神道の鏡は「自分」を発見するたとえ? 哲学的で深淵な教義?
森の中に鳥居があって、参道をすすむと屋根があって、そこに人々は手を合わせます。屋根の下には往々にして鏡が置いてあります。鏡と対面しても自分自身を発見できるだけであり、哲学的にも深遠な教義をもっているのかと錯覚します。
ところがそうじゃないんだなあ。日本の神さまって由来の正しいのはほんの数名で、何も成し遂げていない、名前だけ古事記に登場してすぐ去っていく脇役神がたくさんいます。
どうもこの神社に祀られている神さまというのがよくわかりません。各地の神社を訪れると、何でこの土地でこの神さまを信仰しているのか、さっぱりわからない、ということがしょっちゅうです。
キリスト教における聖書。神道における古事記
ところがこの書物を読んでも「何でこの神さまを祀っているんだろう? はっきりいってザコじゃん」と思うことがしょっちゅうあります。
具体的に書きましょう。私にとって身近な神社が何を祀っているのか?
日本の神さまをギリシア神話にたとえると?
車中泊の旅でよく訪れる鹿島の海。鹿島神宮はタケミカヅチを祀っています。タケミカヅチは雷神です。ギリシア神話の雷神ゼウスに相当します。古事記ではオオクニヌシとタケミナカタを降伏させた強い神さまとして描かれています。なるほど鹿島神宮はいくさの神さまとされています。何の不思議もありません。
出雲大社はタケミカヅチに降伏したほうのオオクニヌシを祀っています。このオオクニヌシは因幡の白兎伝説の主人公ですし、古事記のエピソード数ではスター級です。最後に負けた側というのが気になりますが、地元神でもあり祀っていてもまあ不思議はありません。
ところが御柱祭で有名な信濃の諏訪大社ではタケミナカタを祀っているのです。タケミナカタはタケミカヅチに出雲で負けて逃げた先の諏訪で降伏するという神さまです。なんでこんな神様を主神として祀っているんでしょうか? どうかんがえてもタケミカヅチを祀った方がご利益がありそうですけど。
うちの近所(茨城県常総市)に一言主神社という「かなり大きな神社」があります。ヒトコトヌシという神を祀っています。古事記によるとヒトコトヌシは「悪いことも一言、よいことも一言で言い放つ神」だそうです。おおっ! なんかすごそうですね。でも神託の預言をするわけでもなく、ただ簡略にビシッと言うのが得意なだけの神さまなのでした。国語力はありそうですが……なんでこの神を祀っているのかさっぱりわかりません。しかもヒトコトヌシは大和の葛城の神(奈良県の神)だとされています。なんで茨城県でヒトコトヌシを祀っているのかさっぱりわかりません。タケミカヅチでいいじゃん。同じ茨城県(常陸の国)なんだから。
静岡県にも山梨県にもある浅間神社ではコノハナサクヤビメを祀っています。コノハナサクヤビメはニニギのお嫁さん。海幸彦、山幸彦の母親です。山幸彦の子供が初代・神武天皇ですね。このように天皇=神様という神道からいうとキーパーソンのひとりですが、別に何か奇跡をおこなったわけでもなく、火の中で神の子を出産したというだけです。ご神体は富士山でよかったのではないでしょうか?
先日、福岡国際マラソンで必ず言及される筥崎宮という神社に行ってきました。筥崎宮に祀っているのは神功皇后と応神天皇。神功皇后というのは韓国を征服したという皇母です。フィクションらしく、三韓征伐の話しを韓国人にしたら殴られると思いますので気をつけて。応神天皇というのは神功皇后の子供で八幡様のことです。ギリシア神話でいう軍神アレスですね。石清水八幡宮、鶴岡八幡宮などの八幡宮の主神は応神天皇ということになります。南無八幡大菩薩! このあたりから純粋な神さまというよりは天皇(=神)を祀る神社が登場してきます。応神天皇がなんで軍神になったかというと……国を発展させたからという理屈らしいのですが、とくに軍略の才・武功があったわけではないようです。ヤマトタケルとかを軍神にすればいいのに(笑)。
厳島神社ではイチキシマヒメという神を祀っています。もはや何のことだかわかりません。イチキシマヒメは何も成し遂げていません。古事記の中にただ名前だけが登場する神です。いちおうアマテラスの娘なのですが、最初からアマテラスを祀ったらいいんじゃないでしょうか?
