自由とは何か? 人間とは何か? 哲学にまで昇華される苦悩の書
ユダヤ人の心理学者が悪名高いアウシュビッツ強制収容所に入獄した際の記録です。収容所でどんな残酷ことが行われたことは、体験者ならだれでも記録することができます。しかしそこでどんな心の変化が起こったのかは、専門家でなければうまく記述することはできません。
著者のヴィクトール・E・フランクルは精神科医・心理学者でした。それゆえに収容者の心理変化を学術的に描くことができました。
自由とは何か? 人間とは何か? 最後に苦悩は哲学にまで昇華されます。
それを見ていきましょう。
このブログの著者が執筆した「愛とは何か? 結婚とは何か?」を追求した純文学小説です。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
生きることは時々刻々問いかけてくる。ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きることの要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
生きることとは、つねに具体的な何かであって、とことん具体的だ。その具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。誰も、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。
運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。
この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
カポーとは何か? 同胞のユダヤ人の中から選抜されたサディスティックな管理者
監獄にはカポーというユダヤ人の中から選抜された管理者がいたそうです。ゲルマン人・ドイツ人の中にも自らの手を汚したくなかった人もいて、そういう人は同じユダヤ人の中から班長みたいな人(カポー)を選んで、その人に辛い仕事をやらせていました。
収容者にいうことを聞かせるための、虐待的な懲罰が主な仕事でした。カポーは優秀な人から選ばれたのではなく、劣悪なもの、残酷な人間から選抜されました。
このユダヤ人カポーの心理変化も見るべきものがあります。相手が同胞だから優しくするのではなく、むしろ積極的に現場監督、監視兵、収容所警官に協力して、むしろ虐待はカポーからの方が監視兵からよりもひどかったそうです。鉄拳。足蹴り。棒打ち。自分を特権階級に置いて、自分だけは助かりたいという気持ちからでした。虐げられるものの中にも階級が生まれたのです。平時の銀行の頭取よりも、収容所のカポーの方が地位が上でした。他の大多数のものが殺され、虐待されているアウシュビッツでは。
カポーは大多数の他の被収容者のように自分が貶められているとは受け止めていませんでした。それどころか強制収容所の中で出世したいとさえ思っていたのです。
この世にはふたつの人間がいる。まともな人間とまとめではない人間と。ふたつの種族はどこにでもいる。どんな集団にも入り込み、まぐれ混んでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。
あらゆる人間には善と悪を分かつ亀裂が走っている。強制収容所では善と悪が人間の心の奥深いところにぽっかりと深淵を開いていました。
被収容者の心理的な変化。好奇心、恩赦妄想、絶望、感動喪失
被収容者は、持ち物をすべて取り上げられ、職業、名前も失い番号で呼ばれました。剥き出しの土間に寒さに震え空腹にさいなまれながらうずくまったり立ったりします。横になるだけのスペースはあたえられませんでした。
これまでの人生をなかったことにした。全裸にされ鞭うたれる。シャワー室に追い立てられ水が降り注ぐ。身ぐるみはがされた。毛髪も剃られ、この裸のからだ以外、なにひとつ持っていない。これまでの人生との目に見える絆などまだ残っているだろうか。
絶望に打ちひしがれます。
この先、いったいどうなるのだろう。どんな結末が待っているのだろう。自分は命拾いするだろうか、しないだろうか。
自分がどれだけひどい目にあうだろうかという好奇心が芽生えます。
何かをして自己実現する道を断たれました。魂をひっこめ、なんとか無事やりすごそうとする受け身の気分になります。
恩赦妄想という病像が生まれました。土壇場で自分は恩赦されると空想するのです。クリスマスには家に帰れると希望をもった人たちは、その希望が消えた時に大量死したそうです。
内面がじわじわと死んでいきました。感動の喪失です。内なる感情が抹殺されます。家族への重い、嫌悪、恐怖、同情、憤り、苦しむ人間の姿、病人、瀕死の人間、死者。それらが見慣れた光景になってしまい心がマヒしてしまった。いっさい何も感じられなかった。感情的な反応などもはや呼び覚まされない。
このように感動が消失します。
意志などもたない。感情の消滅や鈍麻。収容者の内面生活は追い立てられる羊のように幼稚なレベルまで突き落とされます。かつては何ほどかの者だったのに、わたしとはいったいなんだ。人の肉でしかない大群衆の、腐っていく群衆の、けちなひと切れだ。
そして過酷な生存競争の中で良心を失い、暴力、盗み、嘘、裏切りなど平気になってしまいます。そういう者だけだけが命を繋ぐことができました。いい人は帰って来ませんでした。
性欲は消えて、幼稚な食欲だけが残った
皮下脂肪の最後の最後までを消費してしまうと、有機体がおのれのたんぱく質を食らいます。筋肉組織が消えていきました。骸骨が皮を被って、その上にぼろをまとったありさまになりました。身体に抵抗力など皆無でした。仲間はばたばたと死んでいきました。
収容所での食べ物話を胃袋オナニーと呼んだそうです。極端に少ない量の食事。日に一回の水みたいなスープ。ちっぽけなパン。チーズのかけら。極寒の中、おそまつな衣服のみです。食べることしか考えられないません。性欲はきれいさっぱりなくなりました。
想像の生活。精神の自由
精神の自由はないのか? 人間の魂は環境によっていやおうなく規定されるのか。
しかし強制収容所にあっても、想像の生活がありました。
感情の消滅を克服し、感情の暴走を抑えていた人、周囲はどうであれ「わたし」を見失かった英雄的な人はぽつぽつと見受けられた。強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことができるが、たたひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという人間としての最後の自由だけは奪えない。
時々刻々は内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。人間の独自性、精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件にもてあそばれるたんなるモノとなりはてて、環境の力の前にひざまずいて堕落にあまんじるか、あるいは拒否するか。
人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。
フランクル博士はいいます。
わたしがおそれるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ。
生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限される中でどのような覚悟をするかというまさにその一点にかかっていた。
強制収容者は行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。生きることに意味があるなら苦しむことにも意味があるはずだ。苦悩と、死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになる。
愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ。この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれることをわたしは理解した。耐えがたい苦痛に耐えるしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより満たされることができるのだ。
連合国の勝利により解放された被収容者たちの離人症と、生きることの意味
連合国の勝利によりフランクル博士らは解放されます。被収容者たちは自由を忘れてしまっていました。うれしいとはどういうことか忘れてしまいました。それらはもう一度学びなおさなければならない何かになってしまっていました。
開放された被収容者たちは強度の離人症に悩みます。
わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはない。収容所の中で、彼らは幸せなど意に介さなかった。私たちを支え、苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは幸せではなかった。
生きていることにもうなんにも期待がもてない。そんなときに、生きることに何か期待するのではなく、生きることがわたしたちに何を期待しているのか、と方向転換する。
もういいかげん生きることの意味を問うことをやめる。生きることは時々刻々問いかけてくる。ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きることの要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
生きることとは決して漠然とした何かではなく、つねに具体的な何かであって、とことん具体的だ。その具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。誰も、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。すべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いに対するたったひとつの、ふたつとないただしい「答え」だけを受け入れる。
運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。
この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
その言葉のとおり、フランクル博士は成し遂げました。
※関連記事
ドストエフスキー『死の家の記録』シベリア獄中記のあらすじと感想
堀江貴文『刑務所なう。』最も自由な奴は、最も不自由な場所にいる!
このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『結婚』の前編、バックストーリーに相当するものです。両方お読みいただけますとさらに物語が深まる構成になっています。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。

私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。
