前提を疑え! 『カラマーゾフの兄弟』【大審問官】と相対性理論

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アリクラ・ハルト|note
雑誌『山と渓谷』『ランナーズ』に執筆歴のあるモノカキ。市民ランナーの三冠王(グランドスラム達成)。現在は仮想地球一周(二周目)に挑戦中。アウトドア派の旅人。世界旅行者。
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世界文学の絶対エースを呼ばれるドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。

その長編小説の中でも、とりわけ「カラマーゾフの兄弟の命題」「ここだけは読むべき」といわれているのが、【大審問官】といわれるパートです。

このコラムではドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』【大審問官】について、私アリクラハルトの感想を述べています。

※結論

【大審問官】は結局のところ、聖書の神の実在・不在と信仰、教会論争であり、神は死んだってことにすれば、すべては無意味です。
日常生活とかけ離れた問題であるため、すくなくとも人生観を変えるようなテーマでないことだけは確かです。
あなたは現実からみずから学んだことを信じますか? それとも聖書に書いてあることを信じますか?
いかに大文豪でも、生まれ育った環境と、取り巻く状況の奴隷にすぎないのだと、思いをはせるのが、宗教に依存しない日本人の正しい『大審問官』の鑑賞態度だと思います。

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【この記事を書いている人】

瞑想ランニング(地球二周目)をしながら心に浮かんできたコラムをブログに書き綴っているランナー・ブロガーのアリクラ・ハルトと申します。ランニング系・登山系の雑誌に記事を書いてきたプロのライターでもあります。早稲田大学卒業。日本脚本家連盟修了生。その筆力は…本コラムを最後までお読みいただければわかります。あなたの心をどれだけ揺さぶることができたか。それがわたしの実力です。

初マラソンのホノルル4時間12分から防府読売2時間58分(グロス)まで、知恵と工夫で1時間15分もタイム短縮した頭脳派のランナー。市民ランナーのグランドスラムの達成者(マラソン・サブスリー。100kmサブ10。富士登山競争登頂)。ちばアクアラインマラソン招待選手。ボストンマラソン正式選手。地方大会での入賞多数。海外マラソンも完走多数(ボストン、ニューヨークシティ、バンクーバー、ユングフラウ、ロトルアニュージーランド、ニューカレドニアヌメア、ホノルル)。月間走行距離MAX600km。ランニング雑誌『ランナーズ』の元ライター。『言葉の力で肉体を動かす(市民ランナーという生き方)』(グランドスラム養成講座)を展開しています。言葉の力で、あなたの走り方を劇的に変えてみせます。

また、現在、バーチャルランニング『地球一周走り旅』を展開中。ご近所を走りながら、走行距離だけは地球を一周しようという仮想ランニング企画です。

そしてロードバイク乗り。朝飯前でウサイン・ボルトよりも速く走れます。江戸川左岸の撃墜王(自称)。スピードが目的、スピードがすべてのスピード狂。ロードバイクって凄いぜ!!

山ヤとしての実績は以下のとおり。スイス・ブライトホルン登頂。マレーシア・キナバル山登頂。台湾・玉山(ニイタカヤマ)登頂。南アルプス全山縦走。後立山連峰全山縦走。槍・穂・西穂縦走。富士登山競争完走。日本山岳耐久レース(ハセツネ)完走。などなど。『山と渓谷』ピープル・オブ・ザ・イヤー選出歴あり。

その後、山ヤのスタイルのまま海外バックパック放浪に旅立ちました。訪問国はモロッコ。エジプト。ヨルダン。トルコ。イギリス。フランス。スペイン。ポルトガル。イタリア。バチカン。ギリシア。スイス。アメリカ。メキシコ。カナダ。タイ。ベトナム。カンボジア。マレーシア。シンガポール。インドネシア。ニュージーランド。ネパール。インド。中国。台湾。韓国。そして日本の28ケ国。パリとニューカレドニア、ホノルルとラスベガスを別に数えていいなら訪問都市は100都市をこえています。(大西洋上をのぞいて)世界一周しています。ソウル日本人学校出身の元帰国子女。国内では青春18きっぷ・車中泊で日本一周しています。

登山も、海外バックパック旅行も、車中泊も、すべてに共通するのは必要最低限の装備で生き抜こうという心構えだと思っています。バックパックひとつ。その放浪の魂を伝えていきます。

千葉県在住。夢の移住先はもう決まっています!!

