ユーミン主義とは? 遊民哲学
天才も老い、すべては未完成に終わる
天才も老い、すべては未完成
ロンダニーニのピエタと呼ばれる作品をご存知でしょうか。サン・ピエトロ大聖堂の「この世のものとは思えないほど美しいピエタ」を彫った天才、ミケランジェロの最後の彫刻作品といわれるものです。サン・ピエトロのピエタほどの彫刻を二十代でつくってしまった天才は「芸術家の中の芸術家」とか「神の如き」など、生前から最高の賞賛をうけた芸術家でした。その彼が、老境に達して作り上げた最後の彫刻がどんなものか、興味がありませんか?
私はこのミケランジェロ最後の作品、ロンダニーニのピエタを見たことがあります。ピエタというのは、十字架から降ろされたイエス・キリストの亡骸を抱く聖母マリアを主題とした作品のことです。だから聖ペテロ大聖堂のものだけでなく、ほかにもピエタと呼ばれる作品がたくさんあります。「十字架のキリスト」みたいな、よくあるタイトルの作品だと思っていいでしょう。
ロンダニーニのピエタは、神の如しと称えられたミケランジェロが八十代で制作した生涯最後の作品でした。老いた彼は、腰が曲がって、鑿を振るう力もなく、視力を失いながら、病に倒れる前日までこれを彫り続けたと言われています。それほどまでに執念を燃やして取り組んだ遺作ですが……悲しいほどに不出来です。そして悲しいほどに未完成です。二十代の頃のピエタとはくらべようもありません。多くの人がガッカリして足早に通り過ぎていくその彫刻の前で、私は腑抜けたようになって、しばしたたずんでいました……。
「天才も老い、すべては未完成で終わる」
私が感じていたのは、ある種の哀しみでした。その時の気持ちをあえて言葉にすればこういったことだったでしょう。あのミケランジェロの最後の作品がこんなものとは……。若き日に「神がかった作品」をつくった人間が、人生の最後に、こんなものしか作れなかったのか。
不出来な彫刻の前でいろんな思いが湧きあがります。努力とは、成長とはなんなのでしょうか。ロンダニーニのピエタを見ていると、人間の生涯は、手に入れるものよりも失うもののほうが多いのではないか、と思わずにはいられません。彫刻は、聖母のかなしみではなくて、人生の残酷な現実を表現している気がしてなりませんでした。
時間が足りない。それが人生。未完成でもそれが人生。ゴッホのように無名のまま死んだ芸術家とは違って、ミケランジェロは生前から芸術家としての富と名声を手にしていました。なにも無理してこの作品をつくらなくてもよかったのです。それでもミケランジェロが死の前日まで鑿をふるっていたということが、後世の私たちに何かを伝えてくるのです。
死ぬ前に気づくことというのは、たぶん「ありきたりのこと」
天才も老い、すべては未完成
私はミケランジェロの最後の作品に多くの期待をよせすぎたのかもしれません。私たちは偉人や天才に何かを求めすぎているのでしょう。偉大な天才たちの生涯には、凡人の知らない人生の真理が隠されているはずだ。彼らはそれをどこかに残して死んだはずだ。たとえばお経とか聖典のなかに。私たちはそんな幻想を抱きがちです。まえがきに登場した玄奘もそのひとりです。
西天取経『西遊記』におけるスカトロジー(糞尿嗜好)、食人習慣、人身売買、道教と仏教
しかしよく考えてみれば、ミケランジェロをはじめ、この地球上でこれまでに何人の天才たちが生まれ、去っていったでしょうか? 死ぬ前に天才たちが真実を悟ったり、なにかを残しているのなら、この世は真実に満ち溢れているはずです。
しかしそんなものはどこにも見つかりません。きっと死ぬ前に気づくことというのは、たぶん「ありきたりのこと」なのです。
「自分が死ぬ」前提でないと仕事はやめられない。
人間というのは「いつわりの永遠」を信じて生きています。何もかもいつか消えてなくなるという考え方は気持ちよいものではないために、昨日のように明日も続くと仮定して「いつわりの永遠」を生きています。このままずっと生きていく前提で日々暮らしています。私も昔はそうでした。もしかしたら自分だけは特別で、死ぬことはなく、ずっと生きていられるんじゃないかと思っていました。ところがシリアスにタイムを追及していたマラソンレースで自己ベスト記録が更新できなくなったあたりで、そうじゃないことに気がつきました。自己ベストが更新できないということは、そこがピークで、自らの衰え、老いに直面していることを意味します。
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雑誌『ランナーズ』のライターが語るマラソンの新メソッド。ランニングフォームをつくるための脳内イメージ・言葉によって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化して速く走れるようになる新理論。言葉による走法革命のやり方は、とくに走法が未熟な市民ランナーであればあるほど効果的です。あなたのランニングを進化させ、市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
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●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」の本当の意味は?
