このページでは小説の作法である「話主を誰にするか」という問題について考察しています。
一人称にするか、三人称にするか。
三人称にした場合、誰を話主にするべきか。どこまで心境の中に立ち入っていいか。
私たちは、人間が書いた文章は読んだことがあるが、神が書いた文章は読んだことがありません。
複数視座【神の視点】で小説を書くと、読者は「人間が書いた文章ではないもの」を読んでいる気がして、違和感を感じて気持ちが悪くなってしまうのです。
語り部を選ぶ際のコツは、魅力的な行動家は話主にしないことです。
ひらたくいうと、カッコいいヤツは話主にしない方がいいのです。
- クリエーターは自分の作品をつくっている瞬間が一番楽しい
- 同じ場面でも、話主によって感想は変わる
- 小説作法。話主を誰にするか、という問題
- 一人称小説の方が読みやすい、書きやすい
- 【三人称小説】カッコいいヤツは話主にしないほうがいい
- 三人称小説はフェアプレーをするべき
- 三人称小説は比較的長い場面に限って話主を切り替えることができる
- 私たちは、人間が書いた文章は読んだことがあるが、神が書いた文章は読んだことがない
- 文章は「書き手は誰か」というのが意識される
- 作家はスター。マンガ家はスターメーカー
- ロシア・ウクライナ戦争は、日本人の誰もがウクライナからの視点で語る。
- 文化的には親ロシア。ロシア人はたくさん知ってるけど、ウクライナの有名人はセルゲイ・ブブカしか知らん
- 神さまの書いた文章なんて読んだことがない。言葉というものの宿命。文章には視点が必要
- 女子大生と見るか、キャバクラ嬢と見るかで評価が変わる。
- ものごとの価値というのは目線で変わって感じる。
- ウクライナ側から語ることにはメリットがある。正義の側から語ることができる。
- 誰かの視点<人類視点<地球視点
- そろそろ地球視点でものを語ろうか。
クリエーターは自分の作品をつくっている瞬間が一番楽しい
ウチにはテレビが一台しかありません。
YouTubeなどの動画をパソコンのブラウザで見ることができますが、もっとも快適に動画を視聴するとなると、やはり大画面のテレビモニターで見るのが最高です。
※テレビはテレビだけでなく、amazon fire TVを差し込めば、YouTubeやプライムビデオなどのサブスク動画を見ることができます。

私はテレビのチャンネル権を基本的に妻に譲ろうと思っています。それが家庭円満の秘訣だろうと信じて。
同じ動画を一緒に視聴できれば最高なのですが、そういうわけにはいかないこともあります。やはり夫婦でも趣味が違いますので。
とくに妻が韓流スターに熱狂をはじめると、私はそそくさと部屋にひきこもります。何が面白いんだかさっぱりわかりません。
テレビのチャンネル権を譲ることに関しては泣く泣く譲っているつもりはありません。クリエーターは自分の作品をつくることの方が、他人の作品を鑑賞することよりも何倍も楽しいので、本質的に私はテレビを眺めているよりも、自分の作品をつくっている方が楽しいからです。
だから部屋で、自分の作品を一生懸命つくっています。
こうすることで妻もよろこび、夫もよろこぶ、最高の状況ができていると思っていました。
同じ場面でも、話主によって感想は変わる
しかし妻はそうは思っていなかったようです。
彼女にチャンネル権を譲ってもらった意識はまったくありませんでした。むしろダンナが部屋にこもってしまうから、退屈でやることがないのでしかたなくテレビを見ている感覚だったのです。
これは驚くべきことではないでしょうか。
このように同じ一つの場面でも、立場によって言いぶんはまるっきり変わります。
小説作法。話主を誰にするか、という問題
同じ一つの場面でも、立場によって言いぶんがまるっきり変わってしまうことが、小説上における話主を誰にするか、という問題に直接かかわってきます。
同じ一つの場面を描くのに、夫の側から描いた方が場面が盛り上がるのか、妻の側から描いた方がストーリー上得策なのか。
場面を盛り上げることができる話主はどちらなのか。三人称小説の場合、全体構成を考えて、作者はその章の話主を誰にするか決めます。
大きな感情の起伏がある方を話主にした方が、小説は盛り上がるに違いありません。