大審問官とは?

ドストエフスキーの大長編『カラマーゾフの兄弟』の核心部分ともされる部分です。第二部第五編にあります。

次男イワンが創った創作というカタチで披露される劇中劇です。ですからこの部分だけ読んでも意味が通じるようになっています。

ひとことでいうと神の在・不在と信仰についてのふたりの論争です。

ひとりはイエス・キリストらしき人物、そしてもうひとりが大審問官(キリスト教会のトップ)。

教祖と後継者が議論している設定になっているところが【大審問官】のおもしろいところです。

イエスらしき人物は無口なので実際には議論というよりは大審問官の独白です。

しかし議論相手のイエスの主張(聖書に書いてあること)は誰でも知っているから、独白つづきでも議論として読めるのです。

議論の中で大審問官は「現実的に信者によりそった教会運営をすると、愛と自由ではなく、パンと奇跡と権力志向で運営するしかない。イエスは人間を買いかぶりすぎだのだ」

と本質的な信仰を否定します。

その上で、イエスよりも今の教会のほうが人々を幸せにしていると主張するのです。

「大審問官」は、議論のテーマそのものが古臭い

『大審問官』の中で民衆にとって「自由は恐怖」「自由は不幸の贈り物」だと大審問官は主張します。

ちょっと何いってるのか、わかんない(笑)。

パンがないのは恐怖・不幸に違いないでしょうが、なんで自由が不幸なんだか??

ロシア人と日本人の違いでしょうか? それとも1880年の人間と2020年の人間の差でしょうか?

ヒツジの群れのように生きる事を民衆は望んでいる、と大審問官(ドストエフスキー)は言っています。

それって本当か?

いくら大文豪が言っているからといってそのまま真実とは限りません。

すくなくとも団体バスを降りて放浪の旅人として生きてきた私には当てはまりません。

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中世の暗黒時代に、教会だけが唯一の光だった時代に生まれていたら、ヒツジの群れの一員だったのでしょうか。

しかし西暦2020年の現代日本人には通用する議論ではないと思います。「ヒツジの群れのように生きる事を民衆は望んでいる」なんて政治家が選挙演説でいったら間違いなく落選するでしょう。

このように【大審問官】における、イエスの主張も、大審問官の主張も、現代日本人にはどちらも理解しがたいところがあるのです。

多くの日本人は、多神教の日本という国に生まれ、天照大神をリアルに感じることなく、とくに宗教に依存して生きていないことが原因なのかもしれません。神社では手をあわせますが、信仰しているわけではない。基本的に大多数の日本人は無宗教なのだと思います。

『大審問官』は世界の文学界で高く評価されているので、日本人もその潮流に乗って、あれやこれやといろんな人が語っています。しかし私たちにとってそもそもキリスト教の神の在・不在論争なんて、別にどうでもよくないですか?

なんでキリスト教の神の在・不在や、キリスト教会の信仰と堕落について、西暦2020年の日本人が真面目な顔して真剣な議論しなきゃならないんだか……

リアルな肌感覚に切迫した問題ではありません。

日常生活とかけ離れた問題であるため、すくなくとも人生観を変えるようなテーマでないことだけは確かです。

世界文学の最高峰といわれるが、日本人にはそれほどでもない

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は世界文学の最高峰と評される小説ですが、はっきりいって大多数の日本人にはそれほどでもないと思います。キリスト教信者以外の日本人には、仏教徒や、ヒンズー教、道教など多神教の信者にとっては、それほどの作品ではないと思います。キリスト教国の人たちにとってのみ高い評価に値するのではないでしょうか。

