ドラクエ的な人生

『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ。白人が見た仏陀。解脱する方法

ヘルマン・ヘッセに『シッダルタ』という短編があります。

シッダルタというのは仏陀の本名です。ゴータマ・シッダルタというのが仏陀の本名。

イエス・キリストがユダヤ人だとすれば、仏陀はインド人かネパール人ということになります。

言われてみれば、古い仏像はインド人のような顔をしていますよね。五百羅漢はインド人軍団です。

ドイツ生まれの白人作家は、どのようにこのインドの哲人を見たのか、本を読んでみましょう。

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ん? 別人? 主人公シッダルタの他に、ゴータマ仏陀が登場する!

名門の出にして賢きシッダルタ。

当然ながら未来の仏陀が主人公の作品だろうと思いながら本を読み進めることになりますが、なんと作品の途中にゴータマという名の仏陀が別人として登場してくるのです。

ん? 別人か?

シッダルタの他にゴータマという名の仏陀が登場するのだとすれば、シッダルタとは何者なのか?

このあたりから小説『シッダルタ』は俄然面白くなってきます。

物語は今後、どういう展開となるのでしょうか?

小説『シッダルタ』理解のための重要なキーワードを解説しつつ、物語を追いかけてみたいと思います。

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輪廻とは何か? 梵=ブラウマンとは何か?

シッダルタは断食の生活の中で、生きることは苦しみだと感じます。

その苦しみから逃れるためには自己を滅却して我を脱し心を虚しくすることだと考えられていました。心さえなければ苦しみは感じないからです。心を空しくするのが修行の目的でした。

断食でフラフラの頭で、肉体を離脱し、輪廻を観想しますが、結局心は、おのれに戻ってきます。どんなに苦行しても、苦しみからは逃れることができませんでした。どんな瞑想もしばしの逃避に過ぎなかったのです。

輪廻というのは、宇宙や自然に内在する原動力(この原動力を梵=ブラウマンといいます)が永遠に流転することを意味しています。この考え方はブラウマンを物理学における原子だと考えると現代人にも非常に理解しやすいです。

宇宙のチリ(原子)は固まって星になり、星の一部はやがて土になり、水になり、星屑はやがて生命体となります。その命を構成した原子も、やがては死して宇宙のチリに戻ります。かつて生命体だった原子はやがて土となり水となり再び命となって永遠に流転していきます。

このような循環の思想のことを「輪廻」といいます。

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解脱とは何か? 梵我一如とは何か?

僕が僕であるための「何か」とは何だ? それを知ることを「自分探し」といいます。

他人と自分、世界と自分を隔てるものがありつづける限り永遠の苦しみは終わらないのです。ただふたつが同一だと悟ることができれば、他人と自分、世界と自分の区別はなくなっていきます。隔てるものがなくなれば苦しみはなくなる理屈です。この悟りの状態を梵我一如といいます。

我が我たるゆえん。自分探しをやめることこそが大切なのでした。それが「わたしはあなただ」といえる世界体験、神秘体験につながっていきます。

万物が姿を変えて永遠であるように、命も姿を変えて永遠だと考えるのが輪廻のもう一つの側面です。命が永遠に生まれ変わるとすれば、生きることは苦しみだから、永遠に苦しまなければならない。解脱とは「悟ること」ですが、悟るとはこの苦しみの輪廻の輪から抜け出すことを意味するのです。

仏教というのは基本的には「生きるという苦しみから逃れようとする宗教」なわけです。このことは忘れずに注意を払っておきたいところです。

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教外別伝。不立文字。みずからの体験によってしか悟りは得られない

シッダルタは修行に疑問を抱きます。それは苦行をして何かに到達できるのか、という疑問でした。

シッダルタは先達の「言葉」や「教え」では悟れないと直感しています。悟り、解脱の最大の敵は「知を求める心」「学ぶ」ということだと感じるのです。

親友ゴヴィンダにゴータマ仏陀に会いに行こうと誘われるが、シッダルタはあまり気乗りがしません。ゴータマ仏陀を胡散臭いと感じているからではなく、会ったところで返ってくるのは所詮「言葉」や「教え」でしかないからです。しかしゴータマ仏陀に会いに行くことで沙門(しゃもん)の修行の身を去ることができるから、とシッダルタは仏陀に会いに行きます。

しかしシッダルタはゴータマに直接会ったからとて、新しいことを学び得るわけではないとわかっていました。もうすでにゴータマの教えの内容は他人の口からではあるが、伝え聞いていたからです。本人の口から同じことを聞いても教えの内容そのものは変わりません。むしろシッダルタが興味を持ったのはゴータマの肉体の所作にでした。こればかりは直接見なければわかりません。

ゴヴィンダは仏陀に帰依しましたが、シッダルタは帰依しませんでした。友とはここで別れることになりました。

友をあずける仏陀にシッダルタは論戦を挑みます。

議論の要旨は「仏陀の悟りは疑わないが、それはみずからの体験により得たものであり他者の教えによって得たものではない。悟り、解脱は教えによっては授けられないものだ。入信し、教義を授けられても、教えでは解脱することはできない。みずからの体験によってしか悟りは得られない」というものでした。