一人称小説の方が読みやすい、書きやすい
別のある日、妻が小説を読んでいました。彼女が本を読むのがあまりにもはやいので、
「地の文をすっ飛ばして会話のカギカッコ内だけ読んでるの?」
驚いて、私はそう聞きました。
ほんの数時間で一冊の本を読み終えてしまうなんて、私には考えられません。
「違うよ。一人称の軽い小説だからだよ」
彼女はそう答えました。
これは深い意味のある答えです。さすが読書家の妻はよくわかっているなあ、と思いました。
「私」「僕」を主人公にした一人称小説の場合、三人称の小説よりも、一般的には読みやすいのです。
話主のセンス、感想でストーリーが進むために、三人称の小説にくらべて読みこなしやすいのです。
同時に一人称小説は、作者にとっては「書きやすい」ということもできるでしょう。
作品の主人公は「個性」をもっているはずです。独特のセンスで世の中や人間関係を眺めています。
一人称小説の場合、そのセンスに慣れてしまえば、サラサラと読みこなすことが可能です。
語り部一人の感情しか出てこないため、感情の流れを追いかけることが簡単だからです。
前後の脈絡に関係のない感情が突然現れるはずがありません。
極論すれば、いちいち「××は思った」と描写することも不要です。
一人称の場合「思った」のは主人公の話主に決まっていますから、感想文を文章中にいきなり放り込むことが可能です。
【三人称小説】カッコいいヤツは話主にしないほうがいい
また別の日、妻がコーヒーポットの取っ手の部分を割ってしまいました。
「壊したんじゃないよ、割れちゃったんだよ」
妻がそういうので、心底、私は驚いたのです。
ちょっと何を言っているのかわかりません。彼女の意図がわかりません。
壊したことと割ったことは同じ意味のはずですが、彼女にとっては違うようです。
私の一人称目線だと、どこがどう違うのか、想像するしかありません。そしていくら想像しても本当のところは全く分かりません。
このように小説の中の「謎の人物」は「話主でないほうがいい」のです。「秘密があるヤツ」「犯人」は話主にしてはいけません。
魅力的な行動家は話主にしないことです。ひらたくいうと、カッコいいヤツは話主にしない方がいいのです。
行動の理由を喋れば喋るほどキャラクターは魅力的ではなくなってしまうからです。謎があるから魅力的なのです。
真の主人公を「見ている側」を話主にして、驚かせたりした方が、小説は盛り上がるでしょう。
これが話主をどちらにするか決めるときのコツです。
相手のことがわからないからこそ、他人というものの無気味さ、人間関係の難しさが描けます。ホイホイ他人の心の中が正確にわかってしまったら、「他者との断絶」といった文学のテーマは描くことができません。
この不自由さを逆手にとって、より迷い、より悩んでいる方を語り部に設定するといいと思います。
三人称小説はフェアプレーをするべき
それとは逆に三人称小説の場合、話主は固定されていませんので、夫の立場、妻の立場、ひとつの場面を両方から描くことが可能です。
テレビのチャンネル権をめぐる夫婦の例だと「チャンネル権を譲っているつもり」の夫の側と「夫が部屋にこもって退屈だからテレビでも見るか」の妻の側の両方から場面を描いてはじめて場面が生きてきます。
どちらか一方からだけの描写だとただのつまらないシーンです。夫と妻の両面から描いてはじめて同じ一つの場面でも立場によって言いぶんがまるっきり違う実例になって、面白くなります。
このように三人称小説の場合、話主を入れ替えることができます。
しかし誰にでも話主が飛べるわけではありません。
たとえば推理小説の場合、真犯人が話主になった場合は「真犯人はオレなのに……バレたらどうしよう……」とか「バカな探偵。こいつを利用してやろう」とか心理描写しないと、フェアじゃない、と判断されかねません。
だって話主はぜったいにそういう感情を抱くはずなのに、それが意図的に省かれているとなると、作者のご都合主知だと批判されてしまいます。
だから推理小説で、ある人物が話主になって心境描写に立ち入った場合「その人は犯人じゃない」と読者に判断されてしまうということがありました。まだ犯行があばかれる前に、犯人の心境描写に立ち入れるはずがないからです。
