ドラクエ的な人生

葛飾北斎とゴッホ

画狂人といって、みなさんは誰を思い出すだろうか。私はゴッホを思い出す。

ここでは自ら画狂人と名乗った葛飾北斎について述べています。

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どうして「彼」は葛飾北斎と呼ばれるのか?

いつものように車中泊で小布施に行ってきた。小布施には葛飾北斎の大天井画があると聞いて、それを見に行ったのである。

天井画はもちろん凡百の画家に書けるような絵ではなかった。

しかし私がもっと興味をそそられたのは、小布施市にある「北斎館」での北斎の浮世絵そして肉筆画の展示であった。

信州小布施 北斎館|画狂人葛飾北斎の肉筆画美術館
信州小布施 北斎館では、肉筆画を中心に、版本や錦絵など、葛飾北斎の画業を広くご覧いただけます。北斎が80歳を超えた晩年に手がけた東町・上町の祭屋台天井絵「龍図」「鳳凰図」、「男浪図」「女浪図」が常設展示されています。

浮世絵が刷った絵でコピーがいくつもあることを知らなかった私は、若い頃、パリで北斎の絵を見るために駆けずり回った経験がある。世界中にパリにしかないと思ったのだ。

北斎館ではたくさんの刺激を受けたが、いちばん面白かったのは、彼の画号(ペンネーム)の多彩さである。

北斎は画歴の中でいくつかの画号(ペンネーム)を変えている。30回余も変えているそうだ。

数多くの画号の中で、どうして「彼」は葛飾北斎として後世に伝わったのか、不思議に思ったことはないだろうか。

私には不思議だった。どうして彼は葛飾北斎と呼ばれているのだろう。

それを同じようにたくさん改名した「もうひとりの彼」と比較して考えてみる。

Wikipediaの中で、彼は「葛飾北斎」であるが、「もうひとりの彼」は豊臣秀吉と呼ばれている。

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最大・最高の仕事をした時の画号は為一。ラストの画号は画狂老人卍

最大最高の作品を世に出した時のペンネームが残ったと考えることができる。

「彼」の最高の作品といえば世界で二番目に有名な絵ともいわれる「神奈川沖浪裏」を含んだ『富嶽三十六景』である。

しかし「富嶽三十六景」の頃の画号は為一であったのだ。だとすれば、「彼」の名は為一として残るのが普通ではなかろうか。

ちなみに「もうひとりの彼」の最大の仕事はほとんど「羽柴秀吉」の時代に行われたものだ。中国大返しも、山崎の合戦も、小田原城攻城戦も、羽柴秀吉が行っている。

あるいはその生涯で最も長く使われた画号が後世に残ったということも考えられなくもない。

だとすれば「もうひとりの彼」の人生で最も長く使われたのはやはり羽柴秀吉ということになる。なのに彼は豊臣秀吉として記録されているのである。

「もうひとりの彼」が豊臣秀吉と記録されるのは、天下を獲った後、最後の最後、ラストネームだからということだろう。そうとしか考えられない。

だとすれば画壇で天下を獲った「彼」の最後の最後、ラストネームは画狂老人卍である。葛飾北斎ではないのだ。Wikipediaで彼の名前は画狂老人卍として記録されていてもよかったはずなのである。

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「北斎漫画」があるから、彼は北斎なのだ

北斎の仕事に「北斎漫画」というものがある。画の大家として弟子たちに手ほどきしなければならない立場だが自分の執筆時間を削りたくないために「お手本集」のようなものを出版したのである。いわゆるスケッチ集である。ピアノでいうバイエル教則本のようなものである。

このスケッチ集は非常にお茶目なポーズに溢れている。

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江戸時代後期の庶民にこんなユーモアがあったのかと思うようなポーズに溢れている。ありとあらゆる絵が収められている。人間から鳥や獣まであらゆるものが。

文庫の表紙にもなっているが「おもしろ顔」のスケッチもある。いっぺんで虜になる画集である。

屁をこいている男の絵まである。どうしてそこまで書く必要があったのか(汗)。

私はこの文庫を購入して自宅トイレ文庫に置いている。頭を使わずにぱらぱらと眺めることができて最高だ。

1814年に北斎漫画が出版されたとき「彼」は「戴斗」という画号だったのだが、スケッチブックは北斎漫画というタイトルで出版された。

私は「彼」が葛飾北斎として記録されているのは、この北斎漫画の存在が大きいと考えている。

もちろん「戴斗」の前のペンネームの「北斎」の時点で「曲亭馬琴」ら「読本」の挿絵を手掛けることで著名となっていたからこそ、こんなスケッチ集を出版することができたわけである。

