ドラクエ的な人生

【荒野のおおかみ】ステッペン・ウルフのあらすじ・書評・魅力・解説・考察

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映画『イージーライダー』の主題歌を歌うバンド名の由来にもなっているステッペンウルフ『荒野のおおかみ』

ここではヒッピーたちのバイブルでもあり、映画『イージーライダー』の主題歌を歌うバンド名の由来にもなっているヘルマン・ヘッセステッペンウルフ『荒野のおおかみ』について書評しています。

この書でいう「荒野のおおかみ」とは「満たされないままに残っている幼いころの欲求」ではないかと私は思います。それが「幼いころの欲求=ヘルマン」「幼いころの憧れ=ヘルミーネ」として立ち現れて、過去に決着をつけていく寓話だと私は認識しています。

黄色下線は本書から。赤字は私の注意喚起、感想です。

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オオカミの遠吠え、叫び

自由な意志をくじくことを原則とする教育でハリーは育った。

個性を破壊し、意志をくじく教育によって、主人公ハリー・ハラーは、本来の自分と、つくられた自分の二重生活を送ることになりました。

私は規則的に生活する市民的人間だというハリーは書物の人間で実際的な職業を営んでいません。そしてこんなたとえ話で。自分の破滅を意識している人間です。

「もちろん大多数の人間は泳ごうとしません! 地面に生まれついて、水に生まれついていません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません! そうです、考える人・・・は、・・・、まさしく地面を水ととりかえたものであって、いつかは溺れるでしょう」

自分は孤立していて、水の中を泳いでいること、根を失っていることを確信していました。

つくられた自分に安住しながら、荒野のおおかみの遠吠えを意識する人物です。あなたにも幼いころにやり残したこと、古い欲求の声が聞こえますか?

ハリーは平穏無事、満足健康快適、市民的楽天主義、中流で平凡を憎み嫌い呪った。平凡で決まりきった一日の仕事に不満と嫌気を感じてむしゃくしゃした気持ちになる。小市民社会の孤独な憎悪者なのに、ちゃんとした市民の家に住む自分に矛盾を感じていた。

神秘体験を、市民生活の中に見つけることは困難だ。荒野のおおかみはみすぼらしい隠者であってはならないのか? ハリーは破産した理想をさかなにじっと考え込んでいる酔いどれでした。自分と自分の生活に満足することを学ばなかった。

オオカミの声を聞かない人ほど、社会では楽に生きられます。

人間としての善行を果たしてもおおかみは一人で荒野を走ったり、雌のおおかみを追ったりすることがどんなに快いかを心中で知り抜いている。

彼の中の野獣を教育者たちが打ち殺す試みをした。

人間と荒野のおおかみは、一方はただ他方を苦しめるために生きていた。おおかみは滑稽に見えてむごたらしいあざけりを持って歯をむき出して笑った。

ハリーは二重性、分裂性をもっています。『荒野のおおかみ』はその相剋のドラマです。

ふたつの魂を、二つの性質を内に持っている。神的なものと悪魔的なもの、母性的なものと父性的なもの、本能と精神、おおかみと人間。

自分の自由は死であることを、孤立していることを、世間はハリーをほったらかしにしていることを、人間はもはやハリーに関係ないことを、希薄な空気の中で窒息していくことを学んだ。捨て置かれた。結びつきはなく、生活をともにすることは誰も欲しなかった。

畜群的人間、ハリーは市民の領域に住み続けた。その外には住んだことも暮らしたこともなかった。

高度の個性化によって非市民たるべき運命を負わされた人間だった。本能、野生、残虐性、粗野な性質を残しながら。

人間はむしろひとつの試み、過渡状態である。自然と精神のあいだの狭い危険な橋にほかならない。

オオカミと人間のあいだ、おさな心とおとなの心のあいだの危険な橋だとも言えます。

僕は研究をし、音楽をやり、本を読み、本を書き、旅行をしました。「いつもむずかしい複雑なことをやってきたくせに、簡単なことはぜんぜん習わなかったの? 人生を思う存分ためしてみたが、何も見つからなかったとでもいうようなふりをなさるのはいけないわ。あなたは気が狂っていなさすぎるんだわ」ヘルミーネはいった。あんたは子供じみていること天下一品ね。

私はヘルミーネは「やり残したおさな心」の幻想だと思います。彼女は母親に、初恋の彼女に、姿を変えてハリーのおさな心を目覚めさせる存在です。

彼女はときどき男の子の顔になる。私自身の少年時代とその頃の友だちを思い出させた。ヘルマンという名。女の時はヘルミーネという名。

ヘルマンというのはまさに作者ヘルマン・ヘッセの名前です。ヘルミーネの性別が変わるのは、ハリーが中世的存在だった幼いころの幻想だからに他なりません。まさに「やり残した思い」の象徴だと思います。

ゲーテは踊りを習うことをおこたらなかった。かれはすばらしく踊ることができた。しかしハリーの凝固した心臓ではうまく踊れない。

僕に対する最後の命令とは何かね。ヘルミーネ「私の命令を果たし、私を殺すのよ」。

『プライマル・スクリーム』でいうところの幼いころの報われなかった苦痛がヘルミーネです。やり残した思いを果たして、決着をつけることを「殺す」といったのでしょう。

なんて臆病者なの。若い女に近づく人は誰だって笑われる危険をおかすわ。当たって砕けるのよ。最悪の場合は笑われるまでのことよ。

死ぬってことがあればこそ、生命がほんのひと時あんなに美しく輝くことがあるのよ。

心のたたかい。緊張状態。闘争です。ハリーは勝てるでしょうか?

