日本に核兵器が落とされて敗戦するのが明日、8月15日である。終戦記念日と言われている。
ここでは核と密接な関りがある映画『ゴジラ』について、あれこれと書いていこうと思います。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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ゴジラが迫ってくる恐怖は、核戦争が迫ってくる恐怖だった
庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』の出来が非常によかったので、他のゴジラ作品を見てみようという気になった。ちなみに他のゴジラ作品はこれまで初代ゴジラしか見ていない。
初代ゴジラはまさに核兵器が生み出した怪物だった。名前の由来はゴリラ+クジラという単純なものであるが、この怪獣のキャラクター付けはそんなに単純なものじゃなかった。
というより実際は核兵器のように強い怪物というくらいの単純なキャラクター設定だったものが、核と結びつけたことで結果としていくらでも深いテーマを描ける存在になった、といえるだろう。
ビキニ環礁の原子爆弾実験の結果、放射能を浴びた恐竜型生物が、放射能で変貌したものがゴジラとされている。ちなみに女性の極小水着をビキニというのはビキニ環礁が由来である。原発ほど人々にショックを与える水着というのが由来。あのキノコ雲ほど人類に衝撃をあたえた映像はなかったのだ。
原爆があったらヒトラーも戦争をはじめなかったのではないだろうか。ベルリンの総統官邸に一発落とされたらそれでジ・エンドなものをわざわざ始めるほどバカではなかっただろう。
そのキノコ雲こそゴジラのイメージである。ゴジラが迫ってくるというのは核戦争が迫ってくるというのと同義だった。
キングギドラが大好き。ドラゴンぽいところがたまらない
さて、初代ゴジラと最新版のシン・ゴジラだけ見ていた私が、終戦記念日に何かゴジラを見るとしたら、何を見ようか。ゴジラ映画シリーズだが、数えきれないほどある。しかし私は迷わなかった。『ゴジラvsキングギドラ』1991年作を見ることにした。
なんでこの映画にしたのか? 私はキングギドラが好きなのだ。キングギドラのことは映画を見ていなくても知っていた。一度見たら忘れない金色のあの姿。あのドラゴンぽい容姿が大好きだ。
私はヘラクレス伝説のヒドラは、私の中でキングギドラとして映像化されている。ヤマタノオロチと聞いてもやはりキングギドラを思い浮かべている。
アトリビュートとは絵画上のお約束・象徴。ドラゴン退治のミカエル。ゲオルギウス。トリスタン。ジークフリート
あのドラゴンぽい顔、三つ首が好きでたまらない。そう、本サイト『ドラクエ的な人生』の筆者はドラゴンが大好きなのである。
たとえば俵藤太(藤原秀郷)の百足退治伝説を知っているだろうか。伝説の悪霊・平将門を討った俵藤太は、将門に勝るとも劣らない伝説の人物である。なんと竜神に頼まれて、大ムカデを退治したというエピソードを持っているのだ。
いやいやいや、何かおかしくないか。この物語を創作した人は「さすが秀郷」と言わせたいんだろうけれど、なぜ竜神ともあろうものが、ムカデごときを自分で退治できないんだ? 竜神はムカデよりも弱いのだろうか。
日光には戦場ヶ原という湿原がある。サムライの戦場跡なんだろうと思っていたら、なんと男体山の大蛇と、赤城山の大ムカデの古戦場であった。このエピソードでは大蛇が勝つことになっていてホッとしている。大蛇というのはほぼドラゴンと同じ意味だから。
このようにドラゴン大好き人間としては『ゴジラvsキングギドラ』一択であった。ところがこいつが想像以上の名作だったので、こうしてブログに書いているわけである。
ゴジラは核。人類を救いもするが、脅かす存在
ゴジラは核だからときに人類を救う。これは核エネルギーによって人類が救われることを意味する。
やはり核によって誕生したキングギドラという脅威に対してゴジラを立ち向かわせようというのは、子どもたち向けには怪獣プロレスでしかないが、核兵器を沈黙させることができるのは核兵器しかないとも読める。
キングギドラを倒したゴジラであるが制御できず今度は人類の敵に回る。ゴジラを制御しようというのは核を制御しようというのと同じであった。核は制御できない。子どもたち向けには怪獣映画の見せ場だが、核を制御できず核戦争とも原発事故とも取れるような災いを人類にもたらすのだ。
どうしようもなくなった人類は、またしても核に頼る。核から生まれたキングギドラを未来の技術でロボット化して蘇らせるのだ。再びぶつかり合うゴジラVSキングギドラ。要するに核VS核のたたかいである。
ゴジラとキングギドラはもつれあって海に没する。核廃棄物が海に投棄されたことをイメージさせるシーンだ。人間たちは視界からゴジラが消えてホッと安心しているが、ゴジラは海中で目を覚まし、再び暴れまわることを暗示して映画は終了する。
原子力発電所のことを「トイレのないマンション」と譬えることがある。人がたくさんいれば排泄物が出るがトイレがなければ汚物が溢れかえってしまう。原子力発電所を稼働させると使用済み核燃料(核のゴミ)が出るのに、捨て場所が決まっていない(トイレがない)というのがこの比喩の意味です。
海に捨てて安心と思っていたゴジラは再び目を覚ましてしまいました。さあ、人類よ、核のゴミ(ゴジラ)をどう処理しましょうか? という問題提起のラストにも読めるのだ。
それもこれもゴジラが核だからこそ読めるのである。ただの怪獣ものとも読めるが、核批判の物語とも読める。それがゴジラだ。
核の脅威がなくならない限り、ゴジラの脅威はなくならない
初代ゴジラの恐怖のテーマ曲がいまだに使われているのがいい。音楽は当時の記憶を呼び覚ますというから、過去のゴジラ体験はこの曲でずっとつながっていく。
ちょい役でウルトラマンのハヤタ隊員(黒部進)が出ている。のがうれしい。おれの中でゴジラはジラースなのである。
ちなみに『怪獣総進撃(1968年)』という映画もその後、見た。やはりキングギドラが見たかったためである。驚いたのは「怪獣ランド」は完全に『ジュラシックパーク(1990年)』だった。日本のクリエーターはこんな怪物を生み出したことを誇っていいと思う。
ゴジラは核である。
だからこそここまでたくさんのシリーズが作られ続けてきたのだろう。核の脅威がなくならない限り、ゴジラの脅威はなくならない。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。