『脂肪のかたまり』の脂肪さん同様に、文学作品には「けがれない心をもった春を売る女」がよく登場すると思いませんか? なんでなんでしょうか。

文学は、現実世界を映しだすものと思われていますが、これは本当に正しいのでしょうか? 一般的には間違っているように私は思うのですが。

昔、筒井康隆さんが「少女文学には、いじわるなお金持ちのお嬢様と、性格のいい貧乏人の娘が登場するパターンが多いが、現実世界では、お嬢様の方が性格がよくて、苦労をしている分だけ貧乏人の娘の方が性格がひがんで歪んでいることが多い」というようなことをおっしゃっていました。私の人生経験上もその通りだと感じます。そういう意味で少女文学は現実世界を反映していないドリームだといえるでしょう。

ついでにいえば、シンデレラなど貧乏人ほど美女のように描かれることがありますが、現実には、お金持ちの方が美人で、貧乏人の方がブサイクだと思います。たとえ親父がブオトコでも、お金持ちなら美人の奥さんをもらえるから、遺伝子的にもそうである確率が高いはずです。

それと同じようにいうならば、現実的には性格のいい売春婦というのは、モテない男の幻想、ドリームなのではないかと思います。性病の危険もありますし、本作の脂肪さんもそうですが、やはり意に添わないことを強制され続けると、人間の性格は歪んでいくと思います。苦労が多いと素直でまっすぐではいられなくなります。一般的にはお嬢様の方が性格がよくて、売春婦の方が性格が悪いのではないでしょうか。

現実がそうであるにもかかわらず、文学界隈には「性格のいい売春婦」がやたらと登場するのは、おかしなことです。

昭和の日本文学なんかにも「性格のいい売春婦との純愛」的な作品が探せばいくらでもあると思います。特攻隊の青年と売春婦の恋愛の物語なんかありそうな気がします。

現実世界を映しだすはずの文学でこんなことになってしまっているのは、作家たちが現実が見えていなかったのか、ドリームを承知で書いているのか、あるいは遊びすぎて女といえば売春婦としか触れ合わなかったのか、そのどちらかでしょう。

あくまで確率論ですが、現実を反映してちゃんと書いてもらいたいですね。文学がそんなことでいいんでしょうか? お嬢様より売春婦の方がいい女だと、青少年が現実を誤解しちゃうじゃないですか。

掃き溜めに鶴。泥土のなかに蓮の花が咲く、そんなイメージがいいのでしょうかね。

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