ボヴァリー夫人は私です
このブログの著者は『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべきおすすめの名作文学・私的世界の十大小説』という著書を出版しています。
その中の筆頭格にとりあげた三島由紀夫『サド侯爵夫人』の中に「アルフォンス(サド侯爵)は私だったのです」という名言が二回も登場します。
今になって考えてみれば、この名言の元ネタは、サドと同じフランス文学者フローベールの「ボヴァリー夫人は私です」という名言なのではないでしょうか。
ちなみにフローベール『ボヴァリー夫人』はサマセット・モームの元祖『世界の十大小説』に選出されています。
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『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え
(本文より)「エンキドゥが死ぬなら、自分もいずれ死ぬのだ」
ギルガメッシュは「死を超えた永遠の命」を探し求めて旅立ちますが、結局、それを見つけることはできませんでした。
「人間は死ぬように作られている」
そんなあたりまえのことを悟って、ギルガメッシュは帰ってくるのです。
しかし私の読書の旅で見つけた答えは、ギルガメッシュとはすこし違うものでした。
なぜ人は死ななければならないのか?
その答えは、個よりも種を優先させるように遺伝子にプログラムされている、というものでした。
子供のために犠牲になる母親の愛のようなものが、なぜ人(私)は死ななければならないのかの答えでした。
エウレーカ! とうとう見つけた。そんな気がしました。わたしはずっと答えが知りたかったのです。
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『ボヴァリー夫人』のあらすじ
地方の平凡な医師、シャルル・ボヴァリーと結婚したエマ。彼女がボヴァリー夫人です。エマは人生にロマンチックな期待をよせていました。しかし夫は退屈な人間で、エマは現実の生活に失望します。上流階級の舞踏会で出会った若いレオンに惹かれますが、レオンは去ってしまいました。その次に現れたロドルフとは不倫関係になり、恋を味わいます。すべてをすてて駆け落ちしようとしますが、ロドルフには逃げられてしまいました。鬱状態になったエマはレオンと再会し、今度は関係を結びます。贅沢に浪費を続け、借金生活となります。とうとうお金を返しきれなくなって、エマは自殺しました。夫のボヴァリーも後を追うように亡くなるのでした。
『ボヴァリー夫人』の内容詳細
シャルル(夫)の話しは歩道のように平凡で、月並みな考えが普段着のままそこを行列していった。なんの感動もあたえず、笑いも夢もなかった。泳ぎもできず、剣術も知らず、ピストルも撃てない。馬術用語を彼女に説明してやることもできなかった。
ああ、なぜ結婚なんかしたんだろう。別な偶然のめぐりあわせで、ほかの男に出会うことはできなかったか。みんながみんなこんな男とは限らない。修道院のみんなはどうしているかしら?
→ 主人公エマは医者のボヴァリーと結婚したので「ボヴァリー夫人」というわけです。この医者、実直でいいひとなのですが、女をドキドキ、ワクワクさせるような才能には恵まれていませんでした。
ジャコモ・カサノバ『回想録』世界一モテる男に学ぶ男の生き方、人生の楽しみ方
自分の生活は北の窓しかない納屋のように冷たく、退屈という蜘蛛が心の四隅に巣をはっている。
→ ただ「退屈だ」とつぶやくのではなく、北の窓しかない納屋、とか、退屈という蜘蛛が巣をはる、など表現するところがフローベールの描写のうまさです。
シャルルはまるきり野心を持っていないのだ。なさけない人! なさけない人! 唇をかみしめながら小声でつぶやいた。
自分のまだ知らない夢中の興奮をほしがっていた。
→ ろくに恋を知らないまま結婚してしまったボヴァリー夫人は、小説などに描かれる本物の恋に恋焦がれてしまうのでした。
弱気と欲望に泣いていた。おれのどこがこの人に気に入らないのか? 彼は心に問うていた。
恋愛とは雷鳴や電光とともに突如として来るもの……。
なかなかいいな、あの医者の細君は。亭主はかしこくないな。細君はきっとうんざりしているんだ。退屈してるんだよ。かわいそうに。あの女は恋にあこがれているんだ。二言三言やさしいことを言ってやればのぼせあがってくるよ。それはいいが、さてあとで切れるにはどうするか?
