日本人とユダヤ人。イザヤ・ベンダサン著
日本に育ったユダヤ人が書き記しているという体裁をとっている書物である。作者はおそろしく日本語に堪能で、本当は日本人が書いているという話もあるが、作者の正体を探すことが本稿の目的ではない。作者の国籍なんかにこだわっていたら人類の貴重な遺産を見損なう。
本の内容としては日本民族とユダヤ民族の性質を照らし合わせて、互いの民族の性質を浮かび上がらせようとするものである。しかし日本で出版されている以上、浮かび上がらせる主体は「日本」にあることは間違いない。「ユダヤ」はついで、という感じである。
昨今のテレビ番組(とくにテレビ東京系列)は気持ち悪いほど「日本礼賛」(「和風総本家」「世界! ニッポン行きたい人応援団」など)基調であるが、その先駆け的な本と言っても過言ではない。
過去には諸外国と比べて「だから日本はダメなんだ」という内容の本ばかり出版されていた時代もあった。しかしこの本はユダヤ人と比べて日本人を「だから日本人はすばらしい」と主張する本である。日本礼賛の先駆け的作品であろう。
また論ずるにあたり1970年に出版された本だということも念頭におく必要がある。今日、常識になっていることでも、当時は常識でなかったかもしれないからだ。
「安全と自由と水は無料」だと日本人は思っている。
ほとんどの外国では、飲める水(ミネラルウォーター)はお金を出して買わなければならない。放浪のバックパッカーの常識である。レストランに入っても外国では水はお金を出して買うものだ。もう慣れたが、初心者の頃は「水ぐらい無料で出せよ」と思っていた。
日本の都市はだらだらと際限なくひろがっているが、外国の都市は市街地と田舎がはっきりしている。都市国家のなごりであろう。電車やバスに乗って市街地を出ると、田舎の風景がひろがる。とくに城塞都市は市街地の内外がはっきりしていて、かつては基本的に門からしか外に出られなかったのだ。アニメ「進撃の巨人」に出てくる城壁は漫画家のイマジネーションではない。あれこそ中世ヨーロッパの城塞都市そのものである。リアル・ドラゴンクエスト=城塞都市メルキドは実在する!
アウシュヴィッツ、ゲットー略奪に代表される人種差別によって、銀行に金を預け、保険という共済制度に生きるようになったユダヤ人から見れば、安全と自由はタダだと思っている日本人はなんと恵まれているのだろうかと作中うらやましがられている。
放浪の旅人は農耕民族ではなく放牧民族・騎馬民族
ユダヤ人にとって羊は「命の糧」、日本人にとっての米以上の存在であった。乳はチーズ、肉は食料、毛はウール、皮は羊皮紙となった。ハリー・ポッターによく出てくるよね、羊皮紙。したがって神聖な屠殺は祭司の務めであった。ネパールのダクシンカーリや、イスラム教のハラルなどを見ても了解できることである。ところが日本人は血をケガレとする宗教観のため、四つ足は食わず、血がつきものの皮革職人は差別の対象になったりした。まことにユダヤ民族と日本民族の違うことよ、というわけである。
さらには日本民族は本格的な放牧民族と本格的に接触した経験がないと作者は言う。
中国の歴史などを見ると驚く。我々は農耕民族である漢人の国だと思ってしまうが、実際には中国王朝は農耕民族と放牧騎馬民族の入れ替わり立ち代わりである。満州のヌルハチや元のチンギス・ハーンなどは騎馬民族である。農耕系の漢民族ではない。南方の農耕民族と北方の放牧民族のせめぎあいの中で生まれたのがあの「万里の長城」なのだ。中国というのは巨大な城塞都市だと言ってもいい。
稲作の祭祀長である日本の天皇は、百姓の自警集団である武士に王朝を奪われたことはあるが、しょせんどちらも農耕系である。騎馬放牧民族に権力を奪われたことはない。そこから日本人は純農耕型勤勉だと作者は言う。その勤勉を作者は例によって褒めたたえているのだ。
羊の繁殖は羊が発情しなければどうにもならないから、人間の努力よりも神の意志の方が尊重される。水稲栽培のように人間の努力で収穫を増やせる世界ではない。だから勤勉という価値観に放牧民は生きていないというのである。おっ。勤勉じゃないのか、いいね。放浪の旅人としては、このあたりからこの本に引き寄せられていくことになる。農耕民族に生まれながら、どうして自分は旅に憧れるのか、その答えが本に書いてあるかもしれないではないか。
「隣り百姓」の理論。
