ボーヴォワール 『人はすべて死す』のあらすじ、内容
→この小説には不死の男が登場します。作者のボーヴォワールだってそんな男には出会ったことはないでしょうから、不死の人間が何を思い、どう行動するかについては作者の想像です。それを見ていくことが本書を読む醍醐味になります。
あたしは強い。フロランスにあたしの存在を証明してやった。あたしを憎むがいい。あたしは勝ったのだ。
あなたは自分が人に嫌われるようなことをしているんだ、と思っても平気でいられますの? あたしの気持なんか、ちっとも考慮にお入れにならないんですね?
そんなものはあなたのほうが先に忘れてしまうでしょう。あなたはすぐ死んでしまう。あなたの考えたことも、あなたと一緒に。
羽虫ども。あの一日で死んでしまう男どもですよ。
なんと残念なことでしょう。生活なんてすぐ終わってしまいますよ。
どうしたらいったい自分がこの世にいるなんて信じられるんです。幾年も経たぬうちに立ち去ろうとしているというのに。
あんたたちは、あたしがあんたらみたいな人間になることを望んでいるんでしょう。そしてあたしはもうあんたたちに似始めてたんだわ。
→作品冒頭の女性話主が主人公のパートでは、ボーヴォワールの似姿と捉えて構わない女性が死と永遠の前に葛藤する姿が描かれます。読者も「死すべき運命」で女性話主と同じ立場ですから、面白く読むことができました。
ちっぽけな人間。ちっぽけな命。もしあたしも不死なのだと信じられたら。
死が彼女の中にあった。彼女はそれがわかっていた。そして、すでに彼女はそれを許容していた。死んでしまう人間たちの心に、しだいに塵になっていく淡い記憶を残すこと。以前はこのつつましい野心に満足することができた。
いつかあたしは忘れ去られてしまう。あたしがこんなことを思っているとき≪おれは永久にこの世にいるだろう≫と考えている男がいるのだ。
批判や悪意も苦にならなかった。≪やがてこの人たちは死んでしまう。羽虫同然だわ≫
あの人だって、存在しようと努力しているのです。あの人を悪く思ってはいけません。
ただ一枚の草っ葉にすぎないのだ。みんなが自分は他人とは違っている、と信じている。みんなが自分を一番だと思っている。それはみんなが誤っているのだ。彼女も、ほかの人たちと同じ過ちを犯したのだ。
これは不死の薬だ。
汝は大事業を成し遂げたと思い込んでいる。ところが汝のしたことは無にひとしい。
この運命を作ってやったのはわたしなのだ。
彼は自分のしたかったことをしたのち、死のうとしていた。彼は永久に勝ち誇った英雄だった。
突然、なにものも重要でなくなってしまった。この踊っているすべてのものは、やがて死ぬのだ。彼らの生命と同じように無益な死だ。
わたしがいなかったとしても、地上のなにものも変わらなかっただろう。
私が不死であるという理由で、お前の目には、何の価値もないというのかね。
→不死の男は愛する女性からそう思い知らされます。すべてに勝てると思っていた不死の男は愛に勝てませんでした。
もしあの女が決して死なないとしたら、あの女の歌はこんなに人の心を動かすでしょうか?
すでに彼女はほかの何百万という女のうちの一人にすぎなかった。そして愛情も、悔恨も、すぎさったものの味がした。
ある日彼女は死にました。それだけです。
今ではローマの壊滅を勝利とも敗北とも思わなかった。なんの意味もない、一つの事件に過ぎなかった。どれがどうだというのだ。だが、虐殺が何の意味もないのだったら、生まれた赤ん坊になんの意味があるのだ。私はもう苦しむことも、楽しむこともできなかった。わたしは死人だった。
みんな嘘だったんだわ。わたしたちは同じ時間の中で苦しむのじゃないの。あなたは別の世界の奥からわたしを愛していらっしゃるのよ。
『人はすべて死す』の魅力と感想
前半の女性話主のプロローグはとても面白かったのに、本編で不死の男が話主になると急に歴史ものみたいになってつまらなくなってしまいました。やはり不死の男には感情移入できないからでしょう。
主人公の衝撃は読者の衝撃です。話主の葛藤が読者の葛藤です。ここは最後まで死すべき運命の女性話主が永遠に生きる男を前に葛藤する姿を描いてほしかったと思います。
永遠を表現するために、後半は薄っぺらな歴史ものみたいになってしまいます。そういう永遠は「神の視点」といわれるもので読者には既知のものです。
永遠とたたかう第二の性のボーヴォワールが見てみたかったのに、残念でした。