→ はい! 女になれた遊び人に、恋に恋するタイプの人妻は引っかかってしまうのですね。日本でもフランスでも事情は同じみたいです。
二つの川が流れた末に一つになるように、私たちそれぞれの持ち前の個性に押しやられて近づく結果になったのですよ。
夜の冷気が二人をいっそうしっかり抱き合わせた。唇を漏れるためいきはいっそうはげしく、かすかに見えるたがいの目が大きく感じられた。
一方の男に打ち込んで身をまかせればまかすほど、もう一方の男への憎悪が増した。ロドルフと逢引した後ほど、シャルルが愚鈍に見え、態度が俗っぽく見えることはない。
→ 遊びと割り切れないまじめな性格なので、ついには夫を憎むようになります。
おれは国を飛び出したり、子どもの世話をしょいこんだりすることはできん。だめだ。だめ。あんまりばかげてる!
芝居のような愛で彼女を愛してくれた人は地上にたれひとりいないのだ。
彼女は誘惑の魅力と、それから身を守る必要と、両方に心をすっかり奪われていた。
「いけないことだわ、ねえ、あなた」
「なにが? こんなの、パリではよくありますよ」
→ エマには恋へのあこがれのほかに、パリでの華やかな大都会の暮らしへのあこがれもありました。十代の女の子のような性格をしているのです。
目に焼き付いたイメージにそそりたてられる苛烈な欲望のためじっとしていられず、その欲望はレオンの愛撫のうちにどっと燃え上がる。こういうものはやがて消え失せるものではないか。
このとき以来、エマの生活はもはや嘘のかたまりでしかなくなった。
→ 不貞不倫で夫に嘘をつくことをおぼえたエマはやがて借金でも夫に嘘をつくようになります。
彼女がレオンのおんなであるよりも、むしろレオンが彼女のおんなになっていた。こうしたみだらさをエマはどこでおぼえたのだろうか?
あなたは、あたしの弱みにずうずうしくつけこもうとなさるのですか? あたしはこまっていますが、からだは売りません。
あのね……あたし破産したの、ロドルフ! あたしに三千フラン貸してちょうだい。
はァ! つまりそのために、おれを訪ねてきたのか。
彼女はつい本心をさらけ出してしまった。もう方針を見失っていた。
いままでの多くの裏切り、あさましかった行為、自分を悩ましていた数えきれぬ欲望も、これでケリがついた。もうだれも憎んではいなかった。
※「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」→不倫をテーマにしたこのコラムの著者の著作です。ぜひお読みください。
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(本文より)
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
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不倫で破滅するのではなく、借金で破滅するボヴァリー夫人エマ
私は読む前は『ボヴァリー夫人』は不倫の話だろうと思っていました。しかし後半はなんと「借金問題」に苦しめられます。意外な展開でした。そして結局、不倫のトラブルで罰を受けるのではなく、破産によってエマは自殺します。
キリスト教国では神の見えざる手によって罰せられた、と因果応報を感じることもできるでしょうが、日本人が読むと、なんだか不倫は不倫、破産は破産で別の話しではないか、という気がしてしまいます。不倫したから破産したんだ、とはなかなか論理的につながりませんよね? 神の罰、といったものを想定しなければ、不貞と破産はつながりません。
いずれにしてもボヴァリー夫人はみずからの欲望によって身を滅ぼした、ということを作者のフローベールは書きたかった……のでは決してないでしょう。予定調和のハッピーエンド(読者ウケ)を狙ったのはあくまでもいいわけであって、この社会の中でおのれの気持ちに素直に生きることの難しさを描きたかったのだと私は思います。

