「悟りの境地」には言葉は関係ない
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(本文より)
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
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ブログを書き、著作を残し、『世界名作文学紹介チャンネル』というYouTubeの運営もしています。そこまで言葉にこだわってきたわたしが感じることは、「悟りの境地」には言葉は関係ないな、ということです。むしろ言葉があればあるほど悟りからは遠くなるのではないでしょうか?
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『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え
(本文より)「エンキドゥが死ぬなら、自分もいずれ死ぬのだ」
ギルガメッシュは「死を超えた永遠の命」を探し求めて旅立ちますが、結局、それを見つけることはできませんでした。
「人間は死ぬように作られている」
そんなあたりまえのことを悟って、ギルガメッシュは帰ってくるのです。
しかし私の読書の旅で見つけた答えは、ギルガメッシュとはすこし違うものでした。
なぜ人は死ななければならないのか?
その答えは、個よりも種を優先させるように遺伝子にプログラムされている、というものでした。
子供のために犠牲になる母親の愛のようなものが、なぜ人(私)は死ななければならないのかの答えでした。
エウレーカ! とうとう見つけた。そんな気がしました。わたしはずっと答えが知りたかったのです。
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歴史的名著にも、世の中の真理なんて書いていない
そしてたくさんの歴史に残る名作を読んできて悟ったことは、「歴史的名著にも、世の中の真理なんて書いていない」ということです。
トルストイ『戦争と平和』知りたかった文学の正体がわかった!!
至高の境地は、言葉をなくした世界にある
言葉のない無音状態こそ悟りの境地なのではないか? これまでさんざん言葉と格闘してきたわたしにはそう思えるのです。無音、無風状態こそが悟りの境地です。
じゃあ、こんなブログ更新なんてやめてしまえばいいじゃないか、と思うでしょう? 実はそのことを考えています。あと一年と4か月したら、きっぱりと今の言葉偏重の暮らしは卒業しようと思っています。そしてその後は、言葉のいらない世界に生きようと思います。
行動者にとって、ときに言葉は無用の長物でしかありません。書斎を離れ、パソコンの前から旅立ったならば、言葉と格闘することは捨てて、今を生きることに集中したいと思います。いまを生きるとは体をつかうことに他なりません。きっとそれこそが悟りの境地なのだろうから。

