ドラクエ的な人生

人生を買うという行為だけで終わらせないために。『ロビンソン・クルーソー』

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「自然環境の中でただ生きのびる」キャンプ、DIY、アウトドア、家庭菜園スキル

このページはダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』『ロビンソン漂流記』を、アウトドア、キャンプ、放浪旅の目線から書評しているページです。

1719年出版の本です。江戸時代に出版された300年前の本がどうしていまだに語り継がれているのか。実際に読んではじめてわかりました。

その秘密は「自然環境の中でただ生きのびる」といった人類生存の根源的な本能に真正面から取り組んでいるためです。

『ロビンソン・クルーソー』に書かれてあることはキャンプ、DIY、アウトドア、家庭菜園といった現代の趣味に通じるものがあります。

現代は何もかも買うことができます。お金があれば暮らしに必要なものは全部買えます。それに対して無人島のロビンソン・クルーソーはお金がいくらあっても意味がありませんでした。何もかも自分でつくり、自分の力だけで生きていかなければならなかったのです。

それは薪と火で暖をとるような原始時代と同じライフスタイルであり、動物の毛皮や植物の繊維で服をつくるような太古の人類と同じ暮らしでした。

ロビンソンが不幸でみじめなら、私たちの先祖は不幸でみじめな生き物でした。しかし私たちの先祖がみじめで不幸ではなかったように、ロビンソンもまたみじめで不幸ではいませんでした。自分の力で無人島漂着という不運を、それなりに変えていきます。

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【書評】ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』漂流記について

ダニエル・デフォー『ロビンソン漂流記』は、生来の放浪癖によって故郷を飛び出したロビンソン・クルーソーの漂流記を描いています。乗った船が難破して無人島に漂着し、その島で原始の暮らしをしつつ生きのびていく様を描いた作品です。

生きるとはどういうことか、これほど鮮やかに描いた作品もありません。

すこし『ウォールデン・森の生活』を思い出しました。

ウォールデン・森の生活

普通、文学というのは他人との関係性が描かれるものなのですが、ロビンソンは無人島の漂着者であり他者との関係はありません。その代わりに聖書があり、神との対話があります。

1719年の出版です。日本は江戸時代。1716年には新井白石『折たく柴の記』が出版されています。新井白石の方がもはや「当時の風俗研究」資料としてしか読まれないのに対して、デフォーの作品がいまだにエンターテイメント小説として超一流なのはどうしてでしょうか。

ギリシア悲劇源氏物語を想起したらおしまいですが、300年も作品が命脈をたもつというのは並大抵のことではありません。

300年前の作品とは思えない面白さです。たぶんに私自身の放浪・アウトドア嗜好に合うということもあるでしょうが、実際に読んでみて「こんなに面白かったのか」と驚きました。

自然の中で生き抜いていくことの不安は絵画的なものではなく心理的なものなので、『ロビンソン・クルーソー』は映画など動画で見るよりも、小説で読んだ方が面白いと思います。

作者デフォーの50代後半の作品です。出版されたのは59歳の時です。ずいぶん年をとってから出版された作品です。芥川龍之介夏目漱石だったらもうとっくに死んでいる年齢です。

現代日本ではサラリー生活をリタイアした後、田舎で暮らして、農業をしたりする人たちがいます。これまでお金で買ってすませてきた諸事を、自分でやってみようとする人たちです。野菜をつくったり、古民家を買ってリフォームしたり、果ては家を自分で建てたりする人が増えているのです。

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なにも将来もずっと同じ場所に住む必要はぜんぜんありません。同じ市に住む必要さえありません。いつでも、どこにでも引っ越せる。 さて終の棲家、移住先を探しましょう。どういう選択をすべきか、一緒に考えましょう。

このような人たちは、もちろんサラリーがなくなって生活にお金をかけるわけにはいかないという事情もあるでしょうが、どちらかといえば自分の生きがいとしてやっていることが多いようです。そういう人はお金があるなしに関わらず自分が食べるものを自分でつくってみようとするのではないでしょうか。

諸事、金で買ってすませる生活に飽きてしまったのでしょう。生きている実感をえるためには、生存危機レベルのヒリヒリした状態に身を置いて、そこから自力で生き抜いていくことをしなければ、なかなか生きがいを得ることができません。

デフォーも還暦ちかくなって、若かりし頃には想像もできなかった心境に至ったのかもしれません。

それゆえに現在のキャンプやDIYブームのただなかにいる若い人でも、じゅうぶんに読んで楽しむことができる作品となっています。

このようなローテクの太古の暮らしは何千何万年と人類がやってきたことであり、むしろ普遍的な人間生活の真髄だとさえいえます。

必要なものは全部お金で買うという現代の暮らしこそ、わずか数百年の歴史しかない新しい生き方であり、それが正しいか間違っているのかは誰にもわかりません。

しかし何もかもお金で買える生活をしていると、自然の中で人間が生き抜いていく力が弱まっていきます。何もかもお金で買える生活を「つまらない」と感じる一部の人間がいることもまた確かなのです。

