ドラクエ的な人生

ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)

このページでは世界文学の最高峰といわれる『カラマーゾフの兄弟』を参考書にドストエフスキー作品の読み方について書いています。

『カラマーゾフの兄弟』の一部、大審問官についての評論はこちらをご確認ください。

カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え! 
結局のところ、聖書の神の実在・不在と信仰、教会論争であり、神は死んだってことにすれば、すべては無意味です。 日常生活とかけ離れた問題であるため、すくなくとも人生観を変えるようなテーマでないことだけは確かです。 あなたは現実からみずから学んだことを信じますか? それとも聖書に書いてあることを信じますか? いかに大文豪でも、生まれ育った環境と、取り巻く状況の奴隷にすぎないのだと、思いをはせるのが、宗教に依存しない日本人の正しい『大審問官』の鑑賞態度だと思います。

『カラマーゾフの兄弟』の文学性の高さについて、私は懐疑的です。

これまでに現実という書物から学んできたものを、超えるものではなかったからです。

そして作品の救い・オチを、フィクションかもしれない宗教の「死者の復活」や「神の王国」に置いているからです。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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ドストエフスキーの小説の読み方のコツ

ドストエフスキーの小説の読み方にはコツがあります。
それは「仏陀的な登場人物なんだ」と割り切って読むことです。ここでいう「仏陀的な人物」とは、「感情は寄せては返す波のようなもので無常、ひとつとして同じものはないという人間造形」のことです。
ドストエフスキー自身、狙ってそのような人物造形にしていたようです。ですから「キャラクターが一致しません」。分裂症気味の狂った人物のように見えます。「キャラがブレます」。現代の日本人が見ると、思い付きで動く、刹那的なブレた人物造形に見えてしまうのです。
こういうところが人によっては「この小説ほど人の心を深く掘り下げた作品はない」など絶賛されるのです。普通の作者なら書かない湧き起こる瞬間的な感情を全部書いちゃっているんですから、深みがあって当然です。
確かにブッダのいうとおり、人の感情は瞬間瞬間で変わります。しかしそれを小説でやる必要がありますか? それを小説に教えてもらってどうするというのでしょう。そんなものは現実の人間を観察していればわかることです。女性とつきあってみればわかることです。恋人が何を考えているのかさっぱりわからないという瞬間があなたにもあったでしょう。さっきまで機嫌がよかったのに、今は急に機嫌が悪いらしい。でもどうして機嫌が悪くなったのかわからない、ということが。
あなたがもしこのようなマンガを書いたら、編集者から「この人物はキャラがブレている」と指摘されて書き直しを命じられると思います。しかしドストエフスキーの小説には「キャラがブレている人物」ばかりが登場してくるのです。
『カラマーゾフの兄弟』の読みにくさは、この点を理解しないと、解消されません。
よくいえば「感情の振幅が大きな人物」ということになるのですが、前衛的な実験小説すぎて、実に読みにくいのです。

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「仏陀的な人物」とは「感情は寄せては返す波のようなもので無常、ひとつとして同じものはないという人間造形」のこと

人間は、嫌なことを避け、気持ちのいいことを求めて行動するものです。苦しいことを避け、楽しいことを求めて行動するものです。しかし楽しいこと気持ちのいいことも不変ではありません。誰かのちょっとした一言で、楽しかった気分がどん底に落ち込んだりします。

それが人間です。人間の真実を描くのが文学だとすれば、小説もそのように描かなければならないのでしょうか。

そんな浮いては沈む感情をいうものをどのように考えたらいいのでしょうか。

ドストエフスキーも、人間を仏陀と同じようなものと考えました。ずっと怒り続けている人も、ずっとほがらかな人もいない、と。ずっと好人物も、そしてずっと嫌なやつもいない、と。

それを小説として表現しようとしたために、私たち読者にはドストエフスキーのキャラクターが「分裂症の人物」のように見えてしまうのです。

それでイラついてはいけません。それが「作者の狙い」なのですから我慢して付き合いましょう。

ころころ変わるキャラクターの行動、感情、突拍子もないキャラクターの叫びも、そういうものなのだと受け止めればいいのです。

読者は大伽藍のような建築物を求めているのに、作者はぶっ壊そうとしているのですから、読んでいてストレスが溜まります。だからといって、キャラクターの豹変ぶりに「キャラの不一致だ!」と騒ぎたてていたら、ドストエフスキーは読めません。

自分がシリアスなピンチの時に、揶揄したり、自分を茶化してみたり、罪をわざと認めるような言動をするマゾっぽい人物が登場します。

本当は助けたいのにわざと罪をなすりつけるような証言をするサドっぽい人物が登場します。そしてそのことを後悔して号泣したりするのです。イヤハヤ……。

歓びの中にも、不安や、苛立ちがある。好きであるがゆえに無視したり苛めたりする気持ちが人間にはある。憎いからこそ助ける、とか人間感情は複雑です。人をいじめることが楽しかったり(サディズム)、苦しいことが快感だったり(マゾヒズム)。

そういう刹那の感情を小説で表現しちゃったところを、(私とは逆に)文学史上最高と高く評価する人がいるのです。

しかし心境の動きのラインが一定でないから、あまり私の心には残りません。やはり私は「ぶっ壊された廃墟」が見たいのではなく「人間の栄光の大伽藍」が見たいからなのだと思います。

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書評『カラマーゾフの兄弟』とは?

