意志のない人間は、人形と同じ
イプセンの『人形の家』は昔から読んでみたいと思っていた作品のひとつでした。
さまざまな西洋小説の中で、作中の主人公が観劇に行ったりして、たびたび言及されている作品だったからです。今まで読んだことはありませんでしたが、名前だけは知っていました。
さて、『人形の家』を読み終わった後、なんか似たような作品を読んだことがあるなあ、と思いました。よく考えたら自分(私アリクラハルト)の昔の作品でした。
若いころ、わたしは「日本脚本家連盟」というところで、脚本の勉強をしていました。そこでの課題(制作)として、「ひとりの少女が貧乏したり、友だちに裏切られたり、男性にレイプされたり、たくさんひどい目にあって、少女らしい気持ちが消失してしまって、人形のようになってしまうというストーリーの『少女人形ラブリイ・ドール』という作品を書いたのです。
世の中には似たようなことを考える人がいるものです。イプセン『人形の家』も、意志のない人間は人形と同じだ、という意味では同じモチーフです。
しかし私の作品が人間が人形になってしまうというプラスからマイナスへと変化する作品であるのに対し、イプセンの作品は人形が人間になるというマイナスからプラスへと変化する作品なのでカタルシスがあります。
『人形の家』の真の価値は歴史的価値を無視できないところがあります。令和日本の社会情勢からすると画期的な作品だったことの真の意味はつかみにくいかもしれません。
それでも現代の離婚女性におすすめできる本のひとつだと思いました。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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『人形の家』あらすじ
舞台は19世紀の北欧。夫の同意がないと、妻は借金ひとつできないという世界でした。
そんな世界で、瀕死の夫の命を救うために、借用証書の保証人を偽造してノーラは夫メンヘルのために借金をします。
借りた相手は銀行員のクロクスタ。メンヘルの部下です。しかしメンヘルに銀行を追放されようとしていました。偽のサインで書類を偽造した過去から信用を失っていました。それはノーラがやったのとまったく同じことでした。それでメンヘルはクロクスタに生理的に不快感をもっています。夫に嫌われたくないノーラはますます書類偽造のことを言えません。
結婚して何年にもなるのに、メンヘルは新婚さながらにノーラを猫かわいがりしています。死とか、仕事とか、お金の話など重たい話しはしない夫婦でした。
ノーラは書類偽造の件でクロクスタに脅されます。ノーラは必死にメンヘルにクロクスタの銀行への復職を頼みますが、聞いてもらえません。
そしてとうとうメンヘルがクロクスタの脅迫の手紙を読んでしまうのでした。
夫が手紙を読む前から夫の反応を予測し、自分の決断、行動を予感しているノーラは、おののきます。
案の定、メンヘルは豹変します。偽善者、嘘つき、犯罪者! とノーラを罵倒します。メンヘルにしてみれば、クロクスタに脅されたら言うことを聞かざるをえません。未来も幸福も台なしだと感じていました。ノーラへの信頼を失い、いきなり仮面夫婦になろうとします。子育ては自分が行うと宣言します。予期していたのかノーラは冷静にメンヘルを見ていました。
クロクスタはリンデ夫人の昔の男でした。リンデ夫人は、家族がないと生きていく目的がないという女性でした。ただ自分のためにだけ働いたってたのしくなんかありゃしない。今のままでは誰かのために働くってこともできないと現状を淋しく思っていました。そしてクロクスタに二人で助け合おうと提案します。感激し、改心したクロクスタはノーラを脅すことをやめました。
問題が解決し、またメンヘルはノーラを元の通りに愛そうとしますが、ノーラは受け入れません。
メンヘルはあたしを可愛い人形のように扱っていただけだ。ここは人形の家で、あたしは人形妻のようなものだった。もうあなたを愛していない。
そう言ってノーラはメンヘルと別れるのでした。世間体とか妻の義務とかを捨てて。人間としての義務のために。自分を教育するために。
いちおうメンヘルが生まれ変わって女性を人形扱いすることをやめ、妻と真摯に向き合い、真の結婚生活を送れるほど成熟した人間になれば……やりなおせるかも? というほのかな希望を見せますが、そのままノーラは人形の家を去っていきます。
ハッピーエンドのような、バッドエンドのようなエンディング
『人形の家』はハッピーエンドのような、バッドエンドのようなエンディングでした。
ひとりの独立した女性として、男性と同じ人間として生きようとするノーラの決意は、すがすがしいものがあります。
しかし……ほんとうにあれでよかったのでしょうか? わたしは半分しか同意できません。
たしかに人間が人間として生きるために犠牲を払うことは必要でしょう。人形扱いされる家から飛び出して人間になることはノーラには必要だったのだと思います。
しかし……去る者は日々に疎し、といいます。
突然のことで、今はメンヘルもノーラに追いすがっていますが、去ったら去ったで、次の女ができて忘れられてしまうかもしれません。子どもからも母として見てもらえなくなるかもしれません。最悪、子どもからは憎まれるかも?
ノーラはすべてを覚悟していますが。
自我なんてわけのわからないものを追求するより、そばにいる人と楽しくおかしく生きて行った方がいいのでは?
去ったものがどうなるかについて、作者イプセンは、ランク医師の呟きとして考えを示しています。死に瀕しているラング医師はこう言います。
「感謝の印も、束の間の哀惜も、あとへ残せず。残るのは空席だけで、それもすぐ次の人に取られてしまう」
まさに「去る者は日日に疎し」。死んでも、忘れられて、自分のいた場所にはすぐに他の人が来る、とランク医師は感じていました。ノーラの妻の座、母の座も、空席になればすぐ次の人に取られてしまうでしょう。
もしかしたら『人形の家』はアンハッピーエンドなのではないか?
自分なんてわけのわからないものを追求するより、そばにいる人と楽しくおかしく生きて行った方がいい(という知恵)
世の中には二つの知恵があると思います。
ひとつはノーラの生き方。自分を探す旅に出るタイプ。自由のためならすべてを捧げるカルメンタイプです。たとえ全世界を得たとしても自分を失ったら何になろうか? という実存主義者タイプです。
今この場所この瞬間を旅先のように生きる。集団よりも個を優先する生き方【トウガラシ実存主義】
そうしてもうひとつは、自我なんかよりも、集団の和のほうが大切だ、という生き方です。
人間関係を犠牲にしてまで自我を確立することよりも、自我なんてそんなわけのわからないものを追求するより、そばにいる人と楽しくおかしく生きて行った方がいいという考え方・知恵もあります。
わたしの先輩のある女性が「好きな男性のタイプは、平凡で個性のない人」と言っていました。この人はバカではありません。個性のある非凡な人とつきあうと、あたりまえの生活がおくれません。非凡・個性があるということは特殊で、フツーじゃないってことです。こういう人とつきあうと女性は振り回されて疲れます。そういう知恵で「好きな男性のタイプは、平凡で個性のない人」と言ったのではないかと思います。「自我なんかいらない」と彼女は言いたかったのでしょう。
さて、どちらが本当の生きる知恵でしょうか?
わたし自身は前者タイプの人間ですが、案外、後者のほうが知恵者なんじゃないかと思うことがよくあります。
あなたはどう思いますか?
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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