ドラクエ的な人生

SF小説が読めない人。俳優志望の人。読書は暇人のもの。忙しい人に読書は向いていない。小説を読むよりも、自分で体験する方がおもしろい

スポンサーリンク

SF小説が読めない理由。現実に生きすぎると読書はつまらないものになる

私は『私的世界十大小説』という書籍を出版しているほど読書家なのですが、SF小説はどうにも読めません。別にここでは純文学の人は描写力がゆたかで、SF作家はそうでないと主張するつもりはありません。こっちの頭の問題です。SF作家は自分の頭の中だけにある空想の世界(たとえば火星基地)を一生懸命、描写しているのですが、ちっとも私の頭の中に入ってこないのです。これはなんでかとよく考えてみたのですが、やぱり私が現実に生きすぎているせいだと思います。現実世界に生きるあまり、火星の話しなんてどうでもいいと思ってしまうんですね。だったら自分がデスバレーとかアラスカとかを旅した方が面白いと考えてしまいます。するともう読書するモチベーションがありません。この地球上のことも冒険し終えていないのに、火星基地の空想のことを追いかけて何になるだろうか、と思ってしまうのです。現実家なんですね。そして途中で読むのをあきらめてしまいます。空想の魔法の本である『ハリーポッター』は最後まで読めましたけど。

×   ×   ×   ×   ×   × 

(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!

かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。

すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。

『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。

その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。

https://amzn.to/43j7R0Y

×   ×   ×   ×   ×   × 

スポンサーリンク

小説を読むよりも、自分で体験する方がおもしろい

先日も『デューン』(砂の惑星)という映画の原作になった小説を手に取ってみたのですが、最後まで読み通せませんでした。映画なら最後まで観れたかもしれませんが、小説は無理でした。映像体験ならばこれまでに見たことのない映像を見ることは新経験なので楽しめます。しかし見たこともない場所を活字で追いかけるのは厳しいものです。

私は日本文学はあまり好きではないのですが、それはもう現実だけでおなかいっぱいだからだと自己分析しています。なにも日本の文学で不倫や破産や病気の物語を読まなくても、そんなものいくらでも自分の身の回りに転がっています。なんなら小説読むよりも自分で体験した方が面白いですよ。現実に生きる、とはそういうことです。

×   ×   ×   ×   ×   × 

主人公ツバサは小劇団の役者です。

「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」

恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。

「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな

アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。

「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」

ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。

「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」

惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。

「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ

劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。

「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も

ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。

「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」

ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」

「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」

尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。

妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ

そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。

「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」

そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。

「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」

そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。

「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って

https://amzn.to/3U4ijH2

×   ×   ×   ×   ×   × 

スポンサーリンク

未知の外国文学は、一種のSF小説として読むことができる

逆に日本文学のいいところは描写をほとんど読み飛ばせるということではないでしょうか。たとえば清水寺とか南禅寺とか舞台を書いてくれれば詳細な描写なんて読み飛ばしても、情景を頭に思い浮かべることができます。

日本社会に飽きたら、世界の文学があります。たとえばフランス文学やロシア文学があります。パリの描写や、イスラム教世界の描写を読めば、異世界にどっぷりとひたれます。外国文学は、空想小説ではありませんが、一種のSF小説として読むことができます。古代アラビアのゾロアスター教のことを書いた文学を読んだら、それはどこかの惑星のことを書いたSF小説を読んでいるのと同じではないでしょうか。

スポンサーリンク

現実社会に生きすぎると、俳優志望もむずかしくなる

たとえば私は映画やドラマの俳優になりたいと思ったことがありません。それはSF小説が読めないのと同じ根っこの理由だと思います。現実に生きすぎているから空想の世界で生きようと思わないからです。誰かの空想の「つくりものの世界」で、弾の出ないオモチャの拳銃の引き金をひいてピンチのふりをすることに何の意味があるだろうか、と思ってしまうのです。こういうのを現実に生きすぎているというんでしょうね。今では映画俳優として有名になれば、億万長者にもなれるし、影響力を駆使して現実社会で自己実現できるなどのフィードバックがあるのだなあ、とメリットを理解していますが、子供のころの夢にするのは無理でした。

普通の人は限られた一つの選択肢しか生きられないのに、映画俳優はいくつもの人生を疑似的に生きることができるのだなあ(豊かだなあ)、と今ではメリットを理解できるようになりました。俳優志望の人は、そこまで思い描けていたら、もうすでに人生の達人ですね。

スポンサーリンク

読書は暇人のもの。忙しい人に読書は向いていない

子供のころから、そして今も、私はSF小説が読めません。設定が現実離れしていればいるほど読めません。しかも設定がこみいっていればいるほど、読む気をなくしてしまいます。その理由を自己分析してみました。

別に非日常が嫌いなわけではありません。旧石器時代の人の話とか、今でも狩猟採集生活をしている民族の話とか、アラスカのツンドラで氷点下で生きる人の暮らしとか、いくらでも異世界にはひたれます。

『氷点下で生きるということ』(LIFE BELOW ZERO°)の魅力、内容、評価、感想、ツッコミとやらせ疑惑

やはり完全に存在しないことがはっきりしているSF空想世界(たとえば火星基地の話し)を読む気にはどうしてもなれないのです。

そこまで暇じゃないんでね。

忙しい人に読書は向いていないのです。読書は暇人のものなのです。

モバイルバージョンを終了