ドラクエ的な人生

教科書がどうして変わるのか。鎌倉幕府の成立年度は1185年で本当にいいの?

どうもハルトです。みなさん今日も楽しい旅を続けていますか?

先日、友人と話していて驚いたことがありました。

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鎌倉幕府ができたのは1185年?

なんと「鎌倉幕府が成立したのは1192年ではない」というのです。

嘘やん。それじゃあいい国つくれないやんか。

しかも「教科書では1185年だと教えている」というではありませんか。

そんなバカな。なんで教科書が変わるのか? それは「歴史」が変わることと同じことではありませんか。

たとえばあなたが突然、母親から

「あなたが生まれたのは1990年じゃないの。本当は1983年なのよ」

と言われたとしたら、どう思います?

驚天動地。「そんなバカな」と思うでしょ? 今まで年上だと思っていた先輩が、実は後輩だと知ったら突然、言葉遣いを変えますか? おい、お前、とか(笑)。

武家政治の始まりというエポックメーキングな年が7年も変わるというのはただ事ではありません。

どうしてこんなことが起きるのか、ちょっと調べてみましょう。

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化石の世界なら、歴史は変わるかもしれない

化石の発見によってようやく確認できるクロマニヨン人が、現生人類の直接の祖先か、亜種の人類か、研究者によって見解が違うというのはなんとなく理解できます。「骨片なんかでよくわかりやしない」のが真相なのでしょうから。放射性炭素年代測定やDNA鑑定のような新技術によって過去の学説がひっくりかえることも十分にありえるでしょう。

別種と思われていた化石が実は同種で、アパトサウルスとブロントサウルスが実は同じ恐竜だったというのも、理解できることです。現世魚類ですら、ハマチ(30cmほど)とブリ(80cm超)を、同じ魚だとは思わず別の名前をつけてしまったように、骨だけの恐竜なんて誤解したって仕方がないことです。

新しい化石の発見によって「始祖鳥が鳥の始祖じゃなくなる」可能性は否定できない。それはわかります。今じゃチキンの祖先はティラノサウルスだと言われているぐらいなのです。

しかし1100年代は化石時代とは違います。文献が残されているはずです。源氏物語が1008年とされていますのでその100年も後のことです。そもそも今、生きている人で、鎌倉幕府の成立を誰も見た人はいない筈ですから、幕府成立の年代というのは「文献」によったに違いありません。

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鎌倉幕府の成立年度はなぜ変わったか

鎌倉幕府の成立が1185年とされるのは、源頼朝が「日本国惣地頭」「日本国惣追捕使」に任命された年なのだそうです。

「日本国惣地頭」に任命されたことによって頼朝は、自分の部下を地頭(各地の領主)に任命できるようになりました。また「日本国惣追捕使」に任命されたことによって頼朝は追捕使(警察長官。のちの守護)を任命する権利を得たのです。

徴税の権利と警察力を得たことから、実質的に幕府が成立したと考えられるため、鎌倉幕府の成立が1185年とされたようです。

「国とは何か?」という解釈の問題で、鎌倉幕府の成立年度が変わったのですね。

1192年は頼朝が征夷大将軍に任命された年です。征夷大将軍というのは夷(エビス)を征伐する前線の司令官のことです。前線司令官は戦況に臨機応変に対応するため最高司令官(天皇)の命令を聞かなくても務めを執ることができました。特命全権大使のようなものです。

朝廷に東国(鎌倉)の平定を任された現地司令官という名目で、いちいち天皇のお許しを得なくても政務を執り行うことができる、というのが鎌倉幕府の建前だったのですね。

ということは、鎌倉幕府の開幕のセレモニーのようなものは「なかった」ということがわかります。「以後、鎌倉において政務を執り行う」といった宣誓があれば、その年こそが鎌倉幕府成立の年であり、動かしようがないはずです。

そういった「式典」をすれば、朝廷派の反発も大きかったでしょうから、なし崩し的に政権奪取が行われていったのでしょう。だから成立年度に議論の余地があったのですね。

現代風に言えば、知事を任命し、徴税し、治安を維持する力を得た時を「政権奪取」とするか、全権委任を受けた時を「政権奪取」とするか。やっぱり最後は「国とは何か?」につながるテーマになりそうです。鎌倉時代だけの問題ではなさそうです。

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源義経と奥州藤原氏があるかぎり鎌倉は安泰でなかった

なるほど。そういうことだったのですか。

「大政奉還」「王政復古の大号令」のようなイベントがあった明治元年だったら、後年、動かしようがない明白な年度ということになるのでしょうが、鎌倉幕府にはそのようなセレモニーがなかったのですね。だから成立年度が解釈次第で変わってしまうのか。

いずれにしても平清盛や源頼朝が大和朝廷を滅ぼさなかったことが、日本国の独特の歴史をつくっていきます。「最高権力者ですら天皇に任命された役職にすぎない。一番偉いのは天皇」という独特の歴史です。もともと同族だ、という意識があったのかもしれません。平氏も源氏も血を辿れば天皇家ですからね。

しかし私は「徴税権」「警察権」を得た年(1185年)とか、戦場の現場司令官として全権委任を受けた年(1192年)とか、「政権とは何か」という議論に関わりなく、やはり鎌倉幕府の成立は1192年ではないか、と思うのです。

みなさん、あの男のことを忘れています。

そうです。木曾義仲を倒し、平家を滅ぼした、日本一の軍略家、源義経です。

義経は1185年に警察権を得た頼朝に都を追われていますが(歌舞伎「勧進帳」はこの時のお話しです)、なんとか奥州藤原氏のもとに辿り着き、まだ生きているのです。

有名な一ノ谷の戦いで、鵯越の逆落としで平家を奇襲して打ち破ったとき、義経は精兵70騎を率いていたのみと言われています。わずか70騎で「平氏にあらずんば人にあらず」の平家を打ち破ってしまうほどの男です。その男が世界遺産『中尊寺金色堂』の奥州藤原一族の力を率いたのならば、もしかしたら源頼朝の一派を覆滅することも不可能ではなかったはず。

現実には、義経と奥州藤原氏は一致協力して鎌倉と一戦交えることもなく滅び去ってしまうのですが、それは結果論であって、当時生きていた人たちが「鎌倉は真に安泰だ」とホッとしたのは、やはり義経&奥州藤原氏が滅び去った後だというのが真実だと思います。

1189年までは源義経(と奥州藤原氏)が生きていたのですから、1189年までは鎌倉幕府は安泰ではありませんでした。

やはり鎌倉幕府は1185年ではなく、1192年に成立したというのが正しい歴史なのだと思います。

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