ドラクエ的な人生

手塚治虫『どろろ』の不思議

先日、Wi-Fiで動画を見すぎて、通信速度規制がかかったことを力いっぱいディスったが、その時見ていたのが手塚治虫原作『どろろ』であった。

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『どろろ』のあらすじ

※あらすじについての基本的な考え方はこちら

初出1969年の手塚治虫の漫画。戦国武将の父が天下と引き換えに息子の体の一部を妖怪に差し出してしまったことから眼や耳や腕や足を失った芋虫みたいな子供として生まれてきた百鬼丸が自分の体の一部を所有する妖怪を退治しながら旅をする物語。妖怪を退治すると失われてた体の一部が蘇る。相棒のどろろは百鬼丸の妖怪退治の腕を売ってお礼をもらおうと付きまとう。使い魔のような立ち位置。

作品としては水木しげる先生の妖怪ものが世の中で受けていたので、それにあやかって手塚流妖怪作品を作ったとされている。戦国時代の妖怪ものということもあり、どろろは「暗い」作品である。秀逸な設定であるにもかかわらず、あまり人気がでなかった。

『どろろ』というのは不思議な作品である。まず主人公が「どろろ」じゃない。自分の体を戦って取り戻していく百鬼丸がどう見ても主人公である。『どろろ』というのは『ブラックジャック』のタイトルが『ピノコ』であるようなものなのだ。あるいはラストに「どろろ」を主軸にした大どんでん返しを手塚先生は用意していたかもしれないが、人気が出なかったため、そこまで連載がつづくことはなかった。つまりなんで作品タイトルが『どろろ』なのかは謎なのである。違和感が残るが語感がいいため「作品タイトルを百鬼丸に変えよう」とは誰も言い出さないようだ。

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通常のヒーローと違い、百鬼丸は弱くなる。

普通、主人公というのは物語が進むにつれてどんどん強くなる。経験を通じて、学び、成長していくからである。成長譚、ビルディングスロマンと言ったりする。

ところが百鬼丸というのは戦って勝つたびに弱くなっていく。最初は痛みを感じない義手義足だったものがやがて自分の本当の手足となると傷を負い血を流し激しい痛みを感じる。耳を取り戻し聴覚が戻ると周囲の音がうるさくてたまらない。人間離れした存在から、どんどん人間になっていく。人間離れした強さはなくなり、どんどん弱くなっていく。

非常に変わった設定であり、それゆえに面白くなる可能性を秘めている。

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百鬼丸もピノキオがモデルか

百鬼丸がかっこいいのは両手に刃が仕込まれていて、戦うときはカバーのような義手を外して、上腕部分の刃で戦うからです。こういう主人公はこれまでにいませんでした。しかしやがて腕が生えてきて、手で刀を持って戦うようになります。その時、なんだかガッカリしました。両腕が生え揃ったら、ただの武士ともう同じではありませんか。人間離れした存在だったからこそ百鬼丸はかっこよかったのに。これじゃあ変身できない仮面ライダーのようなものです。

ちなみにスペースコブラの左腕に仕込んだ「サイコガン」は百鬼丸の腕の仕込み刃がモデルだと言われています。作者の寺沢武一は手塚治虫の弟子筋なんですね。

同じく1972年の石ノ森章太郎『人造人間キカイダー』も、不完全な良心回路(現在のAIのようなもの)をもつ人形(人造人間)が人間になることを目指す物語ですが『どろろ』に似ています。キカイダーは『ピノキオ』がモデルだと言いますから、百鬼丸のモデルも実はピノキオかもしれません。ブラックジャックのピノコはピノキオの女の子だからピノ子なんだとか。 三つのしもべに命令する横山光輝『バビル二世』は『西遊記』がモデルだといいます。もはや元ネタが完全に消えてしまっているところが巨匠たちの凄いところだといえましょう。

ともあれだんだん人間になっていくにつれて、弱くなっていく百鬼丸。最後は最も弱くなった状態で、自分を芋虫人間の運命に陥れた父親と宿命の対決のはずでした。天才・手塚治虫がそこまで描かなかったからこそ、この作品は後のクリエーターたちにイマジネーションを与え続けているのでしょう。

両の上腕に刃を仕込んだ浮浪者のような百鬼丸が、妖怪に立ち向かっていく姿が今も脳裏に残っています。流浪の旅人のような二人の姿が、今の私に少なからず影響をあたえているかもしれません。

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