ドラクエ的な人生

『赤毛のアン』かわいい子犬を飼ったら家族はどう変わったか実験みたいなお話し

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子犬を飼う。アンをもらう

畑の働き手として孤児の男の子をもらおうと考えたグリーンゲイブルズの兄妹が、まちがえでやってきた赤毛の少女アンを引き取ります。空想豊かでおしゃべりなアンが兄弟や周囲を幸せ色に染めていく、というお話しが『赤毛のアン』。

原題は『グリーンゲイブルズのアン』、それを『赤毛のアン』と訳したのは連続テレビ小説『花子とアン』の主人公にもなった村岡花子さんです。

『赤毛のアン』にはとりたてて大きな葛藤(バトル)はありません。他の少女向け作品にくらべてもトラブルもすくなめ。とくにいじめ描写はすくないです。ただ可愛い少女が周囲を変えていくだけの話しです。

本人は赤毛をやけに気にしていますが、周囲からのいじめもほとんどありません。

1908年刊行。作者のルーシー・モード・モンゴメリはカナダ人です。たぶん私はカナダ人作家の本を読むのはこれがはじめて。カナダ文学は日本人にはなじみ薄ですね。

ストーリー展開は以下のとおり。高畑勲宮崎駿両巨匠がかかわった世界名作劇場『赤毛のアン』アニメも見ましたが、ほぼ原作どおりのストーリー展開でした。

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『赤毛のアン』の時系列構成表。内容、あらすじ

・もらわれる孤児アン登場。男の子じゃなくて女の子だった。

・緑の切妻屋根グリーンゲイブルスへアンを連れていく。

よくしゃべる想像力豊かな女の子。

「あの子が何の役に立つというんです?」

「わしらのほうで、あの子の役に立つかもしれんと思うが」

→ 本作一番の名ゼリフが作品冒頭に登場します。このセリフをラストまで覚えておくといいでしょう。

この言葉が逆転するのが『赤毛のアン』の面白さです。

面白い子だよ。あの子はおまえさんの話し相手になろうが。

・独身オールドミスのマリラがアンを育てることになりました。泣いて喜ぶアン。

→ アンはこの時のよろこびをずっと忘れません。

・あんたがそんなことを言われたらどんな気持ち? あんたの心を傷つけたってあたし平気だわ。

・想像力で謝罪を楽しむアン。

→ 物語の中で謝罪するヒロインに自分をなぞらえてしまうので、謝罪が謝罪にならないのです。

・そでが膨らんでいないのが不満のアン。

→ いかにも少女もの、ですよね。ハックリベリー・フィンの冒険にはぜったいに登場しない一章です。

・心の友ダイアナ。

→ アンは「心の友」という言葉を使いたがるのですが……そういう人、もう一人知っています。剛田武か?