台風前という収穫の絶対期限があり、稲の生育期間という絶対枠がある農業では、個人の個性を発揮する余地はない。みなが同じことをするしかない。人間は自由ではなく、自然条件に縛られている、という考え方になる。お隣が田植えをはじめれば自分も田植えをし、お隣が施肥をすれば自分もやる。収穫時期も同じ台風の前。それが「隣り百姓」理論である。みんな同じことをするという日本人の国民性は、日本の気象条件と農耕のゆえだというのだ。みんなが高等教育、みんなが冷蔵庫、みんながカラーテレビ、みんながマイカー、すべて「隣り百姓」根性のゆえんだという。こういう社会ではマイ・ウェイ型人間のたどる運命は、社会から排除されるか、社会がこれを矯正してしまうかのいずれかであろう。そうだとすれば放浪のバックパッカーはこの日本社会をどうやって生きていけばいいのか。
ちなみに現在農業研修生としてベトナムからさかんに人材が日本の農家に派遣されているが、豊穣の東南アジアに住む彼らが日本の農業のいったい何を研修するというのだろう。三毛作だってやれる熱帯地方で、米粉でフォーや生春巻きなどを食べている米主食のベトナム人の方が、白米しか食わない日本人よりもよっぽどお米先進国なのはいうまでもない。研修という名の労働力確保というのが実態である。
ともあれ生きるために米を食べ、米を作るために生きる時間の大半を費やす。無我夢中のうちに「夢のまた夢」のように月日はうち過ぎていく。とすると一体、人生とは何なのだ、ということになる。
それが日本農耕民族の抱く人生への疑問だ。この答えは同じ日本人に聞くよりも、たとえばユダヤ人に聞いた方がいっそうはっきりするだろう。
全員一致は全員間違っている。なぜなら人間は必ず間違うものだから
日本の百姓的な時間に追いまくられる生き方をやめると、放牧民の生き方になる。ユダヤ人(アラブ人)はゴーイング・マイ・ウェイである。放牧中の羊が向かう方法に付いていくのが羊飼いである。草や水がある方向に羊は向かうのだ。人間の意志よりも羊の意志が優先される。コメの生育期間や台風という絶対収穫期に縛られる日本の「隣り百姓」とは生き方が違うのだ。
そのユダヤでは「全員一致の判決は無効」だという。これも面白い考え方なので紹介しておく。
聖徳太子の十七条憲法の時代から日本だったら全員一致の議決は最も正しく拘束力がある決定になるはずだ。現代でも質問が出て疑念が表明されても、採決をするとなぜか全員一致だったりするのが日本の大人の会議なのである。
しかし羊の進む方向にてんでバラバラに移動して暮らしてきたユダヤ人は違う。その決定が正しいなら反対者がいるはずで、全員一致とは偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえない。だからその決定は無効だと考えるのだそうだ。なるほど面白い意見だなあと思う。ここで私はサッカーのオフサイド・トラップを思い出してしまった。みんなで示し合わせて反則ラインを上げて罠にかけるというアレは、まさにディフェンス全員一致の罠なのである。示し合わせたからこそ全員一致したというわけだ。
政治天才日本人の日本教の正体とは?
日本には「人間性」という宗教がある。それを日本教という。中心にあるのは神ではなく人間という概念である。「人の世を作ったのは人だ」というのが結論。神ではない。そして真理は言葉ではなく言外でさとされる。ユダヤは世界が終わる前提の宗教だが、日本教は人の生は短くやがて永遠なる宇宙に帰するものという教えである。
だからユダヤ人と日本人は大いに違う民族の運命をたどった。
鎌倉幕府に見る宗教(神道=天皇)と政治・裁判(武力=幕府)の分立は、世界的に見て見事だと作者はいう。また政権の源平交代思想も(アメリカの二大政党制のように)政権交互担当というのは見事なものだとイザヤ・ベンダサンは言う。源平交代思想というのは平清盛(平氏)源頼朝(源氏)北条時宗(平氏)足利尊氏(源氏)織田信長(平氏)徳川家康(源氏)という政権交代劇のことであるが、これを「ふーん、なるほど」と捉えるか、「見事なり」と捉えるかでは、物書きの視線としては大きな差があると言わざるを得ない。イザヤ・ベンダサン見事なり。
ユダヤ人にこのような宗教と政治を分離する政治があれば、民族の歴史は違ったものであったろうとされる。
農耕民族は大地に定住する。この場所にとどまって、身近な小さな幸せを掘り起こそうとする。この世界がすこしでもよくなるように開拓しようとする。市長が向いているタイプである。
それに対して放浪のバックパッカーは楽園を探求する。いまいるこの場所にこだわらない。この場所が悪ければ、去って旅立ってしまえばいいのだ。
楽園はきっとある。世界は広いのだから。旅する魂があるかぎり、楽園探求の旅は続く。