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サイレントピリオド。どうして人は「英語、喋れる?」と聞くのだろうか?

サイレントピリオド(沈黙記)とは何か?

ネットニュースを見ていたら、保育園でなぜか無言の外国の子、という記事がありました。

親が外国出身だったりして、家では日本語以外の言葉を使っていた子どもが、日本の保育園に行くと、家でよく話す子供が、急に無言になってしまうのだそうです。この状態のことをサイレントピリオド(沈黙記)というそうです。

この時期、おしのようになってしまうのは、ひたすら聞くことで周囲の言葉(この場合、日本語)を頭の中にためているのだそうです。

大人にもあるサイレンスピリオド。

ハルト

っていうか、このサイレントピリオドって俺のことじゃね?

記事を読んで、私はそう思ったのでした。

わたしは今、かなり本気で英語の勉強をしているのですが、けっこう聞けるんですけど、流暢に喋ることはできません。

外国語習得者には、こういう段階があります。聞き取れるけど、喋れない状態の時が。

たとえば前置詞なんかがいい例ですが、前置詞に意味はないので、聞くぶんにはスラスラ聞き流すだけで済んでしまいます。しかしいざ喋るとなると、それが適切な前置詞なのかどうかわからず、口が動かなくなってしまうのでした。

in だか with だか at だか、使い分けられません。慣れれば、日本人が助詞を問題なく使いこなせるように使えるんでしょうが。

どうして人は「英語、喋れる?」と聞くのだろうか?

それにしても、どうして人は「英語、喋れる?」と聞くのでしょうか?

せめて「英語、聞ける?」と聞いてくれれば「うーん。そこそこイエス」と言えるのに。

でも生まれてから一度も「英語、聞ける?」と言われたことはありません。「英語、喋れる?」と聞くのがお約束のようになっています。

私は今後の海外大放浪の準備ために、英語勉強中です。せめて英語が聞き取れれば、最低限それで十分なのですが、そこでは終われないようなプレッシャーを「英語、喋れる?」という言葉から感じます。

だって、ものすごく聞き取れるようになっても、「英語、喋れる?」と聞かれたら、ノーと答えなければならないじゃないですか。聞き取れるけど喋れないんだから。

でもそれじゃあなんか悔しくないですか? せっかく進歩、前進したのに、まったく認められていないみたいで。

別に自慢するために勉強しているわけじゃないので、聞き取れれば(情報とれれば)十分のはずなんですが、そこでは終われないようなプレッシャーを感じざるをえません。

せめて世の人が「英語、聞ける?」と聞いてくるならば、そこで勉強をやめてもいいと思っています。しかし人々が「英語、喋れる?」と聞く限り、せめて「うーん。そこそこイエス」と言えるようになるまでやらなきゃならん、という気がして今日も英語を勉強しているのでした。

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