ほかにもニニギを道案内しただけのサルタヒコを祀っている猿田神社とか、同じく神武天皇を道案内しただけのヤタガラスを祀っている神社とか、そんなに道案内って大事でしょうか? 最初から道案内された本体(ご本尊)の方を祀ればいいと思うんだけどね。
もはや古事記にまったく登場しないキツネを祀っている稲荷大社とか……なんでその神様を祀っちゃったのよ? そのような脇役神を祀っている神社が日本中にたくさんあるのです。もはやその神を拝まなければならない必然性がわかりません。
なんで茨城県で葛城の一言主を拝まなきゃならないんだか……知恵といくさの女神アイギスもつアテネを拝んだ方がましだという気がします。
せっかく建立した神社に、なんでこんな脇役神を主神として祀っているんだか?
このようにギリシア神話と比較すると、日本の神話には神格がはっきりとしていない神さまが多数登場します。「あんた誰?」と言いたくなるような。
ギリシア神話だったら、酒好きの人はディオニソス神を信仰し、技術者はヘパイストス神を信仰し、農業をやっている人はデメテル神を信仰するといったように、ご利益と信仰神が直結しています。わかりやすいのです。
でも日本人は戦いの勝利をイチキシマヒメに祈ったり、病気の快復をキツネに祈ったり、もうメチャクチャです。拝まれた神さまのほうも迷惑だろうな。
天岩戸伝説で、女陰を見せて神々を盛り上げたというアメノウズメは芸能の神さまということになっているようです。芸能というよりもヌードショー(アダルトビデオ)の神さまという感じがしますけど(笑)。
せっかく建立した神社に、なんでこんな脇役神を主神として祀っているんだか……いっそアマテラスでいいじゃん。スサノオも誰もかなわない圧倒的な主神なんだからさ。
ましてやヒトコトヌシを祀るなんて(笑)。まだエホバ神の方がましじゃない? エホバは旧約ではユダヤ民族だけの嫉妬深い神さまでしたが、新約では世界中の人を救うとしています。日本人も例外ではありません。葛城の要約して言うだけが取り柄の神様よりも信仰すべき理由があるのではないでしょうか?
鎮魂、慰霊、が神社の本質だから、祀られている神さまの神格は関係ないんだ、と井沢元彦さんなら言うかもしれませんけどね。
でも信仰するならやっぱり強くて霊験あらたかなパワフルな神さまの方がいいじゃん。なんで神話に名前しか登場しない脇役神を拝まなきゃならないのよ?
神社は神社。どこもだいたい同じ。似通っていて、観光地としてはおもしろくない
(結論)神社は神社。どこも同じ。どこへ行っても似通っていて、特段おもしろくはない。
九州に行ったから大宰府天満宮にいかなきゃ、とか、千葉県に行ったから香取神宮にいかなきゃ、とか、旅の初心者はそう思いがちですが、ぜんぜんそんなことはありません。神社は神社です。どこへ行ってもたいたい同じです。鳥居があり、屋根があり、榊があって、鏡があります。どこへ行っても似通っていて、神社はその土地ならではのスペシャルな観光地というわけではありませんでした。代わり映えなく、そういう意味で神社は旅先の観光地としておもしろい場所ではありません。
でもちょっとした自然があじわいたくなったり、静かな場所に行きたいと思ったら、神社はオススメです。お寺は入場料をとるところがありますが、神社はまず無料です。
静かな場所を無料で提供してくれているだけでも神社には存在価値はあります。
祀られている神さまの格と、ご利益の問題は、また別の話しです。
神社はいいところだ。でもなんでその神様を拝まなきゃならないのか意味が分からない場合が多すぎる。