『サド侯爵夫人』三島由紀夫の最高傑作

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三島由紀夫の最高傑作『サド侯爵夫人』。

サディズムの語源ともなったドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドを主人公とする三島由紀夫作の戯曲である。

サド侯爵(1740-1814)が主人公であるが、劇中、サドは一度も登場しない。会話の中で出てくるのみである。サドのことは頭の中でイメージするしかない。

放蕩無頼の快楽主義者の貴族として知られているサド侯爵だが、正真正銘の作家であり、哲学者である。

自由を愛する行動派なのに投獄され自由を奪われたために作家になるしかなかった自由な魂というのが私のサド評だ。

サドが太陽、夫人ほか女性たちが惑星とすれば、惑星の運行の戯曲である。

私はこの作品を三島由紀夫の最高傑作だと考えている。

作家サドとはどのような人物か。

ひとことでいうと獄中文学者である。反キリスト文学であるが、キリスト教文学者といってもいいかもしれない。サドは殉教者のような生涯を送った。地獄がなければ天国のありがたみが実感できない。ヒトラーであればあるほどチャーチルの評価はあがる、というわけである。

キリスト教を理解しないかぎりサドは理解できない。

74年の生涯のうち30年を(精神病院を含む)獄中で過ごした。30年も獄中で読書三昧で過ごしたら、誰だって頭がおかしくなるだろうし、神を呪いたくもなるだろう。

そしてフロイトよりも遙か以前に「性欲」を哲学的に研究している。フロイトは性欲を人間のエネルギーと捉えたが、サドにとって性は神と戦う武器であった。キリストの神が禁欲を宗旨としていたからである。

今どき、生殖と結びつかないセックスは駄目とかいう人はいない。産みたくないなら避妊が積極的に推奨されている。そういう意味でサドは時代を先取りした人物であった。オナニーの語源オナンは避妊のため膣外射精をしたために神に処刑されている。生殖に関係のないセックスは罪だったのだ。

快楽主義者サドは禁欲の宗教に猛然と反発する。

だったら絶対に生殖しない同性愛肛門セックスはどうなのだ、と神を挑発するのである。

小説に書くのではなくサドは行動にうつした。まだ時代は中世の色を残していた。キリスト教を攻撃するのは危険な行為だった。侯爵という貴族最高の地位をもつことから政敵も多く、大スキャンダルによって死刑を宣告される。国外逃亡したため肖像画が焼かれ、やがて捕縛されたサドは投獄されることになるのだ。

サドの義母マダム・ド・モントルイユは家の名誉のためにサドを獄中に閉じ込めておこうとする。放蕩無頼の神の反逆者は侯爵家にはふさわしくないためである。自分の行動が娘のためだと信じていた。

ところが娘のルネは夫のために社会的権力のある実母とまっこうから戦うのである。

無頼の夫のために脱獄の手助けまでした。自分をどれほど辱めても、家族と世間を敵に回してたった一人で夫のために働き続けた。赦免の愛想嘆願は無論、紙やインク、本、食べ物の差し入れを欠かすことはなかった。

結婚生活の聖者と呼ばれたサド夫人の行動は謎に満ちている。悪魔のような夫の毒に魂が痺れてしまったのであろうか。しかしルネはこの上ない純真さを保っていたという。

この獄中でサド侯爵はとうとう歴史に残る作家になるのである。

作品の大半は先駆者に無理解の大衆によって破棄されてしまったが、ごく一部が現代まで残っている。

神に挑みかかるような作中の残虐な描写から、後世、加虐趣味のことをサディズムと呼ぶようになった。

母を愛し父をうとむ幼児期の心理をスフィンクスを破った英雄エディプス王からエディプス・コンプレックスと呼ぶようなものだ。

神話の人物のような扱いをされているが、フランス革命の時代に実在した作家である。

バスティーユ監獄の襲撃にはじまる「自由・平等・友愛」のフランス革命によって、囚人サドは解放された。

しかしルネ夫人はサドに会うことを拒絶して、二人は遂に二度と会うことはなかった。脱獄の手助けまでした夫人がなぜ? 三島でなくても誰もが驚く夫人の心境の謎である。本当に、唖然とする。