●【肉体宣言】生きていることのよろこびは身体をつかうことにこそある。
(本文より)
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・ピッチ走法には大問題があります。実は、苦しくなった時、ピッチを維持する最も効果的な方法はストライドを狭めることです。高速ピッチを刻むというのは、時としてストライドを犠牲にして成立しているのです。
・鳥が大空を舞うように、クジラが大海を泳ぐように、神からさずかった肉体でこの世界を駆けめぐることが生きがいです。神は、犬や猫にもこの世界を楽しむすべをあたえてくださいました。人間だって同じです。
・あなたはもっとも自分がインスピレーションを感じた「イメージを伝える言葉」を自分の胸に抱いて練習すればいいのです。最高の表現は「あなた」自身が見つけることです。あなたの経験に裏打ちされた、あなたの表現ほど、あなたにとってふさわしい言葉は他にありません。
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私はマラソンで自己ベストを更新できなくなって、しばらくして勤めていた仕事をみずから辞めました。経済的な自立を達成し、早期にリタイアするというライフスタイル、FIRE(Financial Independence, Retire Early)という考え方があります。最近はやりの言葉ですが、その流行に乗ったわけではありません。この言葉がはやる前に辞めていますし、仕事に人生を捧げない生き方は、古くからありました。同じ生き方、考え方は昔からあったのです。
仕事を辞めるにあたって、私には大きな葛藤がありました。それは自分はいったい何歳で死ぬのだろうか、ということです。早期退職というものは「自分が死ぬ」前提でないと考えられません。なぜなら、もしも永遠に生きられるなら、明らかに退職後の財政収支はいつかマイナスになってしまいます。働いているうちはまだ「いつわりの永遠」という幻想をいだいていけます。すくなくとも働き続けている以上、ずっと生きたとしても財政収支は赤字にはならないからです。でも退職すれば、いつかは収支がマイナスになる。いわゆる「長生きリスク」「高齢者貧困」問題に直面しなければなりません。いつか死ぬ前提でなければ仕事をやめることはできないのです。
早期退職するということは「いつわりの永遠」幻想をきっぱりと諦めて、自分がいつか死ぬことをリアルに認めるということです。これが六十歳ならば体のあちこちにガタが来て、否応なしに「いつわりの永遠」を諦められるかもしれません。しかし四十代でFIREした場合はどうでしょうか? まだ肉体は若々しく活力横溢です。その状態で自分の死を現実のこととしてリアルに受け入れられるでしょうか?
金銭的に不安がないのに、多くの人が早期退職を実行できないのはこの「いつわりの永遠」幻想に生きられなくなる恐怖が原因なのだと思います。あるいはFIREを達成してもまた仕事に戻るのは「いつわりの永遠」幻想の中で生きていく方が楽だからではないでしょうか。自分が死ぬということを、まだ健康な若いうちからリアルに認めるということはなかなか辛いことです。しかしそれを直視しなければ早期退職はありえません。
死を見つめるのは辛いことです。自分はいつか死ぬ。この幸せもいつか終わる。それを認めなければ、退職などできるものではありません。
私が決断にあたってもっともつらかったのは、じつはそのことだったような気がします。
ユーミン主義
バックパッカーとして東南アジアを回っていたときに、何もしないで寝転がっている人「遊民」を少なからず見かけました。
マレーシアのマラッカでのことです。私は真昼間から公園やベンチに寝転がっている人たちをたくさん見ました。小汚い格好で、ラフなサンダル履きの男たちです。
同じ街で、スーツ姿のサラリーマンを見た時、私はギョッとしました。日本では当たり前のスーツ姿のサラリーマンですが、マラッカでは違和感しかありませんでした。
(なんでこの人はスーツなんか着て仕事をしているんだろう。かわいそうに……)
彼に憐れみをおぼえたことを、今でもよく覚えています。黒いビジネスシューズを履いたスーツ氏が、働かざるを得ない、貧しい人に見えたのです。そしてそう感じた自分に驚愕しました。
マラッカでは、何もせずに寝転がっている人たちの方が豊かに見えました。仕事がなくて困っているという雰囲気ではなくて、別に働かなくてもいいから働かないという感じでした。これは私にとって衝撃的な体験でした。スーツ姿で一生懸命働いている人が貧しい生き方をしているように見えたのですから。
(みんなが休んだり遊んだりしているのに、自分だけ働かなきゃならないなんてかわいそうに)
スーツ氏をあわれんだのは強烈な印象でした。決まりきった時間に決まりきった場所に行って決まりきったことをしなければならないのは、一番貧しい生活なのかもしれません。逆に寝転がってなにもしていない遊民がじつに豊かに見えたのでした。
豊かさを金銭面で語るのならば、実際にはスーツ氏のほうが豊かで、寝転がっている遊民は豊かではないのでしょう。でも私には豊かに見えました。どっちになりたいかと聞かれたら、サンダル履きの方になりたい、と私は即答したでしょう。