それを逆手にとったのが、アガサ・クリスティーでした。犯人を話主にして、犯人の心境に立ち入ったのですが、犯行のことをいっさい心境描写しなかったため、フェアじゃないと批判されたのです。
三人称小説は比較的長い場面に限って話主を切り替えることができる
「湊かなえ」さんのように一人称小説でも章ごとに完全に話主を分けて、人によって感じ方が違うことを表現することも可能です。
しかし一般的にはシーンごとに話主が切り替わる場合には、三人称小説のかたちをとります。三人称小説にすれば、小さな場面ごとに話主を切り替えながらストーリーラインを追いかけることができます。
しかし「思った」のが話主に決まりきっている一人称小説にくらべて、小さな場面ごとに話主を入れ替えている三人称小説では「Aは思った。」「Bは思った。」と、いちいち「思った主体」を明示しなければなりません。そうしないと誰が思ったのか、読者はわからなくなってしまいます。
ある程度長い章で、この章はCが話主なのだと読者が完全に理解してくれたタイミングではじめて「Cは思った」描写を省くことができます。
このように三人称小説では話主を切り替えることが可能ですが、比較的長い場面に限って話主を切り替えた方がいいでしょう。
私たちは、人間が書いた文章は読んだことがあるが、神が書いた文章は読んだことがない
私たちは、人間が書いた文章は読んだことがありますが、神が書いた文章は読んだことがありません。
だからひとつのセリフごとに話主が切り替わると、「これはいったい誰が書いた文章なんだ」と読者が気持ちが悪くなってしまうのです。
瞬間、瞬間で、心の内面まで知ることができるのは神さまだけです。だからそのように書かれたものは、もはや人間が書いたものとはいえません。だからそういう文章を見ると読者は気味が悪くなってしまうのです。
「壊したんじゃないよ、割れちゃったんだよ」
といった妻の言葉が夫の私にさっぱりわからなかったように、人間には会話相手の心情が理解できないところがあります。
しかし自由に次々に相手の心境に入り込める【神の視点】の文章には、会話相手の心情を理解できないところがありません。
次から次へとすべての人の心情に入り込める【神の視点】なのに、「キミが何を言っているのかわからないよ」とAが言ったり、Bの言葉に傷つけられたりすると、読者は違和感を感じるのです。神の視点は調和であり、葛藤など生じるはずがありません。【神の視点】で葛藤を描くと、読者は自分がどの場所に立っているのかわからなくなります。いったいこの文章は誰が書いているんだ、と読者は混乱してしまうのです。
わかるはずのない会話相手の心境を書いてしまうと、人間が書いた文章ではなくなってしまいます。それをやってしまうと、神が書いた文章でない以上、人間がご都合主義に書いた文章に見てしまうのです。
だから小説の場合は、ワンシーンで一人の話主といういちおうの決まりがあるのです。
文章は「書き手は誰か」というのが意識される
文章は「書き手は誰か」というのがかならず意識されるのです。
しかし絶対のルールではありません。大家が書けばルールは破っても構わないようです。
大文豪が書いた複数視座で心境に次々と立ち入った小説をいくらでも見たことがあります。
「この文章、きもちわるい」と読者に思われないようにうまく処理できればいいのです。
小説には視点の限界があるからこそできることがあります。たとえば語り部の孤独や疎外感は他人の気持ちがわからないからこその描くことができるのです。夢や絶望はこちらの気持ちが簡単には伝わらないからこそ大きなテーマとなりえるのです。これがヒョイヒョイ神の視点で簡単に相手の心情がわかったら、疎外感なんかありませんし、理解できない苦しみ、理解されない悩みなんて存在しないことになってしまいます。
作家はスター。マンガ家はスターメーカー
太宰治や三島由紀夫、村上春樹のような作家がスターで、発行部数じゃ圧勝のマンガ家が作家ほどスターじゃないのは、やはり誰が書いているか「作家の目線」あってこその小説だからこそだと思います。
