なんのために生きているのか。どう生きて、どう死ぬのか、人は真剣に生きるのならば、アウトドアライフと向き合わざるを得ない。
ここではわたしの哲学の核心であるアウトドアライフに対する考え方について語ります。
人は真面目に生きるなら、アウトドアに向きあわざるを得ない
「偶然の出会いからアウトドア生活にハマってしまいました」という誰かのツイートを見て、非常に違和感を覚えました。本当に偶然だろうか? と思ったからです。人がアウトドアと向き合うのは必然ではないでしょうか。
人は真面目に生きるなら、アウトドアに向きあわざるを得ない。わたしはそう思っています。自然と向き合うことなしに、真実を探すことなんてできません。なぜなら真実とは自然のことだからです。
書物だけをいくら読んでも何もわかりやしません。聖書もコーランも、それだけをいくら読んでも無駄だと思います。
読書というのは、読むために読むのではなく、この世界の真実が知りたくて読むのでしょう。
どう生きて、どう死ねばいいのか。だったらまずは書を捨てよ町へ出よう、です。
体を使うことなしに、何かを学ぶことなんてできない
この世界を知るためには、体をつかわなければ。体を使うことなしに、何かを学ぶことなんてできないとわたしは思っています。五官のすべてで。においを嗅いで。腹を壊すのでなければ、舐めた方がいいとさえ思います。子どもは何でも口に入れてぺろぺろ舐めます。体をつかわずに、この世界の何かを知る事なんでできないからです。大人になったら急にそれができるようになると思うのは大いなる勘違いだと思います。
世界の大きさを知りたければ、走ってみればいいのです。ジェット機で飛ぶよりも、地球の広さが確実にわかります。走れば、あなたが生きていくには日本だってじゅうぶんに広いということがわかるでしょう。
何でも買ってすませる習慣が、私たちから「生きるということ」を遠ざけてしまった
生活必需品は、ホームセンターで買うのではなく、もし自分で作れるのならば作った方がいいのです。その方が生きることの真実にすこしだけ近づきます。普段食べているものもスーパーマーケットで買うよりも、草花と格闘して収穫した方がいいのです。そうすればもっと人間がどう生きていくべきなのか深い知恵が身につくでしょう。自然が人間生活にどれほど大きな影響を及ぼすのかもよくわかるに違いありません。
何でも買ってすませる習慣が、私たちから「生きるということ」を遠ざけてしまいました。
自然災害とは、台風や洪水だけではありません。ちょっとした冷夏や旱魃、日照不足でも収穫に大きな影響を及ぼします。季節や気温に敏感になるでしょう。
料理もシェフが給仕してくれるものを食卓で待っているよりも、自分で作った方がいいのです。自分がどんな材料から出来ているものを食べているのか知るのは重要なことです。
人生を「買う」という行為だけで終わらせないために
現代は何もかも買うことができます。お金があれば暮らしに必要なものは全部買えます。便利な時代です。
その反面、すべては「買う」という行為で済んでしまいます。
食べることも「買う」。飲むことも「買う」。寝具も「買う」。移動手段も「買う」。雨露をしのぐ家も「買う」。すべてが買えばすんでしまいます。
便利な反面、それが人生を退屈なものにしてしまいました。
「買う」という行為はあまりにも簡単すぎて、それ自体として生きている実感を感じることができません。
「買う」という行為で人生が終わると、ゲームとしては簡単すぎて、生きている実感を得られない退屈な人生を送る危険性があります。
ゲームの目的が「買う」ための交換手段に過ぎないお金を貯めることとはき違えてしまう可能性があるのです。
私たちが走るのも、アウトドアに惹かれるのも、すべては生きている実感を得るため、この人生を「買う」という行為だけで終わらせないため、人が生きることの原点に回帰するためではないでしょうか。
生き方を真剣に考えれば考えるほど、自然と向き合わざるを得ない
人は生き方を真剣に考えれば考えるほど、自然と向き合わざるを得ないのです。なぜなら人間は自然の中の一部だから。
キャンパーというのは真実に手を触れようとしている人たちなのです。アウトドアライフは「はやりすたりのある趣味」ではありません。普遍的な人間生活のベースなのです。そこに立ち戻ろうというムーブメントが昨今のアウトドアブームなのだと思います。
人間が真剣に人生と向き合おうとしたらアウトドアに直面するのはむしろ必然でしょう。
偶然出会ったアウトドア生活にハマってしまいました、というのは、その人が潜在的に「どう生きるべきか」考えている思索的な人間だったからなのではないかと思います。
アウトドアは必然だと思うのです。真実に人が生きることを追求するのならば。
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