しかしこの時代の名声は、現代でいうと「原作・梶原一騎。作画・川崎のぼる」「原作・武論尊。作画・原哲夫」のようなものだ。北斎の力だけではなく曲亭馬琴や十辺舎一九など作家の力も大きかったのだ。

しかし北斎はただの作画家では終わらなかった。

原作のストーリーがなくても売れる絵、物語を添えなくても背景を想像できる絵を書いて、絵単独でも売れる浮世絵師として名声を手に入れていく。

世界的な画家と呼ばれるようになるまでに。

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同じ画狂人でも北斎は絵にまっすぐ。ゴッホの狂い方は違う

しかし昔の人はどうしてひんぱんに改名したのだろうか。それも私には謎であった。

現代人の感覚だと芸名、ペンネームを変えるのは芸にとって不利にしかならない気がする。

有名になるためにやっているのに、改名したら、これまでの努力がゼロに戻ってしまうではないか。

芸能人がときどき芸名を変えることがあるが、それはゲンを担いだものであろう。売れなくなったりして、運気を変えたくて改名するのである。

ところが北斎は売れるとか売れないとか世俗のことを気にしている風がないのだ。

ゴッホと比べると絵にまっすぐ邁進している。生活とか栄光とか絵以外の苦悩が見えてこない。

さわやかに絵に邁進している。心が現世のあれやこれやに囚われていない。そこがゴッホと違うところだ。ゴッホはとても世俗のことを気にした。世俗のために狂ったと言ってもいい。

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画狂人といってゴッホを思い出すと冒頭で私は述べた。たしかにゴッホの絵『星月夜』には狂気を感じる。その狂気が魅力でもあるのだが。

絵が狂っているのではなく、画家が狂っている。苦しいと叫んでいる。その叫びが伝わってくる。

ところが北斎の絵は明るい。絵が狂気を叫んでいないのだ。あるがまま、という感じである。

画狂人と自ら名乗った北斎であるが、決して自らは狂っていなかった。

狂っていたのは絵に取り組む常軌を逸した熱意だけだった。

以下のような言葉が北斎の臨終前の言葉として伝わっている。

「五十歳の頃から数々の図画を本格的に発表してきたが、七十歳以前に描いたものは、実に取るに足りないものばかりであった。七十三歳で鳥獣虫魚の骨格や草木の何たるかをいくらかは悟ることができた。ゆえに(精進し続ければ)八十歳でますます向上し、九十歳になればさらにその奥意を極めて、百歳でまさに神妙の域を超えるのではないだろうか。百十歳となれば一点一格が生きているようになることだろう。願わくば、長寿を司る神よ、私の言葉が偽りでないことを見ていてください。画狂老人卍述

たしかに絵に狂っているが、狂気ではない。ゴッホの星月夜は狂っているが、北斎の神奈川沖浪裏は波は猛り狂っているが、絵師は狂ってはいない。

我を去って、悟りの境地を目指しているかのようだ。どこか澄みきっている。

我を去れないヴィンセント・ヴァン・ゴッホは37歳で死に、我を去って絵にのみ執着した北斎は90歳まで生きた。

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襲名と改名は違う。改名したら無名のスタートラインに戻ってしまう

改名したら無名のスタートラインに戻ってしまうはずなのに、どうしてわざわざ改名したのか?

この謎の続きである。

芸能人にありがちな、売れないからゲン担ぎで改名したという動機は、北斎にはありえないことがわかった。

飢え死にしてはしょうがないが、絵に集中できる環境さえあれば、北斎は富貴とか名声とかを求めるタイプではない。むしろそういうものに画業を邪魔されることを嫌った。

ではどうして何度も改名したのか?

現代風に言えば、改名したら、フォロワーとの繋がりが切れてしまうではないか。

そういえば現代でも改名をいとわない人たちがいる。歌舞伎役者や落語家など伝統芸能の人たちである。

松本幸四郎を急に松本白鸚と言われてもなあ。。。やっぱり松本幸四郎として名前が残るんじゃないの? という気持ちが私にはある。それゆえに「彼」が葛飾北斎として伝わっていることに謎を感じているわけだ。

中村勘九郎を勘三郎と言われてもなあ。。。改名しない方がよかったんじゃないの? という気がする。九も三もたいして変わらないじゃん。

歌舞伎十八番の市川團十郎みたいな凄すぎる先代がいればまだしもだけど、勘九郎(五代目)の方が、昔の勘三郎よりも著名人だったじゃん。コクーン歌舞伎平成中村座だろ? 世界中の人が知ってるよ。

だのにどうして改名なのか?

