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ヘンリー・ミラー『北回帰線』熱狂的な愛好者が多い理由

ヘンリー・ミラー『北回帰線』

作者の自伝的な小説です。アメリカ人の主人公がパリで暮らしながら、感じたことをつどつど語るという、小説のようなエッセイのような作品です。いわゆる物語のような事件とか起承転結はありません。意識の流れを追いかけていくという作風です。

私は先に南回帰線を読んでいて、その斬新な作風が予想していたものとあまりにも違ったことから、それほど名作として推すつもりはないのですが、人と離れた場所に輝く星だけに熱狂的なファンも多いようで、書評は多くの人に読まれました。私が気に入った文章だけを抜粋して語るという私の書評スタイルと、ヘンリーミラーはとても相性がいいといえるでしょう。なにせストーリーがないのですから、抜粋上等です。

そんなに多くの人をとりこにするのならば……南にはなくても北にはあるかもしれないと思って読んだというのが本当のところです。

北回帰線の詳細

おれは女の肉体を燃え上がらせるすべを知っている。おれは、お前の体内へ熱い鉄くぎを打ち込んでやる。いやというまで付きまくってやろうか、タニア。

→のっけからすいません。しかし『チャタレイ夫人の恋人』のように『わいせつ裁判』の俎上に上がった作品としても本作は有名です。どれほどの猥褻なのか、さぐってみましょう。

われわれはみんな死んだか、死にかけているか、これから死ぬかなのだ。

満腹した日々はあっただろうか。もちろん誰と一緒に寝たかということによって差別はある。肝心なことは男だ。彼女を恍惚にもだえさせることのできるもの。結合の感じ、生命の感じをあじわいながらこすらせることのできるものを股の間にもっている男。それだけが彼女にとっては人生を経験する唯一の場所なのだ。

→こういうセリフを言う男はよくいますが、女はいませんね。

もし僕が忠実だったとしても、それはジュルメーヌに対してではなく、彼女が股の間に持ち歩いているあの毛深いものに対してなのである。ぼくは他の女を見ると、あの燃えるような茂みのことを思った。

きみたちは何の権利があって、私の時間を盗み、私の霊魂に探りを入れるのか。私は君たちの雇い演芸師であるのか?

私は自由人である。私は孤独を欲する。ひとり静かに私の恥辱や絶望について思索することを欲する。

→ヘンリーミラーは性欲だけでなく、自由についてよく語ります。

自分がまったくのゼロになってしまったことを考えていた。なんたる無能、なんたる無力。ミスター無用の人。

なにごともあてにすべきではない。ぼくの人生を一変してくれるような外在的事件が起こるのを期待してきた。ところがいま卒然としてあらゆることの絶対の絶望に目覚めて、ぼくはほっと救われた思いがした。もうなにものにもすがるまい。今後俺は猛獣として、浮浪者として、略奪者として生きていこう。それが運命なら銃剣をとり突っ込んでやる。柄まで突っ込んでやる。猛然とやってやる。

人間は再び野蛮人の如く裸にされた自己を発見する。生きることが至高のものなら。

→生きるとは何か、について語るから、本作は文学としてわいせつ裁判に勝利しました。

もし向こう側になにかあるなら。単に精神的に死んでいるだけだ。肉体的に生きているのだ。おれを肥えさせるため、おれは前進する。

なあ、おれの望みは、すばらしい女を見つけることだよ。みんな抱かれにここにやってくるんだ。しかもそれを罪深いことかなんぞのように思っていやがる。哀れなる阿呆どもよ、だ。たいして手間はかからんよ。やりたくてたまらない女たちだもの。あたしを愛している? なんてききやがるんだ。こっちはそいつの名前さえ知らねえというのに。こっちがしかけるのを待っていないんだ。向こうからせがむんだ。俺は実際、女がいやになってきたよ。

→嘘つけ! 賢者モードなだけだろう!

畜生、こんな微笑ができるすばらしい牝鶏を見つけることさえできたならなあ。すばらしい牝鶏だけが今のおれを救うことができるんだ。

→ほら、やっぱり。

おれには恋愛というやつができんのだよ。あまりにもエゴイストでありすぎるのだな。女は単におれに夢見る力を貸してくれるだけなんだ。時々俺は自分にぎょっとすることがあるよ。あまりに一物を引っ張り出すのが早いことに。まるで機械的にやっているだけなんだ。

やつらはかねを欲しがるか、さもなければ結婚したがる。あの尻を見ろ。でっかいだろう。あの尻は世界中をやっつけてしまう。なぜおれがあの女にはまりこむのか自分でもわからん。あいつの尻のせいだろうな。しかし、あの襞ときたら。誰しもあの女を抹殺することはできないよ。

→露骨と言えば露骨ですが、この程度です。ポルノとは違うのがわかりますね。

俺は言ってやったよ。あなたにあきる男なんてありうるでしょうか、とね。

彼女がもうちょっと若ければ申しぶんないんだがね。若い女ならなんでも大目に見てやれる。ところが大年増とくると、世界中で一番魅力のある婦人であってもぜんぜん変わりがない。婆さんにできることといったら、ものを買ってくれるくらいのことさ。

きみが彼女と結婚して勃起しなくなったら——こいつはよくあることなんだ——その時はどうする?