戯曲には書かれていないが、サド夫人と別れた後もサドは生き続ける。

民衆の革命はギロチンによる恐怖時代を迎えていた。サドの小説を残虐と評した民衆は貴族など上流社会の人々を次々と残虐な血祭りにあげていた。

サディズムの元祖よりも民衆の方がよっぽど残虐だった。

そんな中でサドは理性を保とうとする。

自分を獄中に押し込めた宿敵モントルイユ夫人の死刑に反対した。

そんなサドを反革命的な温和主義者だとして民衆は再び投獄するのである。

祈りと愛、神の意志などどこにもなかった。

偉大な人間には偉大な敵がいる。

三島の戯曲『サド侯爵夫人』であるが、作中の世界観は三島由紀夫のものか、それともサド侯爵のものか?

三島自身の自作解題にもあるとおりサド侯爵夫人ルネは貞節を、ルネの母モントルイユ夫人は法・社会・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、サン・フォン夫人は肉欲を、妹アンヌは女の無邪気さと無節操を、召使いシャルロットは民衆を代表、象徴し、かしゃくないロゴスとパドスの相克、セリフの決闘が展開される。

『サド侯爵夫人』は三島由紀夫の作であるため、書かれている内容のすべてが三島由紀夫の主義・思想だと思ってしまう人がいるかもしれない。

しかしそうではない。

戯曲の中の世界観、哲学はどちらかといえば三島の世界観ではなく、サド侯爵の世界観である。時にサン・フォン夫人の、時にモントルイユ夫人の口を借りて、サド侯爵の哲学が語られている。

ルネ「ああ、自然は結局どれもこれも、ふさわしいものばかりですわ」

モントルイユ「お前の口を借りて、アルフォンスが喋っているようだ」

戯曲上の演出ではなく、本当にルネの口を借りてサド侯爵が自分の思想を喋っているのである。

ある種の腐敗が発酵と呼ばれ人類の役に立つように、サドのような悪徳も人類の役に立つというわけである。

神の栄光に満ちたこの世界にふさわしくない存在なんてない。

本当に偉大な神がいるのならば、どんなことでも許されるはずだ。

そうではないか?

