ドラクエ的な人生

フローベール『ボヴァリー夫人』の内容、あらすじ、魅力、書評について

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ボヴァリー夫人は私なのです

このブログの著者は『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべきおすすめの名作文学・私的世界の十大小説』という著書を出版しています。

その中の筆頭格にとりあげた三島由紀夫『サド侯爵夫人』の中に「アルフォンス(サド侯爵)は私だったのです」という名言が二回も登場します。

今になって考えてみれば、この名言の元ネタは、サドと同じフランス文学者フローベールの「ボヴァリー夫人は私なのです」という名言なのではないでしょうか。

ちなみにフローベール『ボヴァリー夫人』はサマセット・モームの元祖『世界の十大小説』に選出されています。

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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!

かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。

すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。

『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。

その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。

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『ボヴァリー夫人』のあらすじ、内容、魅力、書評

シャルル(夫)の話しは歩道のように平凡で、月並みな考えが普段着のままそこを行列していった。なんの感動もあたえず、笑いも夢もなかった。泳ぎもできず、剣術も知らず、ピストルも撃てない。馬術用語を彼女に説明してやることもできなかった。

ああ、なぜ結婚なんかしたんだろう。別な偶然のめぐりあわせで、ほかの男に出会うことはできなかったか。みんながみんなこんな男とは限らない。修道院のみんなはどうしているかしら?

→ 主人公エマは医者のボヴァリーと結婚したので「ボヴァリー夫人」というわけです。この医者、実直でいいひとなのですが、女をドキドキ、ワクワクさせるような才能には恵まれていませんでした。

ジャコモ・カサノバ『回想録』世界一モテる男に学ぶ男の生き方、人生の楽しみ方

自分の生活は北の窓しかない納屋のように冷たく退屈という蜘蛛が心の四隅に巣をはっている。

→ ただ「退屈だ」とつぶやくのではなく、北の窓しかない納屋、とか、退屈という蜘蛛が巣をはる、など表現するところがフローベールの描写のうまさです。

シャルルはまるきり野心を持っていないのだ。なさけない人! なさけない人! 唇をかみしめながら小声でつぶやいた。

自分のまだ知らない夢中の興奮をほしがっていた。

→ ろくに恋を知らないまま結婚してしまったボヴァリー夫人は、小説などに描かれる本物の恋に恋焦がれてしまうのでした。

弱気と欲望に泣いていた。おれのどこがこの人に気に入らないのか? 彼は心に問うていた。

恋愛とは雷鳴や電光とともに突如として来るもの……。

なかなかいいな、あの医者の細君は。亭主はかしこくないな。細君はきっとうんざりしているんだ。退屈してるんだよ。かわいそうに。あの女は恋にあこがれているんだ。二言三言やさしいことを言ってやればのぼせあがってくるよ。それはいいが、さてあとで切れるにはどうするか?

→ はい! 女になれた遊び人に、恋に恋するタイプの人妻は引っかかってしまうのですね。日本でもフランスでも事情は同じみたいです。

二つの川が流れた末に一つになるように、私たちそれぞれの持ち前の個性に押しやられて近づく結果になったのですよ。

夜の冷気が二人をいっそうしっかり抱き合わせた。唇を漏れるためいきはいっそうはげしく、かすかに見えるたがいの目が大きく感じられた。

一方の男に打ち込んで身をまかせればまかすほど、もう一方の男への憎悪が増した。ロドルフと逢引した後ほど、シャルルが愚鈍に見え、態度が俗っぽく見えることはない。

→ 遊びと割り切れないまじめな性格なので、ついには夫を憎むようになります。

おれは国を飛び出したり、子どもの世話をしょいこんだりすることはできん。だめだ。だめ。あんまりばかげてる!

芝居のような愛で彼女を愛してくれた人は地上にたれひとりいないのだ。

彼女は誘惑の魅力と、それから身を守る必要と、両方に心をすっかり奪われていた。

「いけないことだわ、ねえ、あなた」

「なにが? こんなの、パリではよくありますよ」

→ エマには恋へのあこがれのほかに、パリでの華やかな大都会の暮らしへのあこがれもありました。十代の女の子のような性格をしているのです。

目に焼き付いたイメージにそそりたてられる苛烈な欲望のためじっとしていられず、その欲望はレオンの愛撫のうちにどっと燃え上がる。こういうものはやがて消え失せるものではないか。

このとき以来、エマの生活はもはや嘘のかたまりでしかなくなった。

不貞不倫で夫に嘘をつくことをおぼえたエマはやがて借金でも夫に嘘をつくようになります。

彼女がレオンのおんなであるよりも、むしろレオンが彼女のおんなになっていた。こうしたみだらさをエマはどこでおぼえたのだろうか?

あなたは、あたしの弱みにずうずうしくつけこもうとなさるのですか? あたしはこまっていますが、からだは売りません。

あのね……あたし破産したの、ロドルフ! あたしに三千フラン貸してちょうだい。

はァ! つまりそのために、おれを訪ねてきたのか。

彼女はつい本心をさらけ出してしまった。もう方針を見失っていた。

いままでの多くの裏切り、あさましかった行為、自分を悩ましていた数えきれぬ欲望も、これでケリがついた。もうだれも憎んではいなかった。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」→不倫をテーマにしたこのコラムの著者の著作です。ぜひお読みください。

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主人公ツバサは小劇団の役者です。

「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」

恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。

「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな

アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。

「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」

ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。

「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」

惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。

「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ

劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。

「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も

ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。

「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」

ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」

「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」

尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。

妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ

そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。

「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」

そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。

「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」

そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。

「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って

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不倫で破滅するのではなく、借金で破滅するボヴァリー夫人エマ

私は読む前は『ボヴァリー夫人』は不倫の話だろうと思っていました。しかし後半はなんと「借金問題」に苦しめられます。意外な展開でした。そして結局、不倫のトラブルで罰を受けるのではなく、破産によってエマは自殺します。

キリスト教国では神の見えざる手によって罰せられた、と因果応報を感じることもできるでしょうが、日本人が読むと、なんだか不倫は不倫、破産は破産で別の話しではないか、という気がしてしまいます。不倫したから破産したんだ、とはなかなか論理的につながりませんよね? 神の罰、といったものを想定しなければ、不貞と破産はつながりません。

ジョン・バニヤン『天路歴程』の魅力・あらすじ・解説・考察

いずれにしてもボヴァリー夫人はみずからの欲望によって身を滅ぼした、ということを作者のフローベールは書きたかった……のでは決してないでしょう。予定調和のハッピーエンド(読者ウケ)を狙ったのはあくまでもいいわけであって、この社会の中でおのれの気持ちに素直に生きることの難しさを描きたかったのだと私は思います。

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