1879年に文芸誌に連載開始したそうです。ドストエフスキー58歳の時の作品です。

1904年に日露戦争が開始。1917年にロシア革命が起きていますので、その少し前の作品ということになります。

カラマーゾフというのは「黒く塗られた」という意味なのだそうです。黒塗一族の物語ですね。

作中に「カラマーゾフ」という言葉が頻出します。「カラマーゾフの血」というように。

あたかも「カラマーゾフ」を「ロシア民族」と読み替えなさいとでもいうように。

あちらにはハムレットがいるが、わが国にはカラマーゾフがいるだけなのだ

アメコミのスーパーマンがアメリカの平和のことしか考えていないように、ドストエフスキーはせいぜいロシアのことしか考えていなかったと私は思います。

「あちら(西洋)にはハムレットがいるが、わが国にはカラマーゾフがいるだけなのだ」

作中にそんなセリフがあります。

よく「ドストエフスキーから人類への贈り物」とか「人類ベースの言葉」でドストエフスキー作品をくくろうとする人がいますが、私はドストエフスキーは人類のことなんか考えちゃいなかったと思います。ドストエフスキーが考えていたのは自分のことだけ、よくいってもロシア民族のことだけなんじゃありませんか。

「他の国に律法と刑罰があるのならば、ロシアには魂と知恵を備えましょう」

作中にそんなセリフもあります。

問題は「作品のオチ」です。もしロシアだけでなく、全人類のことを考えていたら、こんな「オチ」「救い」でいいわけがありません。そのことはこのコラムの後段で触れます。

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葱を一本あげただろう。はじめなさい。自分の仕事を。

『カラマーゾフの兄弟』は未完の小説なのだそうです。さもありなん、です。

ドストエフスキーはエホバ神を否定する気もなかったが、無条件で肯定するのも躊躇するところがありました。

両者の対立の緊張感の中で作品を書くという作風でした。

『カラマーゾフの兄弟』のオチ(ラストシーン)は、キリスト教の救いで、みんなの苦労は報われる、という宗教じみたものでした。

これでいいのでしょうか? これが人類全体のことを考えて書いた作品ですか? これが人類文学の最高傑作でしょうか?

もしもキリスト教の聖書の復活の教えが「ただのフィクション」だったとしたら、どうしますか?

『カラマーゾフの兄弟』を「人類のための文学」とかいう人は、その点を答えてほしいものです。

「最後の審判の日に、死者は復活し、イエスが神の王国をつくりあげる」

そんなおとぎ話を救い(作品のキモ)にするような小説が、人類史上最高の作品であっていいわけがありません。

ロシア正教とかカトリックのことばかり書いた小説が、ヒンズー教徒に通用するとは思えません。神社の国の私たち神道・日本人に対しても同様です。

死者が復活するといわれてもピンときません。

そうは思いませんか?

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およそ物書きは、物語を書け。さすれば他者が勝手に深読みしてくれる

私は「神が書いた小説なんて見たことがない」というコラムで小説家の視点について考察しました。

小説の視点【神の視点】神が書いた文章なんて読んだことがない
私たちは、人間が書いた文章は読んだことがあるが、神が書いた文章は読んだことがありません。複数視座【神の視点】で小説を書くと、読者は「人間が書いた文章ではないもの」を読んでいる気がして、違和感を感じて気持ちが悪くなってしまうのです。語り部を選ぶ際のコツは、魅力的な行動家は話主にしないことです。ひらたくいうと、カッコいいヤツは話主にしない方がいいのです。

小説は、どうしても「作家の目線」「作家の体臭」で紡がれるから、作家はスターになりえる、ということです。

逆にマンガ家は、古今無双の表現力をもちながらも、スターメーカーにはなれても、自分はスターになりにくい、ことを考察しています。

マンガは動きを目で見せる芸術。表現力は古今無双。
感情の起伏をおこすことが、小説の命です。それに対してマンガは動きを目で見せる表現です。ふきだしのカタチや字の大きさで音声情報さえも目に見える形で表現を可能にしたマンガは日本で独自の進化をした世界に誇れる表現なのです。

『カラマーゾフの兄弟』は19世紀のロシアを生きたドストエフスキーそのものです。

ドストエフスキーは、ジェット戦闘機も、原子爆弾も、アポロ月面着陸も、インターネットも知らずに死にました。遺伝子DNAも、免疫細胞も、精子と卵子の授精から細胞分裂することも、地球上の生物の歴史も、何も知らない人が書いた作品だということを、忘れてはいけません。

近代人のものの考え方のベースとなっている知識を何一つ持っていない人が書いた作品だということは、いちおう考えておく必要があると思います。

『カラマーゾフの兄弟』を「父殺し」の作品として捉える向きもあるようです。なるほど、興味深いテーマではあります。

父を殺し、母を犯すエディプス・コンプレックスの話しは、世界に無数にあります。

エディプス・コンプレックス。「親父を乗り越える系の話し」は無数にある
テーバイを追放された、盲目のオイディプス王は、これからどのような道を歩んでいくのだろうか。その道は運命に支配されているのだろうか。それとも自らの意思で切り開く道なのだろうか。

ドストエフスキーはフロイト以前の人物です。

およそ物書きは、物語を書け」ということなのかもしれません。

物語を紡ぐことで、作家は無意識の巫女、シャーマンのような扱われ方をされることがあります。

深読みされる余地のある物語を書くことで、後世のフロイトのような人たちが、自分の考えを物語の中に投影して、作品を高く評価してくれるのです。

銀河系ですら宇宙の片隅のちっぽけな渦にすぎないことがわかっている現代でも、イエスの復活をオチにしたドストエフスキーの作品を最高ランクに評価する人たちがたくさんいます。それだけ物語の中に「自分を投影する」要素がたくさん詰まっているということでしょう。

なにせ瞬間にふと浮かぶ感情を全部書いちゃっていますから「自分の感情を正当化する」要素がたくさん詰まっていることに違いはないと思います。

だからといって現代でもそれを「文学史上最高」と評していいのかどうか。それをご自身の目と耳で確かめていただきたいと思います。

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