全員がキリスト信者だったら、いまだに世界は中世のままのはずだ。

偉大な人間には偉大な敵がいる、というアフォリズムがある。

サドが怪物と呼ばれるのはキリストに徹底的に抗ったからに他ならない。

キリストの奇跡に対し、性欲と理性で対抗した。

その生涯は不幸で無残な敗北だったかもしれない。でも無駄ではなかった。

神の敵について考えれば考えるほど、神についても考えざるを得ないからだ。

だからサドは殉教者と呼ばれることもある。

21世紀の現在、最終的には、理性は宗教に勝利したといっていいのではないだろうか。

世界は神がつくったなんて教科書で教えない。

ビックバンや、万有引力や、進化論によって、世界はできていると教わるはずだ。

生殖に関係のない性欲は罪だ、なんていうやつはもはや罪人だろう。

先駆者としてのサドの戦いは決して無駄ではなかったのだ。

反キリスト文学。

『サド侯爵夫人』はきわめてキリスト教的な作品である。

神の敵について考えれば考えるほど、神についても考えざるを得ない。

キリスト教が理解できなければ、『サド侯爵夫人』の深さは、本当の意味では理解できない。

牢獄のサド侯爵をルネ夫人は助けようと必死になった。

ルネ「私は六年間、どうしてもひらかない石の扉を叩き続けた。それでもどうしても私の力では扉は開かなかった」

キリスト教の「叩けよさらば開かれん」という言葉と対になっているわけだ。

このようにところどころにアンチ・キリスト的な表現が出現するが、もちろんこれは三島由紀夫ではなくサド侯爵の世界観である。

三島由紀夫とサド侯爵の共著といってもいいぐらいだ。だからこそ奇跡の名作が誕生したのだろう。

闇があるから光があるように、サドの悪徳があるからキリストの美徳がよりいっそう鮮明になる戯曲の構造となっているのである。

時代背景はフランス革命前後である。人間は今よりもっと不自由で、もっと縛られていた。

そんな時代背景のことも作品理解の中では考慮しなければならない。

第1幕では、まだ獄中作家サドは投獄されていない。世間でスキャンダラスな事件を繰り広げている。

サン・フォン「見えない主に唾をひっかけ、挑発し、怒りをそそり立てようと躍起になるのでございます。それでも神聖さは怠けものの犬です。日向に寝そべって昼寝にふけり、尻尾を掴もうが、髭を引っ張ろうが、吠えることはおろか、目をひらいてさえくれはしません」

モントルイユ「あなたは神を怠けものの犬だとおっしゃるのね」

サンフォン「ええ。それも老いぼれた」

神を挑発するようにサドは快楽を追求する。神を冒涜する暗い喜びがなければ、燃えなかった、かもしれない。

教会で認められていない行為だからこそ、哲学者の実践には意味があった。

もし本当に神がいて、教義どおりなら、許されざる行為を行った自分は神の雷光に打たれて死ぬはずだ、と。

雷(カミナリ)は神鳴りである。

サドは本当に雷に打たれたらいいとさえ思っていたかもしれない。そうなれば本当に神がいるって証明されたということだから。

しかしそうはならなかった。サドが投獄されたのは神の罰ではなく、政争の道具にされたからである。

サディズムとマゾヒズムは逆転し、正しいものと正しくないものは逆転する。

哲学者サドは作品の中で、キリスト教を理性的に理解できないものとして徹底的に否定している。

戯曲の主題のひとつは「(キリスト教が示すような)確かなものなんてない」という価値観の転換・崩壊であろう。

サド侯爵と同じように作品には全く登場しないが、この作品の劇的転換にはフランス革命が決定的な役割を演じている。

虐げるものと虐げられるものの逆転、それが革命である。

それと同じようにサディズムとマゾヒズムは逆転し、正しいものと正しくないものは逆転する。

それがサドの思想だ。

モントルイユ「悪を救うにも法と正義の力だけしか頼りにならないということですよ」

そう信じていたモントルイユ夫人の身の上に、フランス革命がふりかかる。

飢えた民衆が最高権力者の国王をギロチンで処刑するという上下の逆転現象が起こった。

絶対王政というこれまでの社会の規範、ルールが逆転したのだ。

サド夫人ルネは実母モントルイユを批判する。

ルネ「あなた方は出来合いの鍵と鍵穴です。約束事や世間の望むままの材料で出来上がった、しきたりや道徳や正常さと一緒に寝て、睦言にも御自分たちの正しさを語り合った」

ルネ「かけがえのない? あなたこそ、かけがえのきくことを何よりの誇りになさっている方のはずですのに」

ルネ「それぞれの抽斗に人間を区分けしてお入れになる。モントルイユ夫人には正しさを、アルフォンスにはぞっとする悪徳を。でも地震で抽斗が引っくりかえり、あなたは悪徳の抽斗に、アルフォンスは正しさの抽斗に入れられるかもしれませんわ」

この地震こそがフランス革命であった。

法・社会・道徳を代表するモントルイユ夫人は、フランス革命の後は、すっかり自信をなくしている。

モントルイユ「正しいことと、正しくないことの線は、海の岸辺の潮の差引で移るさかいのように、いつも揺れ動いているのではございませんか?」

この言葉も実際にはモントルイユの言葉ではなくサド侯爵の思想である。三島が言わせているのだ。

モントルイユ「世の中がひっくりかえったおかげで、永いあいだアルフォンスのことで気を遣った世間態というものもなくなってしまった。私が長年信じてきた法と正義は死んでしまった。罪人という罪人、狂人という狂人が、日の目を見るのも今日明日のうち」

