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ラシーヌ『アンドロマック』トロイア戦争、イリアスの二次創作

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壮大華麗な『イリアス』の二次創作

ここではラシーヌ『アンドロマック』の書評をしています。アンドロマックというのは、フランス語読みです。ギリシア風に読めばアンドロマケ。本人はあまり有名ではありませんが、夫は有名、夫のライバルは超有名人です。

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アンドロマケの夫はトロイのヘクトル。夫のライバルは『イリアス』の主役アキレウスです。トロイヤ戦争で夫を殺され、国を滅ぼされ、戦利品としてギリシアに捕虜となった未亡人がこの戯曲のタイトルとなっている女性です。しかし読めばわかりますが、彼女は作品タイトルになっているものの、狂言回しであり、主役ではありません。主役はむしろエルミオーヌでしょう。

戯曲には義父のプリアモス、ギリシア軍の総大将アガメムノンなど、そうそうたる名前が登場します。ホメロスやウェルギリウス好きには二次創作のようなものです。おもしろくってたまりません。

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人の名前。同一人物が、ギリシア読み、ラテン読み、フランス読み、英語風など複数あってまぎらわしい問題

しかし問題がひとつ。ラシーヌはフランス人なので、知っている人の名前がフランス風になってしまっています。たとえばアキレウスはアシール、オレステースはオレスト、ヘルミオーネはエルミオーヌとなっているのです。これではわかりにくい。人の名前の読み方にはギリシア風、ラテン風、英語風などたくさんあってもともと同じ名前だと知って混乱することがあります。

たとえばイエスの第一弟子ペトロがピエトロと同じなのは有名です。サン・ピエトロ大聖堂は聖ペテロ大聖堂ですね。私はバルトロメオが英語風に読むとバーソロミューだと知ってびっくりしたことがあります。ちなみに本作の実質的な主役であるヘルミオーネ(エルミオーヌ)はトロイア戦争の原因となった絶世の美女ヘレナの娘さんです。英語風に読むとハーマイオニーです。

混乱しますね。だから日本人はいちいち脳内で知っているギリシア風の呼び方に脳内変換して読み進めるといいと思います。いきなりアシールとか、ハーマイオニーとかいわれてもわからなくなってしまいますので。私も読みながら脳内でギリシア読みに変換しながら読んでいました。名前は統一しましょう。

ヘルミオーネは母ヘレナに似ているとしたらすごい美女だろうと想像されます。しかしこの戯曲では未亡人の女の魅力に負けてしまう役回りです。その失恋ゆえに主役となっているわけですが。

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『アンドロマック』のあらすじ

オデュッセウスの木馬の計略によってトロイアが陥落するとき、アキレウスの息子ピリュスは、ヘクトルの妻アンドロマックを戦利品捕虜として連れ帰った。アンドロマックはヘクトルの子を連れたこぶつきだった。

しかしピリュスには婚約者がいた。これがヘレナの娘エルミオーヌ。最初は政略結婚ったエルミオーヌはしだいに本当にピリュスに恋をする。

そのヘレナの娘に恋をしているのが、総大将アガメムノンの息子オレスト。オレストはエルミオーヌをものにしたいと思っています。

ピリュスはエルミオーヌではなくアンドロマックを選びます。しかしアンドロマックが愛しているのはヘクトルのみで、結婚を承諾したのは息子の命を救うためでした。結婚し息子を保護すると誓わせ、直後に自殺するつもりでした。

失恋。恋の錯乱。恋ゆえにエルミオーヌは、オレストの恋心を利用してピリュスの殺害をそそのかします。オレストも恋ゆえにピリュスを殺します。しかしエルミオーヌは後悔して自殺してしまいます。オレストはおかしくなってしまうのでした。

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本当の主役はエルミオーヌ。アンドロマックはただの狂言まわし

ラシーヌの戯曲『アンドロマック』は、すべての恋はうまくいかず、ただ悲劇だけが残ったという物語です。本当の主役はエルミーヌで、アンドロマックは狂言まわしにすぎません。彼女なしには物語が生じなかったという意味でラシーヌは作品タイトルにしたのでしょう。しかし彼女はただ亡き夫を思い、子供の無事を祈るだけの女です。主役に相当する人物ではありません。

複雑な心の綾を見せるのはむしろエルミオーヌです。もちろん戯曲最大の見せ場であるラストシーンもこの人のものでした。

ピリュス「今こうして心からおん身を思ってつくため息が、ただのひとつでもあの女に向けられようものなら、あの女はそれをこの上もなくうれしいことに思うであろうが」
エルミオヌ「私はもう誰ひとり愛してはいません。さあ、自分の心に打ち勝った私をほめておくれ。私の心はつもる恨みで石のようになってしまった」
「あの人がもしもその気になったら? いえ、いえ、そんなことはない。ともかくわたしはここに踏みとどまって、あのふたりが幸福になれぬようにしてやるのです」
オレスト「ぼくのこの胸は煮えくり返っていた。義理知らずのあの女をその恋人もろとも殺す気になっていたかもしれぬのだ」
ピリュス「奥方、おん身はまたおん身で、なぜこの身がおん身の敵となるようにしむけるのです? この身はおん身のためにどのように固い誓いの鎖を断ち切るのか。どのような憎しみがこの上にふりかかるのか、それもこれも知っている。エルミオヌには暇をとらせる」
アンドロマク「恋というものは、こうまで人の心を野蛮にするものでしょうか」
オレスト「あの人に復讐することには賛成だが、しかしその方法は別に考えましょう。あの人の敵にはなりませよう。しかし下手人になってはいけない。あの人を自滅させて正当に打ち勝つことです」
エルミオヌ「私があの人を憎んでいる、そしてかつては愛した人だったというだけのことで十分ではありませぬか。私は不面目にも恋を裏切られました。あの人は私に背き、あなたを欺き、私たちを誰もかれも鼻であしらっているのです。まあ、なんというくやしさでしょう」
「この私の恋がもとであの人が殺されるのだろうか。私は遠い遠いところからここへ来たのだが、それはただあの方の墓を堀るためだったのだろうか」
「ギリシア全土が母上のために剣をとって立ち、戦場の露と消えたではないか。ところで私は誓いに背いた一人の男の成敗をあの人に求めているきりです」
「もうこうなっては私は私一人でこの身の恥をそそぐのです。受けた傷の痛さにたえかねた声を御堂いっぱいに響き渡らせるのです。ああ、もう生きているのがいやになってしまった。でもわたしはひとりでは死なぬ」
「あなたの恋の果てはまったく身の毛もよだつほど恐ろしいことになってしまったのです。始終あなたについてきている不幸をわたしのところへまで持ち込むなんて、あなたは実に残酷な人です」
すべての恋が成就しない悲劇の四画関係。言ってしまえばそれまでですが、ラシーヌの戯曲はそれほど単純なものではありません。すばらしいのはその関係性ではなくて、あくまでラシーヌの表現力にあります。
恋心の表現がねじれているというか、一筋縄ではいかない表現なので、そこがまた何度も読み返したくなりました。
ひさしぶりに文学というものを読んだ心地がします。
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