・紫水晶のブローチの紛失事件。アンのせいにされる。ピクニックに行きたいあまりに謝る。

・あの子のいる家には退屈というものはない。

→ マリラの心はこのあたりから完全にアンに対して開かれています。原作はアニメ版よりもマリラの心がはっきりとオープンに描かれています。

・ギルバートににんじんとからかわれ反撃。嫌いになって成績で競うようになる。

・ダイアナが結婚して去る想像で泣きだし、マリラに笑われる。

・ダイアナが遊びに来て間違いで葡萄酒を呑み酔っぱらう。ダイアナの親から絶交を言い渡される。

・ダイアナ妹の喉頭炎の治療をして、ダイアナ母から交際を許される。

・ベッドにダイブしたら老婦人がいて、すなおに謝罪して親しくなる。

→このお婆さんは最後には、アンのことを養女にしたマリラのことをうらやましがることになります。犬を飼っているうちを、飼っていない人がうらやましがる構図ですね。

・お料理の失敗。

・屋根から落ちる。マリラの心配。地球上の何よりもアンが大切だと思った。

→ 「家族」になった、ということでしょう。これはそういう物語なのです。

・髪を緑色に染めてしまう事件。

・舟の沈没。ギルバートに助けられ「仲よくしよう」といわれるが拒絶してしまう。

→ 日本人でもこの年頃の男女は仲が悪かったりします。「赤毛のアン」にはそれが描かれています。

・町に品評会を見に行く。もしいつもアンのような子供をそばに置いとけるなら、私ももっと満足な、いい人間になれただろうにね。

・お受験クラスで教育を受けさせてもらえることになる。

・マリラはアンの背が伸びたことになんとなく残念な気持ちをもった。かわいがっていた子どもが消えてしまって、何かなくしものでもしたような、名残り惜しさを感じた。

・奨学金で合格する。朗読会で堂々と暗唱する。

マリラはアンをしっかり抱きしめて、このままはなさないですむものなら、と思っていた。

あの子は神さまのおめぐみだ。わしらにあの子が必要だということを、神さまがご覧になったんだと思うよ。

あたしはグリーンゲイブルズにすみれが咲いている限り、奨学金をとろうがとるまいが、たいしたことじゃないわ。力を尽くしたし、たたかいのよろこびがなんだかわかり始めたの。努力して勝つことの次にいいことは、負けることよ。

・エイブリーをとったのは男の子じゃなくて女の子だったじゃないか——わしの娘じゃないか。

・マシュウの死。マリラ失明の危機。グリーン・ゲイブルズを売りに出す。

・進学せずにグリーンゲイブルズを守ることを決意。

・先生の職をギルバートが譲ってくれる。ギルバートと和解して話し込む。

・神、天にしろしめし、世はすべてこともなし。

「赤毛のアン」の最後のセリフは聖書の一節ではありません。キリスト教文化圏の詩人の言葉のようです。意味は「神は天にいて世の中は平穏だ」という祈りのような言葉です。

新世紀エヴァンゲリオン』のネルフ「赤いイチジクの葉っぱのマーク」の下にもこの言葉が刻まれているそうです。イチジクなのはエデンの園の知恵の木を象徴しているからですね。

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「性格のいい貧乏みなしご」という系譜をつくった作品のひとつ

「少女ものでよく性格のいい孤児、貧乏人が登場する。それに対してお金持ちは必ず意地悪で性格が悪い設定が多い。しかし現実には傷けられたものほど歪んでおり、お金持ちほど愛されて育ったゆえにすなおで真っすぐな場合が多いのではないか。ブスほど性格が良くて、美人ほど性格が悪い設定が多いが現実は逆ではないか。この手の文学は真実を描いていないのではないか?」

というようなことを、たしか筒井康隆さんが書いていたと思います。

わたしも長く生きていて「その通りだな」と思います。ここで筒井康隆氏が念頭に置いていたのは、たとえば「赤毛のアン」であり「あしながおじさん」だったりでしょう。

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「赤毛のアン」も「あしながおじさん」も、明るく性格のいい孤児という設定です。これらの作品が筒井氏が批判するような現実を描いていない系譜を決定づけていったのだと思います。

それに対して「元祖少女マンガ」と私が評した『ジェーン・エアは同じく孤児が主人公ですが、容姿は悪く、性格も不幸ゆえに歪んでいます。いじめられてきたのでやたらと気の強いところがあります。愛されキャラではありません。

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そういう意味では元祖少女マンガはちゃんと真実を描いていた、といえそうです。何にでも例外はありますが……。

赤毛のアンは、孤児=愛されキャラ、という路線を決定づけた作品のひとつだといえるでしょう。それほど影響力の大きな作品でした。

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思いがけないことから子供をもつことになった女性(マリラ)の話し

Z世代の知人の娘が黒電話の使い方を知らなかったと嘆いていました。隔世の感がありますね。今の子どもには「ダイヤルを回す」という言葉が通じません。だって回しませんから。「番号をプッシュする」という表現もやがて通じなくなるでしょう。タップはしてもプッシュしませんから。

「やがて人々はスマートフォンが誕生する以前の暮らしを知りたがるかもしれない」と私は感じています。スマホもなしで人々はどうやって人生を楽しんでいたのか。どうやって人と人が繋がっていたのか。

そういうことを知りたくなったら『赤毛のアン』をおすすめします。アンは想像力を駆使して日々の暮らしを楽しんでいました。

マシューとマリラにとって子供を育てるというのはいつのまにか楽しみ、生きるよろこびとなっていました。

『赤毛のアン』は、思いがけないことから子供をもつことになった女性(マリラ)の話しだと捉えることも可能です。

まるで「かわいい子犬を飼ったら家族はどうなるのか実験」のようなものです。無邪気な子犬が夫婦の関係をよくするように、小さなアンは暗くなりがちな兄妹の生活を明るく照らし、かけがえのない存在へとなっていったのでした。

『赤毛のアン』はそういう作品です。

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