千日回峰行者のようにランナーも何者かになれるか?
仮想地球一周ランニングをつづけているサンダルマン・ハルトです。
みなさん、今日も元気に走っていますか?
私は地球一周(実際には二巡目)するにあたって、比叡山の千日回峰行のことを強く意識しています。
叡山のマラソン・モンクが回峰行によって生き仏になれるのならば、地球一周も走れば、ランナーも何者かになれるのではないでしょうか?
無心の境地はランニングも回峰行も同じですが、道中、行者さまは真言(祈り)を唱えています。
しかしノーミュージック・ノーランニングのランナーは常時祈り続けるわけにはいきません。
せめて「いちランニング、いち祈り」でいいので、ランニングの途中、一瞬でも何か祈願をすることはできないでしょうか。
世界平和とかコロナ撲滅とか世のため人のために祈る場所がランニングコースの途中にあれば最高です。
そう思ってランニング中にいい場所を探していたら、なんとコースの途中にすばらしいものがありました。
小さな富士山。
そう富士講です。
富士講とは何か?
富士講とは霊峰富士山をご神体として礼拝する神道系の宗教です。
富士山頂に神がいる。これはもう理屈じゃありません。
縄文時代から連綿と日本人の遺伝子に刻み込まれた自然宗教の感覚です。
あえて理屈をさがすとすれば審美眼ってことになるでしょうか。
もしも神様がいるならば富士山にいるはずだと幼い頃、私も思いました。
だって富士山だけが白いんですもの、他の山とは違って。
明らかに他の山と違います。
神様に選ばれたように富士山だけが美しい。
もし神がいるなら、あそこにいるはずだ、と日本人は思います。
これはもう理屈じゃありません。
ただ日本一高い山だとか、竹取物語の不死の山伝説に彩られていなくても、富士山は日本人に神を感じさせる何かを持っています。
今や富士山は、葛飾北斎の浮世絵のおかげもあって世界的にも有名です。
私は世界一のエベレストを見ていますが、富士山のように神は感じませんでした。
ニイタカヤマノボレの新高山、台湾玉山にも神は感じませんでした。
富士は世界一美しい山です。
まさに三国第一山なのです。
その世界一美しい山に登って、山上で遥拝すること。
それが富士信仰であり、その登山と祈祷を助けるための組織が富士講と呼ばれるものです。
富士登山の「行ったつもり」。小さなご神体が富士塚
江戸時代には関所というものがあって、人々はそう簡単に移動することができませんでした。
もちろん公共交通機関もありません。
富士山まで歩かなければなりません。
江戸から富士山頂で遥拝して往復すると8日以上かかったそうです。
江戸なんて近い方です。富士山を目視できるんですから。
地方はもっと時間もお金もかかります。
庶民が誰にでもできることではなかったのですね。
だから「講」という団体をつくって、みんなでお金を出しあって代表者が登って祈願したそうです。
代表は順番ですから、いつか自分の番が来ます。
その時までは仕方なく地元の富士塚という小さな富士山に登って祈りを捧げていました。
いわば富士登山の「行ったつもり」。小さなご神体。
それが富士塚の役割です。
関所もありそう簡単に旅行できなかった時代の富士登山が富士講だったという側面もあります。
今では世界中から登山客を集めている富士山に、江戸時代の人もきっと登ってみたかったに違いありません。
しかし「遊びのために何かをする」ということが社会的に認められている時代ではありませんでした。
「遊びとしての登山」はありえなかったのです。
そこで遥拝という名目を持ってきたのです。
巡礼の旅なら認められます。
徳川家康をはじめ、為政者はみんな宗教を手厚く保護していました。祟りがあったらたまりませんからね。
お伊勢参りが物見遊山の旅行で、富士講が富士登山だった側面もあります。
巡礼の旅といえば、通行がゆるされた。いわば抜け道だったのですね。
小さな富士山に毎日登り、毎日祈る瞑想ランニング
いわば私の仮想ランニング地球一周と、いにしえの富士講は同じものです。
関所とかあってそう簡単に行けないから「行ったつもり」で富士塚に登って祈る。
国境とかあってそう簡単に行けないから「行ったつもり」で地球一周ランニングをする。
発想は同じです。
小さな富士山を私はランニングコースに取り入れることにしました。
毎日登山、毎日遥拝。
それが私の瞑想ランニングです。
千日回峰行者さまのように常時真言を唱えて。。。なんてとても無理ですが、せめて小さな富士山の上でひとこと祈るぐらいのことは私にだってできます。
あなたの家の近くにも富士塚があるかもしれません。
それは富士講の小さな富士山です。
「六根清浄、お山は晴天」
コノハナサクヤ?
あなたも登ってみてはいかがですか?