作家はスターになれますが、マンガ家はスターにはなれないかわりにスターメーカーになれます。自分がスターになるのではなく、スターキャラクターをつくりだすことができるのです。鉄腕アトムやオスカル・フランソワやルフィーのようなスターの陰にマンガ家が隠れてしまうのは、やはりこの「神の視点」「目線問題」が大きく影響していると考えざるを得ません。
ロシア・ウクライナ戦争は、日本人の誰もがウクライナからの視点で語る。
ロシアとウクライナが戦争をしています。「紅旗征戎、わがことにあらず」なんていいながら、この戦争から目が離せなくなっているわけですが、テレビを見ていて気付いたことがあります。
それは誰もがこの戦争をウクライナ側から語る、ということです。
ウクライナ戦争後の世界。ロシアの分割統治(案)。日本は樺太をもらえ
文化的には親ロシア。ロシア人はたくさん知ってるけど、ウクライナの有名人はセルゲイ・ブブカしか知らん
わたしはロシア文学(ロシア語で書かれた)をそれなりに読んでいますが、ウクライナ文学(ウクライナ語で書かれた)というものはまったく読んだことがありません。
ドストエフスキーは今日の日本人にとっても本当に名作といえるのか?
ロシア人はドストエフスキーやトルストイ、パステルナーク、レーニンやら、エカテリーナなどたくさんの人を知っています。
『ドクトル・ジバゴ』翻訳ロシア文学は人名を統一したら読みやすくなる提案
それに対してウクライナ人というものはほとんど知りません。出身がウクライナ地方だというゴーゴリはロシア文学者(範疇分けすればロシア枠)だし、ざっと鳥人セルゲイ・ブブカぐらいでしょうか。
このような人間がロシア側ではなくウクライナ側からものを見るというのはほとんど無理だと思うですが、実際にはテレビを見ていても識者が常にウクライナ側から語ることに何ら違和感を感じません。
文化的には親ロシアで、ウクライナなんて全くと言っていいほど知りません。ウクライナは不可知でした。それなのにこのブログでもロシア・ウクライナ戦争のことをウクライナ側から語っています。
考えてみればこれは一考に値することだと思います。なんでこんなことが起こるのでしょうか?
神さまの書いた文章なんて読んだことがない。言葉というものの宿命。文章には視点が必要

そもそも文章には視点・目線というものが必要なのです。誰の視点でもない文章なんてまずありえません。誰かの視点でもない文章なんて「ない」のです。神様が書いた文章なんて見たこともありません。聖書は人間が書いています。聖書は天国からファックスで送られてきたのではありません。
だからこのウクライナ・ロシア戦争を語るときにも、必ず目線というものが必要なのです。それが言葉というものの宿命だから。
ではその目線がなんで文化的に親しいロシア側ではなく、ほとんど知らないウクライナサイドになってしまうのか? みんなウクライナ側からの視点でものを語るのでしょうか。
女子大生と見るか、キャバクラ嬢と見るかで評価が変わる。
先日Quoraというサイトを見ていたら、おもしろい記事を見つけました。
女子大生が夜キャバクラでバイトしていると聞くとふしだらに聞こえるけど、キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいると聞くとまじめに聞こえる。
というような記事を発見しました。これなどは視点がどこにあるかで評価が変わるといういい見本です。ひじょうにおもしろいですね。
やってることはどっちも同じじゃありませんか? もしかしたら同じ子のことを評したのかもしれませんよ。同じ相手を女子大生視点で語るか、キャバクラ嬢の視点で語るかで評価が180度変わってしまうのです。
ものごとの価値というのは目線で変わって感じる。
わたしは市民ランナーです。マラソンを二時間台で走ることができます。
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雑誌『ランナーズ』のライターが語るマラソンの新メソッド。ランニングフォームをつくるための脳内イメージ・言葉によって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。
(本文より)