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ロビンソン・クルーソーの漂流記。魂の冒険記

どうやら作者のデフォーは放浪癖をもつロビンソン・クルーソーがその放浪の魂によって不幸になるさまを描きたかったようです。人は今いるココに満足できず、流浪する。幸せを求めて旅に出て不幸になるのが人間だ、という考え方をしていたようです。

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先祖の土地でおとなしく親と同じ暮らしをしていれば、そこそこの幸せが保証されていたにもかかわらず、故郷を飛び出して、ついにロビンソンは無人島でセルフヘルプで生きていかなければならなくなりました。

『ロビンソン漂流記』ではジューヌ・ヴェルヌ『十五少年漂流記』のように、いきなり無人島に漂着しません。故郷にとどまりなさいという親の反対を押し切って放浪の旅に出たロビンソンは最初、海賊につかまって奴隷となってしまいます。しかし、自由になりたいと逃げだし、海上で船に救出され、ブラジルに行きます。ブラジルで農園を経営して成功しお金持ちになりますが、それでも定住し暮らしていこうとはしません。

「こういう暮らしならイギリスでもできた。友人たちと別れる必要はなかった。これでは無人島に漂流したも同然だ」

そんな風に考え、ブラジルでの農園主の生活に飽き足らず、ロビンソンは船で旅に出ます。1659年の出港です。そして嵐で難破してひとりだけ助かるのです。

ここからがいよいよ有名なロビンソン漂流記のはじまりです。いよいよ本編がスタートします。

ブラジルの農園での暮らしを無人島に漂流したも同然だと考えていたロビンソンでした。ところが全然違いました。たどりついた島を「絶望の島」とロビンソンは名付けます。漂着した上陸地点に十字架を立てて、刻みをいれて暦をつくりました。

安息日のあるキリスト教徒なので日曜日を知ることがロビンソンには重要なのでした。ところどころにあらわれる文明人らしいところが、この狂気の物語をときどき正気に戻してくれます。原始人が原始的生活を送るのではなく、文明人が原始的生活を送るところが面白いわけですからね。

ロビンソン・クルーソーは初めての夜を木に登って明かします。島の猛獣を恐れたのでした。ヒョウに食い殺されるかもしれません。ひとりぼっちの知らない島がロビンソンは恐ろしくてなりません。しかし島にはヒョウのような猛獣はおらず、代わりにヤギがいました。そのことを後に彼は神に感謝するのです。

ロビンソンは稲妻を恐れました。落雷にあったら火薬を失うからです。ひとりぼっちの島で銃なしにはおそろしくて生きた心地がしませんでした。いかにも白人ですね。

ロビンソンはぐっすり眠るために防壁をそなえた小屋をつくります。乗ってきた難破した船から、食料と、武器、道具と資材を島へと運びだします。廃船からあらゆるものを運びだしますが、お金には価値がないと思います。この島では何の役にも立ちません。お金の価値は交換価値だけですから、交換するものも、交換する相手もいない島では無価値でした。落としたコインを拾い上げる気にもなりませんでした。

価値があるとは、何かに利用できるということです。ものの価値というものは、利用できるところにしか存在しないと無人島のロビンソンは悟りました。使い道がなければ価値などゼロに等しいのです。

廃船には犬が一匹、猫が二匹いました。彼らを船から連れ出します。「ペットは家族だ」というほどロビンソンは近代人ではありませんが、それでも犬はロビンソンの孤独を癒す存在となってくれました。

しかし犬よりも猫よりもロビンソンの孤独を癒してくれたのは船から持ち出した聖書でした。聖書の言葉、天なる神がロビンソンの何よりもの会話の相手になります。悩み、苦しみを自問自答しつつ、神に問いかけるのです。自分だけが生き残った意味を。

ペンとインクと紙も大事な用具でした。ロビンソンは漂流の記録をとり続けます。

犬と猟銃を駆使して、ヤギと鳩をロビンソンは食べて暮らしました。亀の肉や卵がごちそうとなりました。やがて銃の弾がなくなっても生きていけるようにヤギを家畜化することに成功します。チーズがつくれるし、肉にもなります。

船の中にあった米麦を育てることにも成功します。食料だけでなく、カヌーやカゴなど、生活に必要な道具も自分でつくります。

ロビンソンはものづくりのシロウトでしたが、理性で合理的に判断をすれば、モノづくりに熟練することは誰にでも可能だと結論します。そして何もかも自分でつくるのです。トライ&エラーでとりあえずやってみて工夫していけば、生きていくために必要な何でも拵えることができました。

失敗もたくさんありました。一番大きな失敗は、大木を削って舟をつくりだしたときでした。どでかい木を削って丸木舟をつくったのですが、重くて海まで運べないのです。巨木を発見し、切り倒して加工してカヌーを制作できたのに、それを海まで運べなかったのです。たった一人の力では。地面を掘削して斜面にするのも、水路も引くのも、完成するまで10年以上かかってしまう計算でした。そしてとうとうせっかくつくったカヌーを諦めました。森の中に放置するしかありませんでした。

