ドラクエ的な人生

史上最高の文学の人生の答え、真実、結論。

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トレンド、流行、ミーハーが世界を回している。

ある日、幕末関係の本を読んでいたら、こう思いました。「勤皇の志士も、流行のブームに乗っていただけなんだなあ」って。「この人たちもミーハーなんだなあ」って。国を思うことも、一種の当時の流行だったんだなあって。

【マーケティング】時代のうねり。トレンド。流行。ミーハーが世界を回している

愛国心からのみで彼らが行動したと、私は思いません。「愛国心」というのがブームだったから、その流行に乗ったミーハーちゃんたちが幕末の志士たちだった、というのが私の考えです。

純粋に愛国心だけだったら、どうして現代には同じような人がいないのでしょうか? それは今、かつての時代のような愛国心ブームが来ていないからです。

維新の志士たちがまったく流行に踊らされずに行動していたとするならば、現在だって同じような志士が現れてもいいはずだもの。

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人間の行動力が衰えたのではなく、愛国心が衰えたのではなく、そういう流行、ブームが来ていないから

北朝鮮の核ミサイルが頭上から狙っている現代は、いつでも狂った独裁者によって日本は滅ぼされる状況です。幕末の黒船からの砲撃よりも、ある意味ではるかに「国の存属があぶない」といえる深刻な状況ですが、維新の志士たちのように、ものすごく国を想って死を厭わずに行動する人がすくないのは、人間の行動力が衰えたからではなく、愛国心が衰えたからではなく、そういう流行が来ていないからです。

維新を名乗る政治家集団がいますが、あれはただの派閥で、幕末の志士の心根とはまるで違うものです。

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教育はミーハー現象、流行、ブームをつくりだす。

ミーハー、流行といえば、言葉は悪いですが、これは「教育」とも置き換えることができます。

教育はミーハー現象、流行、ブームをつくりだします。ファッション雑誌が流行をつくるように、テレビがトレンドをつくるように、教育が国民にブームをつくりだします。

韓国の反日もブームだし、中国の経済第一主義もブームでしょう。

現在、ロシアの侵略に対するウクライナの防衛戦争が行われています。その中で戦士たちが愛国心をしきりと吼えていますが、これさえも一時の流行・ブームだという気がします。

ロシアの侵攻前に同じような愛国心はあったのか? 侵攻後にも同じような愛国心は保てるのか?

ウクライナがEUに加盟することを熱望しているのは、シェンゲン協定によるノービザで国を行き来できて働くことができるからです。「貧しいウクライナを離れて、豊かな他国で稼ぎたい」というのがEU加盟への第一の動機だといわれているのです。愛国心よりも、国を離れて自分たちだけでも豊かになりたい、というのが動機だったのですよ。やはり現在の戦争熱というのは一種のブームでしょう。ブームが去れば、熱量も下がるでしょう。

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自由ですらもブームに過ぎないかもしれない。この私さえも……

このブログに、私は好き勝手なことを書いて自由を謳歌しています。

それに対して現在のロシア人民は「独裁者くたばれ」とか「同性愛者です」とか「センソーハンタイ」など自由に主張できません。秘密警察に確保されてしまいます。

しかし私は思います。「この私」さえも実はブームの生んだ人間なんじゃないか、と。オピニオン系ブログとして自分の意見を発表していますが、意見のほとんどはブームの産物であるかもしれません。謳歌している自由でさえもブームに過ぎないかもしれないのです。

この自由ですらもブームに過ぎないのか……と思うと、まいったな、という気がします。おそらく考えている内容もブームのひとつなんでしょう。そう考えると、本当の自分なんてものはどこにもないのだという気がします。

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「本当の自分」なんてものはどこにもないのかもしれない。

このブログの結論は「人はブーム、流行に流されて、やがて自分を見失う」とするつもりでした。幕末の志士は切腹したり、人を斬ったり、過激なことをしていますが、それらは思想というよりはブーム、流行にすぎず、ミーハーたちは自分を見失っていたのだ、ということを結論としたコラムを書くつもりでした。

しかし書き進めていくうちに、結論が変わってしまいました。ミーハーや流行、ブームに流される人たちを冷静に批判する「このわたし」さえも、ミーハーや流行、ブームに流されているだけかもしれないからです。

本当の自分なんてものは、どこにもないのでしょうか?

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史上最高の文学が導いた人生の答え、結論

ここ数年、コロナ禍もあって、海外放浪ができず、わたしは読書家になりました。本を読むということは心の旅です。「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」身は狭い自宅にあっても、放浪の魂を失ってはいません。

読書という旅をしながら、書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。まるで三蔵法師が西天のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

西天取経『西遊記』におけるスカトロジー(糞尿嗜好)、食人習慣、人身売買、道教と仏教

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

これまで読んだ本の中で最高のものはヴィクトール・E・フランクル著の『夜と霧』です。

アウシュビッツ強制収容所の記録『夜と霧』

私の著書『結婚』では「ブームや流行ではない、人間のかけがえのなさ」に答えた作品です。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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<その人がどういう生き方をしたかで、周りの人の運命が変わる。だから人はかえがきかない>と流行、ブーム、ミーハーを否定しました。それに対して『夜と霧』で、フランクル博士は、

<もういいかげん生きることの意味を問うことをやめる。生きることは時々刻々問いかけてくる。ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きることの要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。

生きることとは決して漠然とした何かではなく、つねに具体的な何かであって、とことん具体的だ。その具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。誰も、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。すべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いに対するたったひとつの、ふたつとないただしい「答え」だけを受け入れる。

運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。>

このように力強く結論を出しました。この結論は、流行やブーム、ミーハーといったものを否定しています。いや、流行の中に生きることになったとしても、それがその人の全宇宙にたった一度の、ふたつとないあり方で存在している比類ない運命なのだ、と謳っています。

わたしはこちらの考え方の方が好きです。だから史上最高の本だと感じているのでしょう。

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