狆ころみたいに彼女の手から食わしてもらわなければならない。きみは彼女を裏切ることすらできないんだぞ。

生涯の残りを不具者ですごすとしよう。そしたらもう彼女をほじくってやる心配もいらないし、部屋代で苦労することもないわけだ。君はものを書くことができる程度に両手だけうまく使えるかもしれない。それが作家にとっては一番いい解決だ。ものを書くのに必要なのは生活の保障、安定、庇護だ。戦争に行って足だけ吹っ飛ばされることがはっきりわかっているなら、明日にでも戦争をおっぱじめようじゃないか。

→主人公は、芸術、小説執筆についても語ります。主人公はヘンリーミラーそのものなのです。

そのあとで起こったことが、おれを気ちがいみたいにするのだ。奴は膝をついて細い二本の指で小さな花を押し開いた。それから奴は顔を彼女の中に埋めた。ああいう美しい上品な女が脚を奴の首に巻き付けたんだぜ。

女というやつは、どんなものよりも、おれの心を引き離す力があるからね。おれが女に望むのは、それだけだよ。われを忘れることさ。

女というやつは、抱かれていい気持ちにさせてもらうだけでは足りないらしいな。人の魂までほしがるのだ。

おれ自身から、おれというものを女に引きずり出してもらいたいんだ。この地上に、おれ自身よりも大切なものがあるということを、女がおれに信じさせてくれさえすればそれでいいんだ。

→苦悩を忘れさせてくれ、と心で叫んだことはありますか? 私にもあった気がしますが、もうはるか昔すぎて忘れてしまいました。忘れたいと心から願ったせいか、ほんとうに思い出せません。ここで作者が言っているのはそのことでしょう。

おれを食い荒らしているのは自分自身をはっきりと表現できないことだ。

あんたは勃起すれば情熱的になったと思っているんだわ。なるほどそいつは情熱ではないかもしれない……しかし情熱的になれば勃起せずにはいられないぜ。

あそこを剃っちまった女と寝たことがあるかね。いやなもんだぜ。死んだ蛤かなにかみたいなんだ。あんなに真剣に女の部分をのぞいたことはないよ。しかも見れば見るほどそいつに興味がなくなってきた。結局のところ、あれにはなにもないということがわかっただっけさ。あれを神秘的なものにしているのは毛だよ。女なんてものは、みんな似たり寄ったりだね。両足のあいだに割れ目があるだけのことさ。そいつに男はみんな夢中になるんだ。まるでペニスが代わりに考えてくれてるようなもんさ。おれがあれを見るのがたまらなく好きだったのも、あれが絶対に無意味だからだよ。あそこには何もない。

→発情中に賢者モードでいられるとは、なかなかの男ですね。

アメリカでは人々はいつの日か大統領になることしか考えない。パリでは違う。ここではあらゆる人間が潜在的にはゼロなのだ。もしなにものかになれば、それは偶然のことに属する。けれどもチャンスが万人にないからこそ、ほとんど希望がないからこそ、ここパリでは人生が楽しいのだ。来る日も来る日も、昨日もなければ明日もない。

→夢のせいでつらいという人は、その夢を捨ててのんびり楽しめばいいのです。それはアメリカからパリへ移住するようなものです。

すべてはただひまつぶし。観念と生活とのあいだに関連がないため、なんの憤慨も不快も起こさない。

ぼくの人間の世界は消滅した。ぼくはこの世界でまったくの孤独だ。友人をもつ代わりに、ぼくは街をもった。街はぼくに向かって、人間の悲惨、渇望、悔い、失敗、浪費された努力などのまじりあった、あの悲しい、痛々しい言葉で話しかけてきた。

こんなことってあるかね、あのプリンセスの野郎、淋病にかかっているんだとよ!

こんな汚いボロ服じゃ、男をたらしこむことができないじゃないの。「あなたがせがむから寝てあげたんじゃないの!」あたし男の鼻先で大笑いしてやったわ。

おれはおふくろさんが好きになったね。娘より器量がいいんだ。さきにおふくろさんのほうに会っていたら、おれは娘なんか相手にもしなかっただろうな。

おれは理性的とか論理的になんぞなりたくない。でたらめにしていたいのだ。カフェに座り込んで一日じゅう駄弁を弄しているなんてまっぴらだ。無為であるよりは、失敗をやらかしたほうがましだ。アメリカで浮浪者になっているほうがましだ。

おれたちはいつまでもアメリカ人であるよりほかはないのだ。おれはここの人間ではない。フランスには、もうへどが出そうだよ。

→ヘンリーミラーは文学への夢をあきらめきれませんでした。

革命を起こすことはできない。腹から不潔なものを洗い出すことはできないのだ。

いまごろ、あいつはあいつの道を進んでいるのだ。あいつは英語の喋るのを聞きたがっていた。なんという考えだ!

行きたければ、おれもアメリカへ行けるのではないか。おまえはアメリカへ行きたいか?

あらゆることが静かにふるい落とされてしまう。セーヌはあまりにも静かに流れていく。ぼくはこの川がぼくの中に流れ込んでゆくのを感じる。

→ こんな感じです。北回帰線も南回帰線も同じようなものでした。この小説が好きな人は確実にヘンリーミラーを好きになります。

ドラゴンボールと鳥山明さんが別であるように、ワンピースと尾田栄一郎さんが別であるように、ふつう、作品と作者は別物なのですが、小説と作者を切り離して考えることができないというところは、ヘンリーミラーは太宰治などと似ているかもしれません。

まだ文学者がスターとして通用する時代でした。

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