荒野で生まれた一神教の絶対神への議論を、自分の国の多神教の神様と同一視して、主語を置き換えて考えることはできません。エホバへの信仰や在・不在論争を、天照大神への信仰や在・不在論におきかえることはできません。

私が『カラマーゾフの兄弟』を高く評価できないのは……「神の在・不在論争」が長すぎるためです。大長編のほとんどが神への信仰、在・不在論争だからです。

なんでキリスト教の神の在・不在や、キリスト教会の信仰と堕落について、西暦2020年の日本人が真面目な顔して考え込まなきゃならないんだか……違う価値観の人たちの話しだと切り捨ててしまえば、読まなくても何の問題もありません。

すくなくとも『カラマーゾフの兄弟』に、大多数の日本人の人生を変えるほどの力はありません。エイリアン(異邦人)の価値観について書かれた本であって、同胞の価値観について書かれた本ではないからです。

他の作品を読んでも思うことですが、西洋文学はいつまで神の実在論争をやれば気が済むのでしょうか。

もう神はいないってことでいいんじゃないでしょうか?

死んだら塵になるってことでいいんじゃないでしょうか?

霊魂の不滅なんてないってことでいいんじゃないでしょうか?

たったそれだけ認めることが、そんなに勇気のいることでしょうか?

そう考えると『カラマーゾフの兄弟』【大審問官】なんて読む価値のない「たわごと」となってしまいます。ずっとエホバが実在する前提で、お話しを続けているわけですから。

ありもしないもの(神)を、なさそうに見えるけど、あるかもしれない、あってほしいけれど、罪びとの僕に見えないだけかもしれない……そんな悩みを延々とやっているのです。

全部、読み飛ばしてよいのでは?!

そういわれて反論できません。たしかに異教の国の人間には、そんなに切迫した物語ではありません。だって死者の復活とか神の王国とか、すべては空想かもしれないじゃないですか。「そもそも論」として。

無宗教の私から見ると、自ら作ったダブルスタンダードに自ら苦しんでいる自家中毒の人にしか見えません。

とにかく凄いという噂の「大審問官」ですが、結局のところ、聖書の神の実在・不在と信仰、教会論争であり、神は死んだってことにすれば、すべては無意味です。

【そもそも論】もう神の在・不在論争はいいんじゃないか? 神は死んだってことで。

「人間はいったいどれだけの信念を捧げ、どれだけの力をこんな絵空事のためにむなしく費やしてきたか。何千年にもわたって」

大審問官の中のセリフです。そういいながらもドストエフスキーは大長編『カラマーゾフの兄弟』を書き上げてしまっています。

もう神は死んだってことでいいんじゃないでしょうか。私などはそう思います。

悔しいかもしれませんが、投資には損切も大事です。千年ばかり損しちゃったけど。もう損切りしましょう。

神のことなんかきれいさっぱり忘れ去ってしまえばいいのに、信仰の地に生まれ育つと、そういうわけにはいかないんでしょうねえ。セーレン・キルケゴールのように頭の中から聖書が離れなかった人はたくさんいます。ドストエフスキーもそういう人たちのひとりなのでしょう。

聖書の世界が真実だという前提からいつまでも抜けられないから、現実社会から学んだことと、聖書の教えと、ダブルスタンダードの人生を生きることになるのです。

自分が見て、自分が体験して、体得した人生の真理が、聖書に書いてあることと違うと、てきめん矛盾に悩み、真実を見失い、苦しみ始めるのです。

聖書に書いてあることは真実、現実から学んだことも真実、両者が矛盾した場合……どちらかを否定しなければならなくなります。聖書を否定しようとすると神の在・不在論争となり、現実を否定しようとすると信仰論争になるのです。