フランス革命による階級社会の逆転。確かなものなんてないという感覚は日本人には理解しやすいかもしれない。

革命の価値崩壊は、太平洋戦争直後の日本にも似ている。妄信していた鬼畜米英が崩壊し、ギブミーチョコレート民主主義に生きることになった日本人には。

この価値転換は、太平洋戦争の敗戦で若き三島由紀夫が体験したことそのものであっただろう。

国のため、天皇のために死ぬはずだった三島は、鬼畜と呼んでいたアメリカの恩恵を享け、個人主義者として生きることが許された。

日本人は生きる規範を失ってしまった。

現人神は人間宣言をした。

フランス革命のような劇的な価値崩壊、価値転換が敗戦ニッポンにも起きていたのである。

それを体験した三島由紀夫だからこそ、フランス革命の価値転換の時代とサド侯爵の哲学を作品にしたのだろうと私は思っている。

作家の自由とは、魂の自由のこと。

サン・フォン「子どもは親や世間から与えられえた遠眼鏡を逆さに使って見ております。そして健気にも世間の道徳やしきたりの命ずるままに、世間の人と同じように安楽に暮らそうという望みさえ抱きはじめます。

でも、ある日、突然それが起こります。今まで眺めていた遠眼鏡は逆さまで、本当はこんな風に、小さなほうの覗き口に目を当てるのが本当だという、その発見をする大きな転機が」

サン・フォン「そのとき今まで見えなかったものが突然如実に見え、遠い谷間から吹く硫黄の火が見え、森の中で牙をむき出す獣の赤い口が見え、自分の世界は広大で、すべてが備わっていることを知るのです」

サドの百科全書家、哲学者としての側面を象徴している比喩である。

数奇な運命をたどった作家サドは社会によって牢獄に監禁されることになった。しかしフランス革命によって社会が引っくりかえって、バスティーユ監獄「自由の塔」から救出されるのである。

バスティユ監獄「自由の塔」というのは、牢獄の名前としてはまことに皮肉なネーミングである。

ルネ「あなた方は夢にも、鍵を開ければ一面の星空がひろがる不思議な扉のことなどを、考えてもごらんにはならなかった。兎を見れば愛らしいとおっしゃり、獅子を見れば怖ろしいとおっしゃる。ご存じないんです。嵐の夜には、かれらがどんなに血を流して愛し合うかを」

肉体は不自由の極みにありながら、作家サドの精神はしかし誰よりも自由であった。キリスト教が禁止するありとあらゆる悪徳を小説中のイマジネーションで実現していく。

ルネ「アルフォンスは日に夜を継いで、牢屋の中でこれを書き続けました。何のために? 牢屋の中で考えに考え、書きに書いて、アルフォンスは私を、一つの物語の中へ閉じ込めてしまった。一つの恐ろしい物語の、こんな成就を助けるためだけに、私たちは生き、動き、悲しみ、叫んでいたのでございます。私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます。」

無限のイマジネーションがあれば、肉体の不自由など「もともと」であると三島は言っているのだ。

ルネ「バスティユの牢が外側の力で破られたのに引きかえて、あの人は内側から鑢一つ使わずに牢を破っていたのです。牢はあの人のふくれ上がる力でみじんになった。そのあとでは、牢にとどまっていたのはあの人が、自由に選んだことだと申せましょう」

もともと肉体は有限なものだ。「近所の散歩しかしない老人は、牢獄の庭の散歩しかしない囚人と同じようなものだ」というわけである。

もともと人間の肉体は限界の中で暮らしている。おれたちはみんな牢獄の中にいる。

後年、「肉体」を主張した天才作家は、ここでは精神の優位性という真逆の主張をしているが、私はどちらも三島由紀夫だと思う。まさにサディズムとマゾヒズムの反転のようなものだ。思想のサド的な価値転換をしたといえよう。

