ドラクエ的な人生

竜馬がゆくの現実と虚構(フィクション)

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竜馬がゆくの現実と虚構(フィクション)

司馬遼太郎『竜馬がゆく』。生涯2度目の読了。高知の偉人、坂本龍馬のイメージを決定づけたとされる本です。

あえて「龍馬」を「竜馬」と変えることで史実・現実ではなく歴史小説であることを司馬遼太郎ははじめから企図していたと言われています。要するに史実、現実じゃなくて、司馬氏の創作なんだ、ということですね。

ではどこらへんが史実で、どこからが創作なのでしょうか?

歴史的名作の虚と実をさぐります。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

Bitly

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竜馬がゆくの虚実皮膜の間

どこまでが史実の龍馬で、どこからが創作の竜馬なのか。

本書を読み終えて、私はそこがイチバン知りたいと思いました。なんだが「三国志正史」と「三国志演義」みたいな関係ですね。

三国志だと三国志マニアという人たちがいて、正史と演義の違いを詳しく解説してくれるサイトが存在します。たとえば関羽は華雄を一刀両断していないとか。呂布とか張飛は意外と名将だったとか。諸葛亮は天才軍師ではなかったとか。

正史と演義は決定的に違うのです。三国志演義は虚構の部分がわかりやすい作品です。

ひるがえって『竜馬がゆく』はどうでしょうか。どこらへんまでが史実で、どこからが司馬氏の創作なのでしょう。

海援隊の武田鉄矢さんみたいな竜馬マニアが解説してくれているサイトがあるだろうとググったのですが、検索上位のサイトには現実と虚構をくわしく解説してくれているサイトはありませんでした。

それとも検索需要がなくて、おそろしく検索下位には存在するのかな。おそらく該当サイトは「ない」のでしょう。

どのサイトも司馬氏の『竜馬がゆく』が、坂本龍馬のイメージをつくった、と書いてあるばかり。それだけじゃ、司馬氏がどうやって竜馬のイメージをつくったのか、全然わからないですよね?
どこがどう司馬氏の創作で、現実とはどのように違うのか解説してくれている歴史に詳しいサイトを見つけられませんでした。

たとえば龍馬は薩長同盟なんか斡旋していないのに竜馬がやった仕事になっているとか。
龍馬は岩崎弥太郎のように貿易にしか興味がなかった生粋の商人なのに、竜馬は熱血の志士になっているとか。
そのような明確な事実があれば「ここは司馬氏の創作だ!」と指摘しやすいですよね?

でもWikipediaの年表的な記述を見ても、司馬氏のフィクションの部分というのはよくわかりませんでした。
あんがいフィクションじゃなく本当のことを書いてあるんじゃないの? という感じです。

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作劇上の強調をフィクションと呼んだのではないか?

「小説(歴史)を劇的に盛り上げる(虚構)ため、こうやるかな」という作劇術のうえでなら、いくつか指摘することが私にもできます。

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「自由だーっ!」と坂本龍馬は叫んだか?

「世に浪人ほど自由なものはない。後藤殿は浪人になったことがないから、この境涯のよさがわからぬのだ」

土佐藩への復帰を迫られたとき、土佐藩の家老の後藤象二郎に竜馬は言います。

何の違和感もなく読み進めてしまう人がほとんどだと思いますが、それは現代人の感覚です。

江戸時代の終わりごろのサムライが、自由というものに価値を感じて、そのためにツッパったかというと私は疑問に思います。

現代人は登山も海水浴もレジャーだと思っていますが、外国からレジャーという文化を輸入する以前にはレジャーとしての登山も海水浴も日本には存在しませんでした。

山に登るのは修験道の修行や狩りのためであり遊びで登山する人はいませんでした。海に入るのは魚を釣るためで遊びで海水浴する人はいなかったのです。

※言葉がなければ、概念もない、ということを書いた関連ブログです。お読みください。

マラソン。サブエガとは何か?(サブ・エガ)

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文化が輸入されるまで、登山、海水浴、自由は、日本にはなかった

自由も同じです。自由という文化が輸入されるまでは、そういうものは日本にはありませんでした。自由というのはliberty(freeedom)の訳語で、1866年の福沢諭吉の著書から世に広まった訳語だと言われているから、1867年海援隊の創立時点でぎりぎり竜馬が使ったとしても不思議はありません。

しかし問題はそこではありません。

実際の龍馬は自由を求めて脱藩したのではないと思います。土佐藩に帰藩したくなかったのは自由を失いたくなかったからではないと私は思います。

脱藩したのは郷士の次男坊といううだつのあがらない身分が不満だったからだし、帰藩したくなかったのは郷士として殿様に土下座するよりも海援隊長の方が生き甲斐があると思ったからだと思います。鶏口となるも牛後となるなかれ、ですね。

フリーターじゃあるまいし、決して自由のために帰藩しなかったのではないと思うのです。龍馬が幕末の奇跡のような現代的感覚の持ち主だったとしても、やはり「自由のため」というのは違和感があるのです。

そういうところを司馬遼太郎はわかっていて、本書は龍馬ではなく竜馬。歴史小説フィクションであると言ったのではないでしょうか。

キャラクターの心境独白は、作者の裁量にまかされているわけですから、だから「竜馬は私の創作」と司馬遼太郎は言ったのだと思います。

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「利のために」土佐藩士に戻ることを拒否したのを「自由のために」拒否したと、司馬遼太郎は創作した。

亀山社中が海援隊になる時、土佐藩に戻るよう後藤象二郎に説得された竜馬は「自由の方がいい」と言って断ります。
しかしあの状況だったら誰だって「利のために」土佐藩士に戻ることを拒否すると思います。
そこをあえて「自由のため」としたところが司馬遼太郎の創作だ、と指摘しました。
その方がヒーローとしてカッコいいですもんね。そう創作したくなります。
龍馬が土佐藩に帰藩しなかったのは史実、現実です。自由の方がいいから、としたのは創作です。
坂本龍馬が現代的感覚を持っていたのではなく、現代的感覚をもった司馬遼太郎が坂本竜馬に近代人のような独白させて、坂本龍馬のイメージを決定づけた。
これが正解なのだと思います。
『竜馬がゆく』はたくさんの人の心を動かし、本書を人生の書としている人たちがすくなからず存在する日本人必読書です。

未読の方は必ず読んでください! 読まずに死ねるか、の筆頭の書です。

坂本龍馬は落ちこぼれではなくエリート。北辰一刀流の免許皆伝は東大主席と同じ

電子書籍キンドル版も入手できます。

電子書籍キンドルの詳しい利用方法はこちらのページで詳しく説明しています。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

Bitly

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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。

物語のあらすじを紹介することについて
あらすじを読んで面白そうと思ったら、実際に照会している作品を手に取って読んでみてください。ガイドブックを読むだけでなく、実際の、本当の旅をしてください。そのためのイントロダクション・ガイダンスが、私の書評にできたらいいな、と思っています。

私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。

たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。

あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。

作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。

人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。

しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。

作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。

偉そうに? どうして無名の一般市民が世界史に残る文豪・偉人を上から目線で批評・批判できるのか?
認識とか、発想とかで、人生はそう変わりません。だから相手が世界的文豪でも、しょせんは年下の小僧の書いた認識に対して、おまえはわかってないなあ、と言えてしまうのです。それが年上だということです。涅槃(死。悟りの境地)に近いということなのです。
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