風流な日本語
みなさん、麦秋という言葉を知っていますか。麦の秋。
実は俳句の季語にもなっている。
はじめて聞いた時、まあ風流な言葉だなあ、と思ったものだ。
秋といっても秋のことではない。実際には初夏の頃を表現している。
日本で麦の獲れる初夏のコロを、日本人になじみの水稲の収穫時期、実りの秋になぞられて麦秋と言っているのだ。
水稲の黄金色のフサフサしたイメージは日本人なら誰でも思い浮かべることができるわけですから、そのイメージを麦秋は援用しているわけです。
麦秋、非常に風流な表現だと思います。
日本語は風流だよね。
たとえば「青春」という言葉がありますが、英語で青春は何というか知っていますか?
Youthです。直訳すると「若い頃」ですね。マンマじゃねえか。
なんだかガッカリです。ロマンがないよ。
日本語の青春が表現しているのは若さだけではないという気がします。
まだ果物の青い頃。まだ春。実りの秋とは程遠い。季節のはじまり。つまり若い頃。青春。
人生を花になぞらえるなんてすてきな比喩だな。
桜の満開を人生の盛りに譬え、散る桜を老いや逝去に譬える表現と似ていますね。
桜は一週間ぐらいで散ってしまいますが、見方によっては人間の命もそれと同じぐらい短い。
風流な日本語表現は、そんなことも教えてくれます。
俳句の季語
俳句の季語ですが、現代は昔と1か月だけ季節がずれているので、扱いが非常に難しいことを知っているでしょうか。
明治5年(1872年)に日本は太陰暦から太陽暦に移行しています。旧暦1872年12月3日を新暦1873年1月1日に強制的に変更してしまったのです。
ほぼ1か月分、暦が前倒しになったわけですね。
財政難にあえいでいた明治政府が、暦を一カ月前倒しにして、公務員の人件費を一か月分払わずに済んじゃったというウソみたいな伝説があります。
もちろん当時の西欧先進国が太陽暦を使用していたので、暦を合わせたということです。
しかしこのことによって稲作農業を中心に動いていた栽培暦や祭りや俳句の季語がめちゃくちゃになってしまいました。
中華圏で最も重要とされる祝祭日、春節は旧暦(太陰暦)の正月のことであり、新暦の約一か月後、だいたい1月下旬から2月上旬ということになります。
日本人が正月休みを利用して中国に旅行をしても、春節の大祭を見ることはできません。
新正月よりも旧正月を盛大に祝うのは、それが農家の伝統だからです。
「七夕(7月7日)は梅雨空でいつも曇っていて、織姫と彦星が可哀そうです(いつも見られません)」という子供電話相談室を聞いたことがある。
その時、ラジオの回答者(先生)は「七夕は本当は旧暦の7月7日でした。その頃はいつも空は晴れていて星がよく見えるんですよ」と答えていました。
一カ月遅れの8月上~中旬ごろが本当の七夕だということだろう。
その頃もう梅雨はあがっていて二人の逢瀬を夜空に眺めることができるのだ。
ロマンだなあ。
いっそ太陰暦に戻さんかw?
俳句の季語は、江戸時代と現代ではちょっと季節感がしっくりこないことがある。
松尾芭蕉や与謝蕪村など俳句の大家はみんな旧暦の人たちだからだ。
江戸時代の旧暦の俳句の季節感(季語)は現代の感覚からは約一か月遅らせて感じないと正確ではないのだ。
面倒くさいな。
しかも地球温暖化の影響もあって、ますまず季語は昔とは違ったものになっている。
さらに「桜を追いかけた東北大遠征」で感じたことでもあるが、同じ日本でも桜の咲く時期は全然違う。桜のあとに菜の花が咲く地域だってあるのだ。
オールジャパンで通じる季語なんてものは、基本的に難しいのではないだろうか。
麦秋のことを6月上旬(関東地方の場合)といいたいのだが、北海道の人もこのコラムを読んでいるので、簡単に6月上旬とは書けないの。
いろいろなことを知れば知るほど書けなくなる、というのはこういうことなのだろう。
ムラで生きていた昔の人は、こんなことを考えもしなかった。
でも季語は人間の季節感をみがく。
感受性豊かな日本人の必須の教養かもしれない。
日本人が、日本語が風流なのは、季語の教養のゆえかもしれない。