トルストイ『悪魔』の書評、感想、あらすじ、内容
ここではトルストイ『悪魔』について書評しています。ロシア正教的な性の節制・禁欲と、性欲との懊悩について描いた作品です。また別の言い方をすれば、正妻と愛人との間に揺れ動く男の物語ということになります。
彼女の夫が醜男に違いないという気がしていた。ところが実際に夫を見てかれはびっくりした。彼より劣るどころか、おそらくずっといい男だった。
→ コキュ男の顔を見たら、自分よりもイケメンだったら驚くでしょうね。
最大の理由は、エウゲーニイが結婚に適するほど成熟した時期に、彼女との交際がはじまったことだった。
→ 私の知人にモテモテの遊び人だったやつがいるんですが、彼が結婚したときに、どうして彼女を選んだのか聞いてみたことがあります。前のあの子でも、その前のあの子でも、いくらでも選べる立場だったのに、どうして彼女を選んだのか? と。するとその男はこう答えました。
「椅子取りゲームの音楽が鳴り終わったときに付き合っていたのが彼女だったから」
なるほどそういうものか、と彼の答えに感心したものでした。トルストイ先生と同じことを彼は言っていたのですね。
美しい、澄み切った、柔和な、信頼しきったような目をしていた。この目が特に心を打った。彼の知らねばならぬことのすべてを、その目が語っているような気がした。その目のもつ意味はそれほど大きかったのである。
→ 芸術家の岡本太郎は「自分の作品には必ず目を描く」と言っています。目とはそれほどに重要なものなのですね。目は口ほどにものをいうともいいますが、おそらくものをいっているのは「見ているこっち側の心の中」なのでしょう。
金を払ったのだし、それ以上の何でもない。二人の間には過去にも現在にも何の絆も存在しないわけだし、存在するはずもなく、存在してはならないのだ。
→ 自分の領地の人妻に手を出してしまった主人公は何とかしてそれを否定しようとします。彼女を、というよりも、自分の性欲を。
俺をあれほど正直で清潔で純真な人間と思いこんでいる彼女が知ったら!
論理的な脈絡は何一つないのだが、切れ目なくつづくところを見ると、どうやら何かしら関連があるらしい、ある一種特別な女どうしの会話が交わされていた。
→ でました。男には理解できない女の会話術(笑)。
「結婚は人生の墓場だ」は男女の脳差の断絶に絶望した者が言った言葉
女の会話は、これまでの話しの流れを無視して別の話題を唐突にぶっ込んでくるので「いったいこの人は何を言いたいんだろう?」と男は茫然としてしまいます。でも大丈夫、たぶん女は喋りたいだけ、心によりそって共感してほしいだけです。話しのオチとか結論とかを求めていません。でも……ロシア人も同じなのか。こうして書いているところをみるとトルストイも女の会話には苦労したんだろうなあ。
暗い所で彼女と出くわし、その身体に手を触れただけで、自分の感情に負けてしまうことを彼は知っていた。この誘惑から逃れる手段を毎日考えだし、その手段を用いてみた。しかし、すべては無駄だった。
妻が、それもきれいな妻がありながら、人の女を追い回すなんて破廉恥な男は、俺一人だけだ。
→ なんというか余計な苦労を背負い込みますなあ。疲れる人生だ(笑)。おそらくこれはロシア正教的な性に対するスタンスなのでしょう。心に姦淫を犯したものはやったのも同じ、というような。作品のオチ、苦悩の救いをキリスト教に求めてしまうドストエフスキーよりは進歩していますが、とっとと宗教のくびきなんて捨て去って次のステージで踊ればいいのに。
ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)
リーザとはじめた人生にはスパニーダがいないことが必要だ。もうひとつの人生は、夫からあの女を奪い、恥も外聞も忘れて、あの女と暮らすことだ。そのときにはリーザがいなくなることが必要だ。
死んでくれたら、万事うまくいくんだが。だってあの女は悪魔だからな。まさしく悪魔だ。なにしろ俺の意思に反して、俺を骨抜きにしちまったんだから。
→ タイトルの『悪魔』とは、ここから来ているのでしょう。男を骨抜きにしてしまう女は悪魔だ、というわけです。一面においてはその通りでしょう。でもとても一面的だと思うよ。別の一面では女ほど男を成長させてくれるものはないし、よろこびをあたえてくれるものもない。そういうことがわからなかったかなあ、残念だね、トルストイ先生。
ジャコモ・カサノバ『回想録』世界一モテる男に学ぶ男の生き方、人生の楽しみ方
このほうがましだ。そして引き金を引いた。
彼が精神異常だったら、あらゆる人間が同じように精神異常であり、それらの精神異常者の中でも一番確実なのは、他人のうちに狂気の兆候を見出し、自分の内にそれを見出さぬ人々にほかならない。
→ 作品のオチは、性欲に苦しんだあげくに自殺した主人公だけが異常なのではなく、みんな同じだろ? というものでした。
でもさ、ずっと「旅行に行きたい、行きたい」と口癖のように言いながら結局行かない人と、思いたったら金と旅券だけ持って軽々と出かけちゃう人と、人間って二種類いるじゃない? おれだったら後者の生き方のほうがいいなあ。やっぱり何か一つの壁を乗り越えていると思うもの。性欲に苦しむのもいいけれど、そんな苦悩はとっとと乗り越えてからやらなきゃよかったと後悔すればいいんじゃない?
主人公は正妻と愛人とのあいだに苦悩して自殺してしまうのですが、けっきょく「逃げ」だと思うなあ。妻と愛人をつれて、中東に移住して、イスラム教に改宗して、ふたりとも妻にするぐらい戦ってみろっていうのよ。
小説『悪魔』は、妻が生きているうちはトルストイ先生は上梓しなかったそうです。なるほど気持ちはわかります。出版して妻の目にふれたら「これは私のこと?」と追及されそうですものね。「これはフィクションなんだ」といくら言っても女(創作未経験者には)にはわかってもらえない。私にも経験があります(笑)。
私には妻がいるのですが、彼女と一緒にパリのアパルトメンで二週間ほど暮らしたことがあります。パリを去る日、私は去りがたく、後ろ髪をひかれまくって仰向けにぶっ倒れそうでした。悲しくて泣きそうになって隣の妻を見ると、彼女はタリラリラーンという感じで幸せオーラを全開に出しているのでした。次の目的地であるベトナムが楽しみでしかたがなかったのです。そのときにつくづくこう思いました。ベトナムなんてどうでもいいだろ、パリを愛し去りがたいおれの気持ちは……まったく伝わらないんだなあ、と。
ゴールしたら倒れるつもりで取り組んでいたマラソンのことも、男の緊張感、ガチ本気度は、とうとう最後まで彼女には伝わっていなかったと思います。
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そういうものなんですよ、男と女って。わかりましたか、トルストイ先生?