これが中世ならば、限りある自分の体験したことなんてちっぽけで限界があるんだから、何も考えずに聖書の真実に身をゆだねることもできたでしょう。

しかしインターネット時代で世界中の体験が共有できるこの時代に、荒野で生まれた一神教の絶対神だけを盲目的に進行するのは、難しいでしょう。ありとあらゆる背景の人たちがいて、違う神様を信仰している人たちがいて、神さまなんて人間の空想だと思っている人たちがいる。

「そもそも論」として『カラマーゾフの兄弟』【大審問官】は、議論の内容が現代の日本人には現実的ではありません。

議論の前提を議論する。

【大審問官】を見ればわかりますが、神や聖書を前提にしている人との議論は難しいものがあります。

「神など信じられません。証明してください」という議論さえも、「神が信じられないステージにあなたがいるからです。世界はすべて神の証明です。私たちは盲目的に神を信仰しているのではありません。むしろ信じれば盲目ではなくなります」という議論が宗教サイドからは返ってくるわけです。

議論の論点がずれていることがわかるでしょうか。前提の議論ができていないのです。

神の在・不在という前提の議論をしているのに、神の実在が前提は変えない反論が返ってくるから、議論は終わりません。結論が出るわけありません。

前提の議論をしているのに、前提を変えない反論が返ってくるから堂々巡りになるのです。

「証明してくれ」「神を目に見せてくれ」と言っても無駄です。「目に見えなくてもすべてに神は宿っている」とか「ニュートンも神を信じていた」とか「縁なき衆生は度し難し。あなたは可哀想な人だ」とか「死んでから地獄で後悔しても遅い」とかいう返事が返ってくるだけです。

科学者に対しても、信仰に勧誘するときの決まり文句で返事をするから、議論はかみ合いません。

そして現実と聖書の矛盾に気づいた信者の一部が真実を求めるとき、永遠にダブルスタンダードの自問自答が続き、心が引き裂かれた人間が出現してしまうのです。

「死者は復活する」Youtubeに動画をアップしてくれれば、世界中が信者になったのに!!

一例をあげましょう。「死者は復活する」という有名なキリスト教徒の議論があります。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」

コリントの信徒への手紙という聖書の中の一節です。

「ほれ見ろ、だから死者は復活するんだ」ということを力説しているのですが、何の証拠にもなっていません。イエスが復活したことが前提です。その前提は「多くの人が目撃したと聖書に書いてあるではないか!!」と聖書が前提です。

科学者は「そもそも死人が復活したなんておかしいやん。証拠みせてえな」と「そもそも論」を議論しているのに、宗教の側は「キリストが復活して初穂となったのだから他の死者も復活するのだ」という議論です。

「そんならキリストが復活したことを証明してくれや?」と科学者がいうと、宗教家は「預言されていた通りにイエスは死者の中からよみがえったではないか? 事実だから私たちは信じているのです。イエスの復活が事実でないなら私たちは神に反しているではありませんか」「いやその神が実在することを……」「あなたがたも世界も何もかも神がつくったのです。聖書に書いてあるではありませんか」「そもそも聖書って本当に正しいの?」「イエスの復活はたくさんの人が目撃しているのです。あなたのようにその目で見なくて信じなかった人でも信者になって殉教した人もいるのですよ」

とまあこんな感じで話しが永遠に噛み合いません。こういう議論をえんえんと千年もやっているのです。【大審問官】も結局、これと同じことです。

イエスの奇跡や復活は、動画が残っているわけじゃないので、結局、聖書を根拠にするしかありません。

Youtubeに動画をアップしてくれれば、世界中の人が信者になったのに!! 残念です。

結局、聖書が正しいことが前提なのです。「そもそも論」は永久に噛み合わないのです。

不毛な議論にキリスト教徒でない日本人がつきあって『カラマーゾフの兄弟』【大審問官】を文学史上最高の名作とまで讃え上げる必要ってありますか?