何か仕事を始めるには時間と労力を計算して自分の力で可能かしっかりと検討する必要があるとロビンソンは学びます。やみくもに着手することの愚かしさを痛感したのでした。

『ロビンソン・クルーソー』は猟銃を撃ったりするような冒険活劇部分よりも、囲いをつくって防壁がある家をつくったり、米や麦をつくったり、羊を飼いならしたりするサバイバル部分の方が圧倒的に面白いものがあります。

それは人間本来の根源的な暮らしを文明人が再現しているからに他なりません。ロビンソンはとにかく生きのびたかったのです。何をしてでも、どんな暮らしでも。

ある日、ロビンソンはマラリアに罹ってしまいます。医者もおらず、薬もありません。死に近づき、聖書に神を求めます。誰もいない島で、聖書しか読むものがなかったら、私だって「神はいる」と信じて天意を問うかもしれません。

なんとか生きのびたロビンソンは、神に感謝します。自分だけ生き残ったことを不幸とは考えず、むしろ幸運だと考えるようになりました。不幸な島の漂流者ではなく、自分は神の恵みで生かされていると幸運に感謝します。

このような価値観の転換が『ロビンソン・クルーソー』を深い作品にしています。

ある日、無人島を脱出しようと船で漕ぎだしたら、海流に流されてロビンソンは島に戻れなくなってしまいました。このままでは漂流餓死してしまいます。あれほど脱出したかった島なのに、今はもう島に戻りたくてたまりません。

ロビンソンはいいます。われわれはまったく異なる環境に連れ出されるまで、自分の境遇がどれほど幸福だったのかに気づかない。失ってはじめて自分が享受していたものの価値を知ることになるのだ、と。

無人島の孤独の中で誰でもいいから人に会いたかったのに、いざ人の足跡が見つかるとロビンソンは不安と恐怖に怯えてしまいます。実際にその足跡は食人族のものでした。

その時、ロビンソンは考えます。

以前から危険だったのに、知らなかっただけだ。知らなかった頃は幸福だった。危険を知ってしまった今は不安と恐怖で心労にさいなまれている。様々なことが見えないからこそ人は平静でいられるのだ。すべてがありありと見えたら、とても正気ではいられまい——と。

ボロボロのあばら家でも住み慣れた自分の居住地は快適でした。無人島の過酷な暮らしの中で、ロビンソンは「足る」ことを知るようになったのです。

ロビンソンはイギリス人らしく食人賊の犠牲者を助けて従僕とします。

最終的に彼は、島を訪れた船を奪取します。反乱を起された船の船長と協力しあって、その船を奪い返して、とうとう無人島を脱出することに成功するのでした。

無人島生活は28年間にも及びました。

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帝国主義的だという批判もある

ロビンソンが無人島で何よりも大切にしたのは銃と火薬でした。無人島とわかるまでは島の猛獣や原住民の食人の風習にとにかくロビンソンはおびえまくります。ひとりぼっちで、銃だけが頼りでした。

その銃で島を探検し、次々と征服していきます。そして最後には自分はこの島の王様だと考えるに至ります。

そういうところが後世(現代)から「帝国主義的だ」という批判があるそうです。

私はこういうエンターテイメント作品を現実に当てはめるのはよくないと思っています。

確かに未開の食人族が登場します。ロビンソンが食人の風習を嫌悪し、食人族を恐れ、犠牲者を食人族から救い出すところが作品の冒険活劇の見せ場になっています。

ロビンソン・クルーソーの無人島は南米ベネズエラあたりの島ということになっているのですが、なまじっか場所が特定できるだけに「この食人族は何国人の何族なのだ」と追及し、その人たちを侮辱している謝罪しろという文学殺しの人権派がそういうことを言うのでしょう。

そんなことを言わずに作品をエンターテイメントとして楽しむことはできないものですかね?

このような批判は、『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統ヒトラーがモデルだからドイツの人たちを侮辱している謝罪しろと言っているようなものだと思います。南米諸族に食人の習慣はなかったとか、そういうことはどうでもいいのです。デフォーが南米諸族に食人の習慣があったことを証明するために本作を書いているなら力いっぱい反論すればいいと思いますが、そうではありません。

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人生を「買う」という行為だけで終わらせないために

現代は何もかも買うことができます。お金があれば暮らしに必要なものは全部買えます。便利な時代です。

その反面、すべては「買う」という行為で済んでしまいます。

食べることも「買う」。飲むことも「買う」。寝具も「買う」。移動手段も「買う」。雨露をしのぐ家も「買う」。すべてが買えばすんでしまいます。

便利な反面、それが人生を退屈なものにしてしまいました。

「買う」という行為はあまりにも簡単すぎて、それ自体として生きている実感を感じることができません。

「買う」という行為で人生が終わると、ゲームとしては簡単すぎて、生きている実感を得られない退屈な人生を送る危険性があります。

私たちが走るのも、アウトドアに惹かれるのも、すべては生きている実感を得るため、この人生を「買う」という行為だけで終わらせないため、人が生きることの原点に回帰するためではないでしょうか。

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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!

かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。

すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。

『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。

その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。

Bitly

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