ルネ「薔薇を愛することと、薔薇の匂いを愛することを分けられまして?」

キリスト教も、徹底的に肉体を軽視して、精神世界の優位性を謳う宗教である。

ルネ「この世界の果て、世界の外れに、何があるか見ようともなさらず、あなたは死ぬのです。自分が蔑んだものにとうとう傷つけられなかったことをただ一つのほこりになさって」

民衆の方が革命によってはるかにたくさんの血を流したのだ。

サドは鞭とボンボン、民衆はギロチン。さて残虐なのはサド侯爵か、民衆か、どっちだろう?

三島由紀夫は1970年11月25日、割腹自決によって、この世を去った。

神の天敵は、神のごとき存在。

シミアーヌ「……みんな昨日のことのような気がいたします。つかのまに私たちを染め変える「時」というものが、裳裾を引いてこの客間を通り抜けていっただけではございませんか。そして私たちの耳はその裳裾の衣擦れをさえ、しかと聴き分けなかったではございませんか」

私は『サド侯爵夫人』の舞台を見たことがあるが、舞台の上でこのセリフは非常に心に沁みる。三幕の芝居のあいだに十二年の年月が経っている。フランス革命が起こり、世界が変わったのだ。

しかし観客にとっては一瞬の出来事である。

シミアーヌ「あなたは神の釣り人の糸にかかった魚です。いずれは釣り上げられることをご存知だった。神はその手にとらえた魂を、あの光の牢獄、歓びの人屋へと、連れ去ってゆくのでございます」

モントルイユ「え? 世を捨てる、とお言いなのかい?」

いよいよサドが自由の身となって出獄してくるときになって、ルネは夫を捨て、世を捨て、信仰の生活に入ろうとする。

シミアーヌ「聖い光の源はただ一つしかありません」

キリスト教は一神教なので、光は神の方角からしか差しこまないというわけだ。

ルネ「もしかしたら同じ源かもしれません。でも、どこかで光がはねかえり、別の方角から差してくるのかも……」

シミアーヌが不安になるのは当然といえよう。

神の天敵は、神のごとき存在である。

そうでなくてはならない。対等な存在でなければ戦えない。

失楽園』でミルトンが描くサタンが偉大な英雄のように見えるのは敵が偉大だからである。

神の敵サタンは暁の明星ルシフェルとよばれた神にもっとも近い偉大な天使であった。

聖侯爵が光の騎士に見えるのは、当然のことなのだ。

コンテンツは芸術家の魂の内側にあるもの。

出所したサドと、二度と会わなかったルネ夫人の人生の謎には誰もが驚かされる。

ただの夫ではない。聖侯爵である。

脱獄の手伝いまでして尽くし抜いた、人生のすべてといってもいいような、最愛の夫が帰ってきたのだ。

その相手と、なぜ、会わないのだろう。

誰だって、そこまでは思う。

しかしそれを圧倒的な筆力で書き上げたのは三島由紀夫の力である。

ルネ「あの人は私と不可能との間の閾のようなもの。ともすれば私と神との間の閾なのですわ。泥足と棘で血みどろの足の裏に汚れた閾」

このような発想をする女は、血の通った生身の女ではない。ルネは宗教家のように形而上の世界に飛翔してしまったのであろうか。

だからもう夫とはもう暮らせないのだろうか。

ルネ「あのようなものを書く心は、人の心ではありません。もっと別なもの。心を捨てた人が、人のこの世をそっくり鉄格子のなかへ閉じ込めてしまった。

同じルネの謎に突き当たった。

でも三島由紀夫『サド侯爵夫人』のような戯曲は私には書けない。他の誰にも書けない。

ルネ「格子の外であの人は何と光って見えますこと。この世でもっとも自由なあの人。時の果て、国々の果てにまで手を伸ばし、あらゆる悪をかき集めてその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしているあの人。アルフォンスは天国への裏階段をつけたのです」