読まなくてもいいこと(エホバ神とキリスト教会のこと)ばかり書いてある小説なのに。

すくなくとも人生観を変えるようなテーマでないことだけは確かです。日本人で『カラマーゾフの兄弟』【大審問官】を文学史上最高の傑作とか言う人は、世界のスタンダードについていこうとなんか無理して背伸びしている感じがして、どこか痛々しいものがあります。

もっと「私たちの時代」の「私たちの問題」に向きあうべきではないでしょうか?

光速度不変の原理って本当に正しいの?

『カラマーゾフの兄弟』【大審問官】を読みながら、私はアインシュタインの相対性理論を思い出しました。

相対性理論では前提として「光の速さは誰が見ても一定。止まって光を見ても、光にあわせて動きながら見ても光の速さは一定」ということになっています。これを光速度不変の原理といいます。

この前提からあれやこれや計算すると、時間の流れは光の速さに近づくほど遅くなる(時間は絶対的なものではない)、という結論が導き出されるのです。

いや、ちょっと待って!! そもそも論だけど、その前提(光速度不変の法則)って正しいの?

なんか違ってる気がするけど?

神の実在・不在論争と同様に、まず議論の前提を議論する必要があるのではないでしょうか?

動いている電車を止まって見るのと、並走して見るのとでは、電車の速さが違って見えるけど? 光だけは特別なんでしょうか? 光の速度は不変というその前提、本当に合ってるの?

光は特別で絶対だという前提は、神が特別で絶対だという前提の一神教に似ています。

相対性理論(光速度不変の原理)は現実の現象を説明できるからいちおう証明できたってことになっています。けれど、現象を説明できたからって前提が正しいとは限りません。神の在・不在論争も同じことです。現象を説明できたからって前提が正しいとは限りません。

ドストエフスキーとサド侯爵

信仰はそれぞれの自由です。

でも【大審問官】で語られるように、全世界的な統合を志向するので、信仰は戦争の原因となることもあります。

前提の議論ができないため、信仰する人とは議論が噛み合いません。

けっきょく、宗教とは議論するなってことになるのです。

あるいは千年以上も文学のテーマになりつづけたりするのです。

感染症の時代の生き方を歴史に学ぶ。カミュ『ペスト』
感染症がもたらすものは畢竟「死」と「別離」だけです。「死」と「別離」は感染症がなくなっても、この世から消えてなくなるものではありません。今はコロナウィルスで人と人とがソーシャルディスタンスで隔てられていますが、やがて人は触れ合うようになるのです。間違いなく。

なんだか私も引き込まれて議論しちゃいましたけど……もう神は死んだってことでいいんじゃないかな? 本当に。

【大審問官】を読むほど、自ら作ったダブルスタンダードに自ら苦しんでいる自家中毒の人のように見えるのです。

あなたは現実からみずから学んだことを信じますか? それとも聖書に書いてあることを信じますか?

いかに大文豪でも、生まれ育った環境と、取り巻く状況の奴隷にすぎないのだと、思いをはせるのが、宗教に依存しない日本人の正しい『大審問官』の鑑賞態度だと思います。

『サド侯爵夫人』三島由紀夫の最高傑作
『サド侯爵夫人』は三島由紀夫とサド侯爵の共著といってもいい作品。きわめてキリスト教的な作品です。 神の敵について考えれば考えるほど、神についても考えざるを得ないからです。

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人生を変えた本『旅に出ろ! ヴァガボンディング・ガイド』リアル・ドラゴンクエスト・ガイドブック
いくら旅に時間を費やしたところで、自分と向き合うことに時間を費やさなければ、何の意味もありません。どれだけ何かが変わっても、それに対処するのは自分しかないからです。 どこに行こうと、何が変わろうと、そこには自分がいます。これは言葉ではありません。生き方なのです。
人生を変えたいのならば、仕事を辞めるという選択肢がある。
団体バスの行き先がろくな場所ではないとわかったら、もうバスは降りてしまっていいのではないですか? 仕事を変えれば、生き方を変えることができますよ。 今は退職代行サービスや、転職エージェントがあなたのキャリアアップを助けてくれる時代です。
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