ドラクエ的な人生

元寇の謎。なんで攻めてくる時と場所がわかったのか?

スポンサーリンク

ウクライナ戦争。現代戦の最強の武器は情報通信機器だという説

現代戦の最強の武器は情報通信機器だという説があります。

目下、ロシアとウクライナが戦争していますが、ウクライナが優勢に戦いを進めている理由のひとつに「情報」があります。ロシア軍がどこで何してるというのが、衛生画像などからまる見えになっているというのですね。もちろん世界最強アメリカ軍から情報提供あってのことですが。

ウクライナ戦争。ロシアがNATOに加入すればいいんだよ

そこにハイマースとかストームシャドーとかを打ち込めば、敵の司令部だろうと弾薬庫だろうと撃滅できるというわけです。情報通信機器は偉大ですね。

ウクライナ戦争後の世界。ロシアの分割統治(案)。日本は樺太をもらえ

スポンサーリンク

連合艦隊はいわば盲目の剛腕ボクサーのようなもの

時代をさかのぼって、これが太平洋戦争になると、日米双方ともに情報をもっていませんでした。敵の軍艦がどこにいるかわからなかったのです。連合艦隊はいわば盲目の剛腕ボクサーのようなものでした。

真珠湾作戦のときには停泊中の軍艦を狙ったので相手がどこにいるかわかっていました。だから勝つことができました。

しかしミッドウェイ海戦ではアメリカ軍にそもそも作戦行動がバレていました。連合艦隊がミッドウェイ近海に出撃しているってことは米軍にバレてしまっていました。で、待ち伏せされて負けたのです。情報通信機器は偉大ですね。

大平洋戦争。命よりも価値のあるものがある。自分だけが生きのびればいいというものではない。

スポンサーリンク

元寇の謎。なんで攻めてくる時と場所がわかったのか?

さらに時代をさかのぼって、元寇になるとどうでしょうか?

私は疑問に思います。なんで鎌倉幕府は元が攻めてくることがわかったのでしょうか? 情報通信機器のない時代に、どうして「いつ攻めてくるか」「どこに攻めてくるか」わかったのでしょうか?

元寇というのは文永の役(1274年)そして弘安の役(1281年)。モンゴル軍が九州に攻めてきたといういくさです。福岡には今でも元寇の防塁が残っています。いわゆる神風が吹いたいくさですね。

元のフビライから「宣戦布告」されたという話しは聞いたことがありません。宣戦布告があれば、そりゃあ攻めてくるのがわかったでしょうが。

調べてみたら、事情がわかりました。

そもそもいきなり攻めてきたわけではなく、国書という名の「宣戦布告」があったようです。モンゴルもできれば「脅し」で屈服させたかったのですね。その手紙は「属国になるならいいけど、無視してんなら軍を送るよ」という内容だったようです。

そもそも中華や朝鮮を征服して世界帝国をつくっているようなモンゴルからこのような手紙が来たら、こりゃあ朝鮮と同じ目にあわせるつもりだな、と思っても不思議はありません。

降伏の使者も何度も来ていたようです。それに対して日本側は、のらりくらりと返事をしなかったようです。元は怖いが、服従する気はない。つまり「そのうち来るな」とは思っていたのですね。

スポンサーリンク

元の攻め口は、情報通信によって判明したのではなく、「予測」で判明

攻めてくる「場所」はどうしてわかったのでしょうか? 情報通信機器のない時代に、どうしてモンゴル軍が攻めてくるのは博多あたりだとわかったのでしょう? いきなり京都や鎌倉に攻めてくるとは思わなかったのでしょうか?

元寇の元の攻め口は、情報通信によって判明したのではなく、「予測」でした。

そもそも日本の対中国、対朝鮮の窓口は「大宰府」でした。大宰府に直行するには「博多湾」がもっとも近道です。山越えをしないで直行できます。

湾があるってことは、そこは波がなくて貿易船が着岸しやすい場所ということです。侵略のための上陸舟艇が上陸しやすい場所でもあるわけですね。

だから博多湾だと予測したのでした。もっとも合理的な場所だったのです。

そして想像にかたくないのが「船酔い」です。船酔いというのは最悪の体験で、もうゲロゲロになって戦争どころじゃありません。船酔い兵士は一刻も早く陸地に上がりたい一心です。そんな船酔い艦隊が京都や鎌倉まで行くわけがありません。とにかく陸地というのが兵士の第一の欲求だったと思われます。とにかくもうこれ以上船に乗っていたくなかったんだろうなあと予測されます。船酔いは最悪です。

その「予測」で博多湾あたりには防塁が気づかれていました。元軍はそこにまんまと上陸したのです。予測はあたったのです。

スポンサーリンク

船酔い兵士は戦力にならない。

元寇は主に朝鮮半島からやってきました。その理由はもちろん船酔いしたくないからでしょう(笑)。いや冗談じゃなくて船酔い兵士は戦力になりません。

もちろん渡航は危険な時代でした。実際に神風という台風にあって元の船団は壊滅します。なるべく船に乗らない、というのは合理的な作戦でした。だから上陸地点を予測できたのですね。

元寇は、朝鮮の突端から来る途中で、対馬や壱岐を攻め落としています。これも後顧の憂いを断つという理由の他に、やっぱ船酔い対策があったんじゃないの?

「陸地~!!」「とにかく陸地~!!」

スポンサーリンク

対馬や壱岐から早船で侵攻情報を伝えたかもしれない

対馬や壱岐が戦っている一方で、戦況を博多に知らせたということは考えられます。もちろん電波機器なんてないから早船で。この情報は貴重でした。博多ではいくさの準備ができたことでしょう。

情報通信機器がない時代でも、やはり情報はいくさの最大の武器でした。

スポンサーリンク

強制労働に狩りだされた朝鮮人が、こっそり日本に情報をくれたのではないか?

元寇というのはモンゴル軍と鎌倉武士団のいくさですが、実際にはモンゴル軍に屈服した戦意の低い中国・朝鮮の兵士が命令されてしかたなく攻めてきた部分も多かったそうです。

文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)には七年間ものタイムラグがあります。七年間もいつ来るかわからない敵をずっと警戒していたのでしょう。防塁などちゃくちゃくと準備をしながら。情報通信機器がないとたいへんな労力を割かなければなりません。これはキツイですね。

いつ来るかわかっていれば、その分、兵をやすめることができます。

元寇のためには朝鮮半島ではたくさんの舟を建造する必要がありました。これはわたしの想像ですが、もしかしたら元に征服されて強制労働に狩りだされた朝鮮人が、こっそり日本に情報をくれたのではないでしょうか。敵の敵は味方ですからね。

数百隻の船をつくらされているあいだに、こっそりと日本側に警戒情報をくれた、ということはありえると思います。モンゴル軍が弱体化するほど、朝鮮は独立しやすくなるわけですからね。

弘安の役には日本中から武士が集まってきたといいます。国家総動員体制です。いつ来るともわからない敵あいてに七年間も総動員体制が維持できるはずがありません。

やっぱり昔から情報は最強の武器だったのですね。きっと朝鮮人が情報をくれたのだと私は信じたいです。

第二の故郷。愛憎の韓国ソウル。

モバイルバージョンを終了