天国への裏階段。三島由紀夫だからこそ書けたのだ。

ルネ「神がその仕事をアルフォンスにおまかせになったのかもしれません。アルフォンス。私がこの世で逢った一番ふしぎな人。悪の中から光をつむぎだし、汚濁を集めて神聖さを作り出し、あの人はもう一度、雄書正しい侯爵家の甲冑を身につけて、敬虔な騎士になりました。人の悩み、人の苦しみ、人の叫びが、けだかい銀の兜の角ごとにそそり立ち、あの人は血に飽きた剣を唇にあてて、雄々しく誓いの言葉を述べる。

籠手をはずして現れた女のような白い美しい手が、人々の頭にふれると、もっとも蔑まれ、もっとも見捨てられた人も勇気を取り戻し、あの人のあとに従って、暁のほのめく戦場へ勇み立つ。

あの人は飛ぶのです。天翔けるのです。朝の稲妻のさしかわす空へ進んでゆく。そのとき空は破れて、洪水のような光が、見た人の目をのこらず盲らにするあの聖い光が溢れるのです。アルフォンス。あの人はその光の精なのかもしれませんわ。」

同じ事象と出会っても、人間性の謎に圧倒される私と、『サド侯爵夫人』を書き上げた三島由紀夫がいる。

コンテンツは外側にあるのではなく、作家の側にある。

外側ではなく内側にあるのだと私は思う。

魂はカオス。コンテンツは外側ではなく書き手の内側にある
魂はカオス。コンテンツは書き手の外側にではなく、内側にある。サイバー商店を開店しようというのなら特化ブログでもいいが、満たされぬ魂を解放させるためならば雑記ブログをはじめよう。

ルネ「お母さま。私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます」

ゴッホが糸杉や星月夜を描けたのは、糸杉や星月夜が素晴らしかったからではない。

素晴らしいものと出会えたから、素晴らしい絵が書けたわけではないと私は思う。

コンテンツははじめから芸術家の魂の内側にあったのである。

外側にあるように見えるコンテンツは、ただのきっかけにすぎない。

言葉にできない。作品でしかえがけないもの。それが芸術。

ルネの幻想の中の光の騎士(老いたサド侯爵)は、現実には歯が数本しか残っていないおどおどした目をした太った年寄りだった。

当然だろう。十八年も運動不足の牢屋に入れられていたのだから。

堀江貴文『刑務所なう。』最も自由な奴は、最も不自由な場所にいる!
堀江貴文さん。今ではほとんど放浪作家みたいなポジションで意見を発信していますね。自由な彼が不自由だった時代の記録です。身は不自由でも、魂の自由まで奪えないのは、世界共通のようです。

サド侯爵「忘れたか、シャルロット。私はドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵だ」

たった一言サドのセリフである。門の外、すぐそこにいるのに、とうとうルネは会わない。舞台に登場しない。観客もサドを見ることができない。

このもどかしさと言ったら。。。この余韻が作品を成功させているのだ。

ルネ「お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と。」

美しい夢は夢のままに。光の騎士は光の騎士のままに。

どうしてルネはアルフォンスと会わなかったのか。

私なりに感じるところはあるが、うまく言葉にできない。

それが芸術なのだろう。作品でしかえがけないものだ。

それが人生なのだろう。

これからの人生は、このような本にいくつ出会えるか、それを楽しみにしたい。

そのために生きてみたいものだ。

プロフィール


サンダルマン・ハルト。雑誌『ランナーズ』等に執筆歴のあるライター。『山と渓谷』ピープル・オブ・ザ・イヤー選出歴あり。サブスリーランナー。グランドスラムの達成者(100kmサブテン。富士登山競争登頂)。スイス・ブライトホルン。マレーシア・キナバル山。台湾・玉山ニイタカヤマ。南アルプス全山縦走など登山歴も豊富。キャンプ・車中泊マニア。アウトドア派の放浪の旅人。現在、仮想地球一周ランニング中。
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