教外別伝不立文字」(きょうげべつでん。ふりゅうもんじ)ということですね。「言葉じゃ伝えられない」ということです簡単に言うと。

「仏陀の教えが正しいことはわかっている。同じ境地に到達したい。そのためには言葉の弟子になってはダメなのだ。だから自分は入信しないのだ」というシッダルタの論戦に対し、仏陀は「賢すぎてはいかんぜよ」とたしなめてシッダルタを認め、二人は別れることとなりました。

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形而上学を捨て、実存主義者になる。自分探しの旅に出る。

仏陀の教えさえ捨てたシッダルタは旅に出て、ひとりのシッダルタを見つめます。現代哲学風に言えば、シッダルタは、形而上学を離れて、実存主義者になりました。

そして渡し守に河を渡してもらい、自分探しの旅に出るのでした。

河の向こうには遊女カマラがいた。異性ほど人間を成長させてくれるものはないとわたしは考えていますが、ヘルマン・ヘッセも同じ道程のことを書いておきたかったのではないかと思います。

カマラに受け入れてもらうために、シッダルタの堕落がはじまります。着物と靴と金のために、パンと果物のために。カマラとの性愛の生活のために。小児人種と心の中で軽蔑する大商人カーマスワミーに雇われて、世俗と快楽の生活を長い間シッダルタは送ることになるのです。

仏僧であることを捨て、富を味わい、歓楽を味わい、権勢を味わいました。禁欲、思索、超俗だった青年時代は終わり、世俗の官能によって多くのことを経験しました。女の快楽、美食の欲求、富と賭博に陶酔します。

物語としての『シッダルタ』は『仏陀の生涯』からは完全に離れていきます。世俗にまみれる仏陀なんていませんから。

そして小説として面白くなっていきます。自我や欲が物語を面白くするのです。

エンターテイメントは解脱とは無縁のものです。シッダルタも我欲にまみれ堕落していきます。しかし物語がそれで終わりませんでした。

仏陀と同じ名を持つシッダルタが、どのような悟りの境地にたどり着くのか、ゴータマ仏陀に啖呵を切ったことの決着をどう着けるのか、結末まで読まずにはいられない気持ちになります。

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死(老い)は人生の反省を促す最高の教師

欲に意地を張る生活から降りられなくなったシッダルタ。しかしとうとう「老い」が彼を捉えます。大商人カーマスワミーのような者になるために、父を、友を、仏陀を捨てて自分は河を渡ったのか。

シッダルタは後悔し、富貴な人生に別れを告げるのです。若い頃したように、もういちど出家をしたのです。

出家の旅の途中でシッダルタは死を思うほど絶望します。欲にまみれた生活を送り、真理から遠ざかってしまった、と。

人生の苦労の果てに思索人から小児人種に堕落してしまった。そして河のほとりで友ゴヴィンダと再会するのです。

「形あるものは無常、すなわちいつも途中」だと現況をシッダルタは友に報告します。

故郷へと戻る大河のほとり。渡し守ヴァズデーヴァにシッダルタは拾ってもらい、一緒に渡し守稼業をすることになりました。

ただ聴くことと素直な心をもっているだけのヴァズデーヴァにシッダルタは教えられます。しかし本当にシッダルタに教えてくれたのは渡し守ヴァズデーヴァではなく河そのものでした。河から世界を学ぶのです。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」鴨長明『方丈記』の冒頭を日本人読者なら思い浮かべてもいいかもしれません。

シッダルタが河から学んだことは、河は過去にあり、未来にもあるが、現在しかないということでした。輪廻も過去や未来ではなく、いっさいは現在にしかないという悟りでした。

愛したカマラと死に別れ、残された息子への煩悩に翻弄されるシッダルタ。先導者の役割を担ったヴァズデーヴァも去り、再びゴヴィンダと再会します。「形あるものは無常、すなわちいつも途中」と前回は答えたシッダルタは今度も違うことを言うのです。それが最後の言葉です。

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梵我一如。すべてのものに仏性がある

「時は実在しない」

えっ。時間は存在しないだって? これはまた大胆な価値破壊に来たなあとわたしは思いました。

「すべての隔たりは時がたてば一になる。隔たりは迷いに過ぎない。途中にあるのではない。不完全ではない」

敵は滅びるが、味方も滅び去ります。憎しみは消え、愛も消えるのです。すべては流れ去りやがて一つになります。だからもともと対立などはないのです。現在の姿がすべてであると悟ることがシッダルタにとっての梵我一如ということの意味でした。すべてのものに仏性があるということをシッダルタは言っているのだろうと思います。

ゴヴィンダが帰依するゴータマ仏陀とは違うことを言っているように聞こえるシッダルタの言葉。しかしシッダルタのほほえみは、ゴータマのほほえみと全く同じものでした。

このようにして小説『シッダルタ』は完結します。

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生きることはよろこびだと言えれば、それは悟り、解脱と同じ

シッダルタの「悟り」、いかがだったでしょうか。

そもそも「生きることは苦しみ。苦しみの輪廻から抜け出したい」っていうところをコペルニクス的に転換させればいいじゃないか、とわたしは思います。「生きることはよろこびだ」とどうして言えないんでしょうか。そう言えれば苦しみの輪廻からの解脱は果たしたも同然じゃありませんか。

よろこびを抱えたまま、よろこびを追いかける。それが生きることではないかとわたしは思います。それはもう悟り、解脱と同じことではないでしょうか。

あなたならどう思いますか?

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