遊民の豊かさとは金銭的なものでは決してありません。しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝ものです。
この時の強烈な印象が、わたしのユーミン主義の原点です。明治末期の高等遊民と区別するために、この感じ方のことをユーミン主義とカタカナでゆるく名づけました。
ユーミン主義とは、学問とか社会的地位や資産の有無で人生の豊かさを判断しない生き方のことです。自分の好きなことができる時間の量、したくないことをしなくてもいい自由、遊びたい時に遊び、のんびりしたい時にのんびりできる時間を大切にする考え方をユーミン哲学、ユーミン主義と私は呼んでいます。
そもそも人生の豊かさとは貯金残高で決まるものでしょうか。
しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝もの
ユーミンの豊かさとは金銭的なものでは決してありません。しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝ものです。ほんとうに美しいものは、すべて無料です。カネで買えるようなものは、じつはたいしたものではありません。
ユーミンは寝転がったり、喋ったり、遊んだりしています。ユーミンは豊かです。ありあまる時間が人間関係をつくりあげています。日本のホームレスが遊民に見えないのは、気候の影響が大きいでしょう。暑すぎる夏や寒すぎる冬が彼らをみじめにさせます。とくに寒さは人間の思考を変えてしまいます。暖房と食事のために人は労働するのです。なにごとも天候しだいです。母なる自然にはかないません。
プラスを獲得する人生。マイナスを排除する人生
ユーミン主義はFIREと似た概念ですが、FIREには「貧乏に陥らないようにする備え」のニオイがプンプンします。それに対してユーミン主義はそんなものはケセラセラです。貧乏なんて意に介しません。FIREは「とにかく仕事を辞めたい」という動機が見え隠れしていますが、ユーミン主義は「しばりのない豊かな時間を遊んで暮らそう」という積極的な態度です。仕事が楽しければやればいいのです。
ユーミンの豊かさとは金銭的なものでは決してありません。しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝ものなのです。
人生は一度きりです。いい人生を送るために、一番わかりやすいシナリオは、何かを獲得してプラスになることでしょう。たとえば仕事を得て収入を得る、恋人を得て歓びを得る、子供を得て人生の深みを知る、趣味を得て人生を充実させる、など。
獲得する人生はわかりやすくて説得力があります。しかし問題は、何もかも全部得られるわけじゃないってことです。どこかで利害が対立し、どこかで挫折します。たとえば「子供を得て人生の深みを知る」と「趣味を得て人生を充実させる」は両立しがたいことがあります。人の時間は有限だからです。「子供はかわいい。だけどウザイときもある。子供にスイッチがあって、好きな時にオン、オフできればいいのに」と言った先輩がいました。いいところ取りができればいいのですが、そうそう人生あまくありません。プラスを得た時、じつは同時にマイナスも得ているのです。
みんな人生でプラスを獲得することばかり考えていますが、マイナスを排除する人生っていうのを考えてもいいんじゃないでしょうか? そのほうがずっと簡単で、効果があります。
たとえば「子供が欲しくないわけじゃないが、お金も余暇時間も取られすぎるから自分にとってはマイナスのほうが大きいから諦める」とか。得ることばかりにこだわるということは、得られなかったことにこだわることと同義です。得られなかったことにこだわると、後悔ばかりの人生になります。むしろマイナスを排除したことから生じたプラスに目を向けたらどうでしょうか。そちらに目を向ければ人生は充実します。たとえば仕事で名声を得るのは諦める、とか。いっけんするとマイナスのようですが、そうすることによって好きなようにつかえる自分の時間をたくさん得ることができます。
何かを獲得するよりも、何かを捨てることのほうが簡単です。何かを獲得するためにあくせくすることに疲れてしまったら、いっそ手放したらどうでしょうか。それがユーミン哲学です。捨てるのは、損したことではありません。そのマイナスの裏に必ずプラスがあるはずです。
死ぬ時に3000万円の貯金を残して死ぬとすれば、それは3000万円ぶんただ働きしたのと同じことです。その労働は必要なかったということですから。死ぬ直前に「その金はいらないから、それを得るために使った時間を返してくれ!」と叫びたくなるような生き方はしたくありません。それが私の時間主義です。
私は人生とは時間のことだと思っています。お金よりも時間のほうが大切です。
私にとって人生の目的とは、感動的で豊かな時間をなるべくたくさん経験することです。もっとも忌むべきことは、人生を無駄にしてしまうことです。
感動的で豊かな時間がたくさん持てるように生きることは、たった今からでも可能です。大切なのは、お金でなく、時間ですらありません。いのちの輝きなのです。それがユーミン主義です。