【入力ワード】写真からランニングフォームを学ぼうとする人が多いので注意喚起したいと思います。写真からフォームを学ぶのはお勧めできません。写真というのは瞬間を切り取ったものなので、間違った解釈をする可能性があるからです。「振り上げた脚」(往路)なのか「戻ってきた脚」(復路)なのか、写真ではわかりません。大地を蹴ったように見えている脚が本当に大地を蹴っているのか、大地を蹴ったように見えているだけなのか、写真からはよくわからないからです。写真で振り上げた膝の高さを見て「ふむふむ、膝はここまで上げるのか」と思い込んでマネするのもよくありません。慣性の法則で結果として脚がそこまで上がっているだけで、実際のランナーの意識としてはそこまで上げようとしていないかもしれません。「結果としてのフォーム」と「ランナー本人の走るときのフォーム意識(入力ワード)」は、必ずしも同じではないのです。
【腹圧をかける走法】そもそも息をするのは、酸素を吸うためです。吐くことよりも、吸うことに意識をおくほうが自然な発想です。肺の中に残っている空気(残気量)は、どうせゼロにはできないのです。吐き切るという努力は、動かない壁を押すような無駄な努力です。そこに力を割くべきではありません。持ち上がらないバーベルを無理やり持ち上げようと喘ぐと、余計に息が苦しくなってしまいます。楽に息するのとは真逆のことです。それよりも思いっきり吸うことです。そのための走法が腹圧をかける走法です。肺を絞って痩せた人のように走るのではなく、腹はたるんたるんと力を抜いてだらしなく腹が太った人のように走ります。そもそも重力は下向きなのだから、横隔膜を下げることは理にかなったことです。それに対して、吐き切ることを意識すると、重力に逆らって横隔膜を持ち上げながら肺を絞らなければなりません。どちらが楽にできると思いますか?
【ストライド走法】ピッチ走法には大問題があります。実は、苦しくなった時、ピッチを維持する最も効果的な方法はストライドを狭めることです。高速ピッチを刻むというのは、時としてストライドを犠牲にして成立しているのです。
【踵落としを効果的に決める走法】私はカラテ素人ですが、サブスリーランナーとして、すくなくとも「踵落とし」を無力化する方法をすぐに思いつくことができます。答えはカンタン。攻撃側が踵を振り上げて止まったポイント(これを上死点といいます)に、自ら打撃ポイント(脳天など)を近づけていくことです。上死点では運動エネルギーがゼロになっているために、破壊力もゼロです。上死点から距離をとらないことで「踵落とし」というキックを無力化できます。
ストライドを稼ぎたいあまりに、未熟ランナーほど振り出した前足が最も伸びきったところで着地してしまうのです。つまり「膝が伸びきったまま」「踵から着地」してしまうのです。これは「踵落とし」の運動エネルギーがゼロになっている上死点で着地してしまっているのと同じことです。これでは速く走ることはできません。
言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化して速く走れるようになる新理論の書。言葉による走法革命。とくに走法が未熟な市民ランナーであればあるほど効果的です。本書はあなたのランニングを進化させ、市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」「ハサミは両方に開かれる走法」「腹圧をかける走法」
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
●【肉体宣言】生きていることのよろこびは身体をつかうことにこそある。

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42.195kmを三時間を切って走ることをサブスリー(ランナー)といいます。サブスリーは市民ランナーの勲章とされています。それほど難易度が高いということですね。
ではどれぐらい難易度が高いのかというと人類の上位1パーセントぐらいだとわたしは見積もりました。
「そこらへんの人100人がマラソンを走ったらトップでゴールできる人」ということです。
