「キツネを飼いならす実験」は、間接的な狼から犬をつくる実験
先日、YouTubeを見ていたら「キツネを飼いならす実験」というのをやっていました。ロシアの学者がたくさんのキツネをケージの中で飼育するのですが、人懐こいキツネと人に懐かないキツネにわけて、人懐こいキツネだけ子孫を残すという実験です。第二世代にも人懐こいキツネと人に懐かないキツネが現れるのですが、さらに人懐こいキツネだけに繁殖を許します。これを繰り返すと数世代後には人懐こいキツネばかりになって、中には人のそばで尻尾を振るキツネまで現れたという内容の実験でした。
※キツネを飼いならす、といえばこの作品を忘れることはできませんね。
キツネ「お願いだ……おれを飼い慣らしてくれ!」
おとな読書で読む『星の王子さま』の寓話の意味。家出離婚劇、女性に対する接し方、愛の秘密が書いてある本
この実験からわかることは、人はこのようにしてオオカミからイヌという人懐こい種族をつくったということですね。尻尾を振るところまで再現できたのですから。
わたしの記憶が確かならば、かつてはネズミなどの害虫駆除にキツネを飼いならしていた時代もあったそうです。ところがネコという種族のほうが圧倒的に害虫駆除が得意だったことからその方面での人間のパートナーはキツネじゃなくてネコに取って代わられたということです。餌も少量ですみますし。
日本の野良猫がかわいくない理由
わたしは過日、フィリピンのマニラを旅行してきたのですが、ノラネコが人懐こいのに驚きました。日本の野良猫とはぜんぜん違います。
これはおそらくフィリピンのノラ猫はネズミ退治という本来の仕事をちゃんとやっているために「この街に住む権利がある」と堂々としているためだと感じました。人間に可愛がられて人間と共存していました。そういうネコの子孫たちだから、先のキツネの実験がそうだったように人懐こいのです。
それに対して日本の野良猫はネズミ退治のような本来の仕事をやっていない個体も多く「この街に住む権利がある」と堂々としていられません。乞食のように人間からお情けで餌をもらって生きています。だから日本の野良猫はこそこそと人を恐れるように逃げ隠れしていますよね。
言ってみれば、ちゃんと仕事をしている人は堂々とした市民になるけれど、人のお情けで生きている乞食は卑屈な人間になる、というようなものです。
こういう日本の野良猫の子孫たちは人間を見たら逃げ出すようなタイプの猫ばかりになります。フィリピンのネコとは全然違います。フィリピンのネコは可愛いけれど、日本の猫はかわいくない。つまりはこういうことになるのです。
将来、愛玩用のペットのネコは外国から輸入するようになるかもしれません。日本にもネコはいますがちっともかわいくないからです。人に懐かず人とともに生きようとしない長年にわたる選択の結果、日本猫はそういう種族になってしまうからです。
人類の優生学はナチスドイツの再来をまねくか?
「キツネを飼い慣らす実験」というのは、なるほどそういうものかな、という気がしますね。わたしたちはなんとなく頭のいい両親の子供はやっぱり頭がいいんだろうなと経験的に知っています。
かつて陸上競技の為末大さんが「嫁をもらうなら足の速い女」と公言していたことがありました。そういう結婚をすれば生まれてくる子供も足が速くなるだろうということですね。
しかしこれはけっこう危険な思想です。遺伝的に優秀な子孫だけを残そうという思想は「優生学」といいます。優生学は人類の歴史に負の側面を残しました。優秀なアーリア人の血だけを残して劣等種のユダヤ人の血を根絶やしにしようとしたナチスドイツがこの発想でした。
ネコがかわいくなるのはいいけれど、人類がみんなアーリア人になってしまうのはちょっと……ですよね。
種なし葡萄はどうやって作るのか?
先日、車中泊で山梨県にぶどう狩りに行ってきました。
ぶどう狩りで気づいたのですが、シャインマスカットも、巨峰もまったくタネがありません。そもそも果実というのは種を発芽させるためにあるので、そうとう不自然な感じがしました。こんな不自然なものをどのようにしてつくったのでしょうか?
「キツネを飼い慣らす実験」から類推すると、種の小さい種どうしを交配させることでどんどん種を小さくしていったら、ある時、種無しが生まれたので、その種を大切に育てたのだろうと思われます。しかし実際には、受粉前のつぼみを植物ホルモンに浸すと、あたかも受粉したかのように成長するのだそうです。
つまり葡萄一房一房すべての葡萄を植物ホルモンに浸すという作業をブドウ農家の方がやっているということですね。たいへんな手間だと思いました。
そのようにしてつくった種なし葡萄をわたしたちはおいしくいただいているというわけですね。種無しブドウの場合は優生学的な「キツネを飼い慣らす実験」方式から生まれたものではないということです。