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自分の芸が永遠でないことを知っていた

きっと本人は、自分の芸が永遠でないことを知っていたのであろうと思う。

先代から受け継ぎ、後世に伝える遺伝子DNA情報のような気持で芸を捉えていたのではないか。

とくに肉声や映像を残すメディアがない昔の人は、自分が死んだら芸も名声が消えてしまうことを知っていた。

ただ芸の神髄を受け継いだ後輩が、名前を襲名してくれることのみが、すこしでも我が名を残す手段だったに違いない。

だから襲名という儀式が必要だったのだろう。

現にそうやって古い歌舞伎の名前は生き残っている。せめて名前だけでも。

しかし北斎は誰かの名前を襲名したわけではない、ただの改名である。

襲名と改名は違う。襲名は過去の天才の威光を借りることができるが、改名はまったくのゼロに戻ってしまうのだ。

手塚治虫が漫画誌の新人賞に別のペンネームで応募して入賞したというエピソードを聞いたことがあるが、北斎も同じ気持ちだったのかもしれない。

作家の名前ではなく絵のクオリティを見てくれ。この絵ならどんな名前でも売れるはずだ、と。アーティストにはそんな自負があるのかもしれない。

新人賞なんて何回だって受賞してやる、というような。

けれども売る側にはもちろんその理屈は通用しなかった。私の心配とそっくり同じ心配を江戸時代後期の出版サイドは感じていた。

出版は儲けが目的だから、どこの誰とも知らない人の浮世絵よりも、有名な絵師の浮世絵の方がもちろん売れることを知っていた。

アーティストに敬意を表して、いちおう改名はさせたが、「北斎改め画狂老人卍」といった感じで、売れたペンネームとの繋がりを完全には消させなかった。

かつての北斎ファンは画狂老人卍の本も買うべきだ、だって同じ人物なんだから、というわけである。

こうして北斎の名前が後世に残ったわけである。

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北斎あれこれ。パフォーマーの元祖、触手系エロの元祖、江戸時代はアジアだったことの証明

やたらと改名し、やたらと引っ越しし、やたらと描いた。それが葛飾北斎である。

北斎はパフォーマーでもあったようだ。現代でも書道家が胴回りほどの強大な筆で人間サイズの字を書くパフォーマンスがあるが、あのパフォーマンスのハシリは葛飾北斎らしい。

150畳ほどの紙に達磨の顔を書くパフォーマンスアートをやったのだそうだ。

北斎館でそういうことは初めて知った。

北斎は春画も書いている。世の中のすべてを書くとされた絵師の面目躍如でもある。おそらく出版側の要請もあっただろう。

北斎の春画を見ると面白い。北斎、女性の胸には全く興味がないね。バストを性的アピール部分として描いていない。三角形にポッチを乗せただけの手抜きの乳である。

また北斎の春画には、タコやイカが女体を這いまわるというものがある。いわゆる触手もの、触手系エロのハシリといってもよさそうだ。

興味がある方は検索してみてください。

北斎の浮世絵に旅人は旅笠・ノンラーをかぶっている。ベトナムとかでは今でも普通にかぶっている日よけの帽子だ。江戸時代はアジアだったのだ。

私も一時期愛用していた。首まで完全に日よけになるし、台座つきの旅笠は頭の上を風が通るので、髪の汗を乾かして涼しいのだ。野球帽子よりもずっとアウトドアに向いでいる帽子だ。登山にも使えるぞ。

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最後にショッキングな出来事がひとつだけあった。せっかく小布施の北斎館まで見に行ったのに、なんと墨田区の「すみだ北斎美術館」の展示が入れ替わり出張で来ていたのである。

本来の小布施北斎館の展示物は現在、私の家の近くの「すみだ北斎美術館」にあるというのだ。

これじゃあ墨田の方にも行かなければなあ。日帰りだけど。

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すみだ北斎美術館は、葛飾北斎とつながるアートやものづくりを通じて、まちでの新しい交流を生み出し、産業や観光へも寄与する地域活性化の拠点となることを目指します。
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