ドラクエ的な人生

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』作者得意の寓話。デミアンは自分自身

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作者得意の寓話。デミアンは自分自身だった。

ここではヘルマン・ヘッセ『デミアン』の書評をしています。1919年に発表された作品です。第一次世界大戦直後に発表されたものです。

デミアンはデーモンからの命名だそうです。ルイ15世を暗殺未遂して八つ裂きの刑に処されたロベール・フランソワ・ダミアンを想起してしまうのは私だけでしょうか?

いつものように寓話でした。ヘッセは寓話が得意なんですね。

デミアンなんて人物は存在しませんでした。それは「自分自身」だったのです。

ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』放浪の魂の真髄

ヘルマン・ヘッセ『郷愁』個人には自分を完成する責任がある。地域や先祖のせいにはできない。

『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ。白人が見た仏陀。解脱する方法

荒野のおおかみ。ステッペン・ウルフ

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『デミアン』の詳細

黄色は『デミアン』から。赤字はわたしの感想です。

幾キロも離れていても蛾の雄はみんなそのへんにいるただ一匹の雌を嗅ぎつける。そういうことが自然界にはいっぱいある。蛾はただ自分にとって意味と価値のあること、自分に必要なこと、絶対に手に入れねばならないことを求めるだけだ。

私はその中で生きた精神をあじわい、革命をあじわった。

ヘッセの本には、学生時代のことを描いたものがたくさんあります。詩人になりたいという気持ちが、よほど学校で痛めつけられたんでしょうね。「あの頃は楽しかった」という感慨ではなく「人間を圧し潰そうとする抑圧機関」のように学校を描くのが特徴です。

ならず者で不潔感で酔っぱらって汚れ、いとわしく下品で、鼻持ちならぬ衝動のふい打ちに負かされた。それにもかかわらずこの苦悶に悩むのはほとんどひとつの享楽だった。

この恋が私の生活に及ぼした影響は大きかった。彼女はひとつの霊場を私のために開き、私をひとつの寺院の祈祷者にした。日一日と私は飲酒と夜のうろつきとから遠ざかった。私は孤独に耐えられるようになり、好んで読書をし、好んで散歩をするようになった。愛するもの、崇拝するものを持ち、ふたたび理想を得た。性欲を変容させて精神と礼拝にしようと思った。暗いもの醜いもの、うめきあかされる夜、みだらな心臓のときめきなどはあってはならなかった。

ほかになにをしたらいいんだい? 結局これがいちばん愉快なことじゃないか。

享楽児で道楽者、放蕩者の生活は神秘主義者になる最上の準備のひとつなんだ。

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神の名はアプラクサス

鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、ひとつの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。

音楽は道徳的じゃないから好きだ。

コウモリに造られているとしたら、ダチョウになろうなどと思ってはいけない。

予感がやってきて、きみの魂の中の声が語りはじめたら、それにまかせきるがいい。それが先生やおとうさんや神の心にかなうかなんて問わないことだ。

もし君が普通のものになったらアプラクサスはきみを捨ててしまう。彼はきみを捨てて、彼の思想を煮るべき新しい鍋をさがすのだ。

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幸福の反対は「退屈」。幸福とは興奮のこと

すべての衝動には意味があるのだ。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない。

別の本にこんなことが書いてありました。幸福の反対は何だ? と。その人の考えでは幸福の反対は「退屈」なんだそうです。では退屈の反対は何かといえば「興奮」です。

つまり幸福とは興奮のことだ、というのです。

われわれが内部にもっているもの以外に現実はない。大多数の人は内部の自分独特の世界をぜんぜん発言させないからきわめて非現実的に生きている。しかし一度そうでない世界を知ったら、大多数の人々の道を進む気にはもうなれない。シンクレール、大多数の人々の道は楽で、ぼくたちの道は苦しい……しかしぼくたちは進もう。

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わがままこそ最高の美徳。それがヘッセ。そう言わざるを得なかった。

きみに言っておく。その夢を生き、それを遊び、それに祭壇を立てたまえ!

わがままこそ最高の美徳。それがヘッセです。

たぶん「バランスが大事」ってことは本人もよくわかっている。だけど世間があまりにも自分を抑え込むような立場(第一次世界大戦を経験している作家ですから、不本意ながら戦場で死んだ兵士をたくさん見たのでしょう)だから、彼は真逆の極端な主張をしたのでしょう。

内なる魂が欲することはなにひとつ恐れてはならないし、禁じられていると思ってはならない。

自分で選んだ役目なんて存在しない。新しい神々を欲するのは誤りだった。目覚めた人間にとっては、自分自身を探し、自分の腹を固め、どこに達しようと意に介さず、自己の道をさぐって進む、という一事以外になんらの義務も存じなかった。各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一時あるのみだった。詩人として、あるいはきちがいとして終わろうと。自己の運命を完全にくじけずに生き抜くこと。世界が腐敗し滅亡を待っていようと、それが私に何のかかわりがあったろう。

もっと深い孤独があること、それは逃れられないものであることを、ほのかに感じた。

数年間さんざん飲んでメートルをあげる。そしてその後で這いつくばって堅気な官吏になる。飲んで過ごした大学時代の記憶に、消え失せた自由を珍重し礼拝していたのを思い出した。いずこも同じだった。自分の責任と自分の道を想起させられることを恐れるばかりに、どこに行っても自分の過去に自由と幸福を求めるのだった。

彼らにとって人類はあるでき上がったもので維持され保護されねばならないものだった。わたしたちにとって人類はひとつの遠い未来であり、私たちはみなそれを目指して途上にあるのであって、その姿は誰にも知られず、その掟はどこにも書いてなかった。

全世界を獲得したが、そのため魂を失った。

戦争。もうみんな開戦を楽しみにしている。それほど生活がみんなにとってつまらなくなっているのだ。

古いものに執着している人たちにとって、新しいものはおそろしいだろう。

いまだ誰もが大きな車輪にまきこまれるだろう。

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』学校によってスポイル・去勢される少年の物語

人間は極度にまれにしか理想のために生きることができない。しかしすべての人間が理想のために死にうる。多くの人が運命の意志にりっぱに近づく。彼らから未来をつくることができるだろう。

底のほうで何かが成長しつつあった。

血生臭いしぐさは内心の放射にすぎなかった。新たに生まれうるために、狂い殺し滅ぼし死なんと欲する、内的に分裂した魂の放射にすぎなかった。巨大な鳥が卵から出ようと戦っていた。世界は崩壊しなければならなかった。

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デミアンの感想

「デミアン」を重傷を負った兵士の遺稿だと読む人もいるそうです。主人公シンクレールはたしかに戦場に出て怪我をするのですが、わたしは死んだとは読みませんでした。

無意識に求める大いなる母。デミアンの母にそれを求めました。そしてデミアンとは自分自身でした。つまりそれは自分の母と同じことです。

「どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。すべての人間の生活は、自己自身への道である」これが本書『デミアン』のメインテーマでしょう。けっきょく自分の指導者であったデミアンは自分の似姿にほかなりませんでした。自己を導くものはすなわち自己である、と。

すべてのできごとは心の中で演じられたものでした。

『ステッペンウルフ』と同じような寓話の物語だったのです。

さすがはヘルマンヘッセ。反逆の、ヒッピーの魂の先駆者だなあ、という気がする本でした。

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