あの人とはじゅうぶんに気をつけて交際しなければいけない。あの人はひどく不幸だ。

理想的に悲劇的に恋することはできても、平凡に人間らしく恋することができない。

インテリの秀才意識(自分は特別だ)という意識が、人間に埋没することを忌避させて、ハリーは不幸になっていたのでした。

音楽は語るものでなく音楽するもの。

自分の問題や思想を女性たちに押しつけていた。

マリアは回り道や代用を必要としなかった。

この現代日本にも人生を楽しめないインテリがたくさんいます。学校の成績が悪かった人ほど人生を楽しんでいたりしますよね。

ヘルミーネ「あんたと私の間には、あの人の思いもつかないことがあるわ」

それは過去の幻想ということでしょう。自分の少年時代であり、母との関係だということでしょう。

金儲け主義の男に使われて、タイプライターの前でみじめに無意味に年を取っていく。

あんたは世間にとっては次元をひとつ多く持ちすぎているのよ。今日の生活を楽しもうと思う者は、ほんとの仕事、ホントの情熱を求める人は、世間は故郷じゃないわ。

ひとつだけ次元が多い、遊びであり、象徴だった。

ヘルミーネの言ったことばかり考えていた。それは彼女の思想ではなく、私の思想であると思われた。それを目の鋭い彼女は読み取り吸い込んで再現してくれた。

心は過去の闇の中にある。次元をひとつ多くというのは「荒野のおおかみ」ということであり、「古い感情」ということであり、「やり残したこと」であり、本能というよりは、童心だと私は思います。

大勢の中に個人が没し去る秘密。夢中になって自分から解放された人。荒野のおおかみが祝祭の陶酔の中に溶けていた。自分も一度は幸福になったことがあるのだ、輝かしく、自分から解放され、兄弟になり、子供になったのだ。

三島由紀夫が「御神輿かつぎ」の陶酔を執筆していますが、同じものだと思います。

『サド侯爵夫人』三島由紀夫の最高傑作

ヘルミーネは私の目からだけでなく、頭からも消えた。婚礼のダンス。聞き覚えのある笑い声。不満のために、世界に絶望したために、殺しているのです。世界には人間が多すぎるんだ。僕たちは人間を減らしてるんだ。

サーカスの見世物にされる飼いならされたおおかみ。

おさな心は現実の中に消えてしまう人がほとんどです。ハリーは例外にほかなりません。飼いならされて、ありふれたつまらないオトナになってしまう人がどれほど多いことでしょうか。

自分の過去の生活はすべて誤まっており、愚かな不幸に満ちていた。今はしかし、誤りは償われた。すべてが別なようになり、すべてがよくなった。

プライマル・セラピーでいうところの、過去の原初の傷に触れて、苦痛を理解して、今とつながった。かつての恋愛をもう一度経験した。取り逃がした恋愛のすべてが、魔法のように私の庭で咲いた。それによって心を突き上げる叫びは解消されたということです。

彼女たちは来て去った。おおかみの生活が恋と機会と誘惑に富んでいたことを知った。

自分の天分から不幸をこしらえあげた。

いかにして愛によって人を殺すか。それはつまり幼き頃の傷ついた自分を愛によって葬り去ることでした。チャンスがなかった不幸な人生ではありませんでした。選ばなかった自分を知ったのです。

芸術家の理想モーツアルト「私はその職業をあきらめて、隠退しましたよ」。

君なんか書いたり、たわいもないことを喋ったりしたつぐないに、さんざんにうちのめされるがいい。何もかも盗んできた寄せ集めじゃないか。

進め、老ハリー。老い疲れた男よ。

作者ヘルマン・ヘッセが必死に自分を励ましています。ノーベル文学賞を受賞した作家ですが、作家として成功しようと、一行も何も書かなくても、人生の価値はそこにはないということでしょう。

裸で他の男とたわむれていたヘルミーネを刺し殺してしまう。

実際に刺殺したわけではなりません。象徴的にトラウマからの解放を意味します。過去の傷がおおかみの叫びとなっていたものを、理解し、葬り去ったのでした。

自分の内部の地獄をもういちど、いやいくどでも遍歴しようと思った。

反復脅迫。もういちど同じことが起こっても傷つかなくてもすむように、なんども同じ苦痛をくりかえし味わって、耐性をつけようとする精神です。失恋体験を何度も繰り返し思い出すような状態のことをいいます。

いつかは生命というゲームをもっとうまくプレイできるようになる。笑うことをおぼえるだろう。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』で、「これが人生だったのか、よしもう一度」と結んでいます。同じようなエンディングでした。

こうしてハリーはオオカミの叫びにケリをつけたのです。

『荒野のおおかみ』は寓話です。現実の物語ではありません。闇から突き上げてくるもの、オオカミは外部ではなく、心の内側にいます。

もっと遊びたかった。恋したかった。ダンスしたかった。楽しみたかった青春。愛されたかった自分。二度と戻らない青春。一回きりの人生。果たされなかった思い。荒野のおおかみの叫び。

そのことに気づいて、ケリをつけにいく物語がステッペンウルフだったのだと私は思います。

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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!

かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。

すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。

『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。

その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。

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主人公ツバサは小劇団の役者です。

「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」

恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。

「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな

アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。

「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」

ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。

「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」

惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。

「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ

劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。

「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も

ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。

「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」

ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」

「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」

尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。

妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ

そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。

「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」

そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。

「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」

そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。

「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って

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