言語学習の動機は、日本語にもう飽きたから。
ブログ『ドラクエ的な人生』主筆のアリクラハルトと申します。このページで初めてわたしにふれた人もいると思います。はじめまして。
時々見てくださっている人はわかっているでしょうが、これまでにかなりの数のコラムを書いてきました。過去の作品数を見ていただければわかります。この時点で1804編のコラムを書いています。もちろんすべて日本語です。
また私は数冊の著作を出版しています。その中には『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべきおすすめの名作文学 私的世界の十大文学』という本もあります。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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こういう本を書く以上、その十倍以上の本を読んでいるのですが、原書なんて読めるはずもなく、翻訳されたものを読んでいます。要するにぜんぶ日本語で読んでいるわけです。
書いて読む、つまり日本語に次ぐ日本語です。こういう生活をしていると……もう日本語に飽きました。
日本語を読んでいても、頭に刺激がビビッと来ないのです。その言葉に慣れ切ってしまいましたからね。
実戦ゲリラ英語学習法。英語がわかれば、YouTubeの視聴可能なコンテンツが数倍にふくれあがります
もう一度世界に生まれ変わったような新鮮な感覚があじわえる
ところが外国語(私の場合は英語です)だと、ぜんぜん話しが違います。日本語で聞いたらくだらない、つまらないと思えるようなことも、外国語だとすべてが新鮮に聞こえます。
日本語だと黙っていたほうがマシなぐらいの意味のないことでも、外国語で聞くとそれが「新鮮な体験」になるのです。はじめて子供が言葉を喋った瞬間と言ったら大げさでしょうが、それに違い感触が得られます。もう一度世界に生まれ変わったような新鮮な感覚があじわえるのです。レベルの低い会話でも、外国語なら楽しめます。Hallo,How are you doing?
それが私が英語学習を趣味にしている理由です。もうすでに一度読んでいるから、日本語でもう一度ハリーポッターを読むのに何の苦労も刺激もありませんが、英語で読んだらそれは大苦労することでしょう。わからないことの連続です。大冒険、大勉強になることでしょう。外国語学習というのは、そういう趣味なんだと思います。
英語教師に多大な影響を受けたから、恩返しに、日本語教師をやろうかな
ところで、YouTubeなどで英語学習をしていると「英語の先生」「イングリッシュティーチャー」という人のチャンネルにつきあたります。英語教師のチャンネルががもっとも勉強になります。
アメリカで語学留学生相手の英語の先生をしていたり、諸外国でAETアシスタントイングリッシュティーチャーを経験した人が、YouTubeで語学学習チャンネルをやっているわけですね。
そういう人の英語は、ゆっくりクリアに発音してくれるので、とてもよく聞き取れます。まずはそこからはじめましょう。
この手の英語の先生に、あまり恩恵ばかり受けているので、自分も恩返しができないかと考えてしまいます。
「英語教師に多大な影響を受けたから、恩返しに、日本語教師をってやろうかな?
日本語に飽きてしまうほど日本語にどっぷりとつかってきた私ならば、日本語の先生として、外国人相手に余裕をもってやっていけると思います。
日本語教師になるには? 日本語の先生になる資格とは?
どうすれば日本語の先生になれるのでしょうか?
たとえば台湾に日本語教室があったとして、そこの経営者に雇ってもらえれさえすれば、特に資格は何もいりません。会社に採用されればサラリーマンになれます。それと同じことです。雇ってもらえれば、プロの日本語教師になることができます。
でも採用されるとは限りませんよね? 私には数冊の日本語の書籍を出版している実績がありますが、あなたに何か実績があるでしょうか?
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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いちおうハクをつけたいならば、日本語教育能力検定試験というのがあるそうです。これはいったいどういう試験なのでしょうか? 調べてみてびっくりしました。
過去問題を見てみたのですが、これが難しい……っていうか、くだらない。無声歯摩擦音? 有声両唇破裂音ってなんだ(笑)? まあ、だいたい想像つくけどさ。
なんだろう……まったくおもしろくないので、すこしも勉強してみたいという気持ちになりませんでした。お受験時代を思い出しましたよ。いったい何を教えようとしているんでしょうかねえ?
わたしは自分自身を、日本語が得意だと認識しています。そんなわたしがさっぱり意味がわからない試験にどんな意味があるんでしょうか? こんなことを日本語初心者の外人に教えてどうなるというのでしょうか? すくなくとも彼らのニーズをまったく満たしていませんね。一生を、プロの日本語教師として、傭兵のように世界を渡り歩くというのなら別ですが、日本語教師というのはこんなことを理解していないとつとまらないような仕事ではないと思います。どっちかというとコミュニケーション力のほうが重要なんじゃないでしょうか?