映画『獣人島』とH・G・ウェルズ『モロー博士の島』
この稿では映画と原作を比較して、両者の魅力を見ていきます。
天才モロー博士の研究は「進化の時を超える研究」進化の秘宝
『獣人島』という映画はこんなストーリーでした。
難破しているところを貿易船に助けられた主人公パーカー。パーカーは船長と喧嘩してしまい、その復讐で貿易相手の船に放り出されてしまいます。その船はモロー博士の島へと向かいます。そこは獣人の島でした。
モロー博士は天才科学者で、植物を未来形に進化させることに成功します。その技術で獣を人間へと進化させて、奴隷のように扱っています。彼らは博士の創造物であり、人語を話せるのでした。
「神になった気分が君にわかるか?」
天才モロー博士の研究は「進化の時を超える研究」でした。ドラクエ4の進化の秘宝みたいなものです。獣を解剖によって人間化する研究です。改造されたときの苦痛と恐怖から実験室は「苦痛の家」と呼ばれます。その恐怖と、掟の暗唱によって、獣人たちを縛るのでした。
ほとんどの獣人は猿から進化したようですが、博士に忠実なしもべは「犬」から改造したかのように描かれています。
島で唯一の女性ロタ。エキゾチックな美女だが、やはり獣から進化しているのでした。言葉はたどたどしく、獣性が消しきれずに、いつのまにか爪がするどい獣の爪になってしまいます。ロタだけでなく獣人たちは隠そうとしても野性が発現してしまうのです。
モロー博士は、ロタがパーカーを愛したり、性交したり、妊娠したりするか、試そうとします。獣人とのエロチックな関係が映画の見せ場のひとつとなっています。異種姦を連想させるのです。ヘンタイですね。
博士が苦痛の家で拷問まがいの実験をしていることと、ロタが獣人であることに気づいた主人公は、島を去ろうとするが、そうはさせてもらえません。やがてパーカーを助けに来た、恋人女性と船長。その船長の殺害をモロー博士は命じます。そのことによって人殺しはOKとなり、「掟の縛り」がとけてしまいました。
「よくもこんな化け物にしたな」
モロー博士は獣人たちの反逆にあい、苦痛の家で拷問死します。
パーカーの逃亡をロタが命がけで助けてくれます。獣にも愛情があることの表現でしょう。なんとかパーカーは島からの逃亡に成功します。
「振り返るな」
モロー博士の助手から、島でのことは忘れるように助言されるのでした。
『モロー博士の島』のあらすじ、内容、魅力、感想
映画『獣人島』に対して原作の『モロー博士の島』は、もっと奥深いものでした。
名前はエドワード・プレンディック。両親の遺産で気楽に生活できる身分だが、倦怠をまぬがれるために、自然科学の研究に熱中しだした。
外見だけは人間だ。人間といっても、よくなれた家畜のような、異様な空気を漂わせている。いったいやつは、人間だろうか、けものだろうか?
人間を生きたまま解剖する——そんな残虐なことがこの世にありえようか。
おきてを教えてやれ。そむくとおそろしい罰を食うぞ。言葉を用いよ。這い歩くなかれ。汚いものを好くのはよくないことだ。
この海でおぼれ死のうというのさ。残酷な目にあうよりはましではないか。
この連中だって元は人間だった。それを無残にも動物化して奴隷にしてしまったんだ。
よく聞いておけ。この二人はお前たちを支配しているようにみえるが、実際はおまえたちにおびえているんだ。なぜおまえたちはこの二人を怖がるんだ。お前たちは大勢なんだぞ。
人間からではない。獣類から造ったのだ。生体解剖でな。人間化したんだよ。
模倣的人間生活を送っているものの、その精神はやはり獣類のそれにすぎぬ。生きることと、繁殖すること、ただそれだけを目的として日を送っておるのだ。
鞭を持てる第二の人よ。おきてはなおありや? あのひとは死んだんだが。
あの人は死にはしないぞ。あのひとは、今も、あそこから見おろしている。こちらからは見えぬが、あのひとは見ておられる。おきてを守れ。
さて、作品のオチです。人間世界に戻った私(エドワード・プレンディック)に起こったことは——
道で会う男も女も、決して人間ではない。人間の魂をまねて作り上げた獣人のひとりで、人間の外貌こそそなえてはいるが、徐々にまた本来の獣性にもどり、乱暴な獣の姿をあらわすときがくるのではないだろうか。あのモロー博士の島の連中と同じで、いつまたむかしの獣性に後退して、乱暴な牙をむきだしてこないものでもない。
その好奇にかがやく目がたまらなく不気味なのだ。
壇上で説教をしている牧師の言葉は、なんとあの猿人が好んで口にしていた「大きな考え」にそっくりではないか!
汽車やバスに乗り合わせる。からっぽで無表情な顔つきだ。これがどうしてわたしとおなじ人間であるものか。
文学的に深いオチが全部カット。
映画『獣人島』に対して原作の『モロー博士の島』は、もっと思想的に深く、オチも文学的なものでした。
『獣人島』はただのホラー映画作品になってしまいましたが、原作はあくまでも現実に戻った主人公が、自分のそばの人たちを見て獣人と何が違うのか? と懐疑的になって世捨て人になるというストーリーです。
インターネットの充実で情報化社会となり、もはや戦争のような悪で非生産的で非経済的で非効率的なことはもう起こらない(『サピエンス全史』にもそう書いてあります)と誰もが思っていましたが、ウクライナではロシアと真っ向勝負の戦争がいまだに行われています。戦争はけっして獣人が起こしたものではありません。あなたの隣に住む普通の人たちがある日突然獣人のようになって凶暴で非人間的なことをするのです。
× × × × × ×
このブログの筆者の著作『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』
戦史に詳しいブロガーが書き綴ったロシア・ウクライナ戦争についての感想と提言。
『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』
●プーチンの政策に影響をあたえるという軍事ブロガーとは何者なのか?
●文化的には親ロシアの日本人がなぜウクライナ目線で戦争を語るのか?
●日本の特攻モーターボート震洋と、ウクライナの水上ドローン。
●戦争の和平案。買戻し特約をつけた「領土売買」で解決できるんじゃないか?
●結末の見えない現在進行形の戦争が考えさせる「可能性の記事」。
ひとりひとりが自分の暮らしを命がけで大切にすることが、人類共通のひとつの価値観をつくりあげます。それに反する行動は人類全体に否決される。いつかそんな日が来るのです。本書はその一里塚です。
× × × × × ×
そんな恐怖を表現したHGウェルズの原作のほうが奥が深いに決まっています。しかし映画ではそこの深い人間洞察、作者の比喩は完全カットされて、ただのホラー映画みたいになってしまいました。
どうしてそこの肝心な最後のオチを省くんでしょうね? 作者のいちばんいいたかったことは、ラストシーンのオチにこそあると私は思うんですけどね。監督や脚本家にはなにもわかっていなかったのか、あるいは商業的な理由からでしょうか?
本作は1896年に刊行されたそうです。その後、人類は世界大戦や、異人種絶滅作戦などを経験することになるのです。その人たちの顔は、モロー博士の島にいた獣人たちと、いったいどこがちがうというのでしょう。