「100人がマラソンを走ったらトップでゴールできる人」と聞いたら凄い人だと聞こえませんか? 「すごいじゃん。そいつ。ちょっと名前覚えとこうか」ぐらいのインパクトはあるのではないでしょうか。小学校で学校(学年)で一番足の速かった子の名まえをあなたも覚えているのではないでしょうか。そのぐらいのレベルです。
でも「100人がマラソンを走ったらトップでゴールできる人」というのは裏を返せば「200人がマラソンを走ったら2位かもしれない人」という意味です。トップで走れるか、二位になるかは相手次第です。
上位1%というのは1万人走ったら100位です。三万五千人(東京マラソンの出走者数)走ったら350位だということです。350位の人をすごいと思いますか? ちょっと名前覚えとこうと思いますか? 思いませんよね。350位なんて箸にも棒にもかからないモブ(その他大勢)だと感じると思います。
これが視点の問題ということです。誰に目線を置くかでものごとは感じ方が変わります。
オリンピックアスリートの目線で見るか、走り始めたばかりの「わたし」目線で見るかで、ものごとの価値というのは目線で変わって感じるものなのです。
ウクライナ側から語ることにはメリットがある。正義の側から語ることができる。
ところで現在のロシア・ウクライナ戦争は、ロシアがウクライナに侵攻したという文脈が世界的に受け入れられています。つまり被害者はウクライナ、加害者がロシア。正義はウクライナ、ロシアは悪というレッテルが貼られています。
だからウクライナ側から語ることにはメリットがあるのです。正義の側から語ることができるからです。自分を悪の側においてそこから語りたくないんですよ。これが識者たち、テレビがウクライナ目線でこの戦争を語る理由です。
ロシアの軍事ブロガーって何者だ? なんでブログにそんなに影響力があるのか。
ウクライナ目線なのは明確なメリットがあるからです。正義の擁護者という顔をして発言できるからです。
本当は中立な立場で報道できればいちばんいいのでしょうが、言葉というものは視点が必要な宿命だからそれはできないのです。
せいぜいできるのは「ウクライナは××と主張した。それに対してロシアは〇〇と主張している」と両論併記することぐらいです。
誰かの視点<人類視点<地球視点

いや、小説などを読んでいると三人称で書かれた無色の文章がある。誰の視点でもない文章はありえる、という反論があるかもしれません。
でもそれは人間の視点です。作者の視点です。やっぱり誰かの視点なのです。人類の視点といってもいいかもしれません。ときどき犬の視点で小説を書く人もいますが。
ジャック・ロンドン『白い牙』なぜ作者はオオカミがイヌになる作品を描いたのか?
ジャンク・ロンドンも犬の視点に見えて、犬を通して人間を描いているから文学として評価が高いのです。やはり視点というものはあります。それは人類の視点といってもいいでしょう。本当の意味で犬の視点で書くことは人間にはできません。そもそも犬には言葉を使いこなして小説という構成芸術をつくりあげることはできないでしょう。
そろそろ地球視点でものを語ろうか。
現実におこなわれている戦争に対して、人類の視点で語ることは難しいことかもしれません。だってウクライナ人も、ロシア人も、どちらも同じ人類ですから。
だったら、いっそ地球視点でものを語ったらいかがでしょうか。
ウクライナの正義と、ロシアの強者の理論が意地を張れば、核ボタンで地球は終わります。
言葉というものは宿命的に視点が必要です。でもできるだけ自分を殺して語ろうとするならば、地球目線で語ることは可能です。
手塚治虫さんは『火の鳥』などの作品で、ときどき地球視点でものを語っていました。
地球が滅亡に瀕しているときに「何とか人類を生きのびさせて」という人に対して「人類が何だというんだ。何かのいのちが残れば人間じゃなくてもこのさい何でもいいじゃないか」と叫ぶのです。『ガラスの地球を救え』という著作もあります。
手塚治虫のような天才じゃなくても、地球目線で何かを語ることはわたしたちにもできます。
ウクライナ戦争も、西側のリーダーたちがウクライナ目線で考えたり語ったりすることをやめて、地球目線で考えたり語れば違った見方になるのになあ、と思わずにいられません。
それはこの戦争にとどまらず、わたしたちのなにげない日常においても同じことです。
そろそろ地球視点でものを語ろうか。

