『ジャック・ロンドン放浪記』ホーボーという旅のスタイル
このページではホーボーとは何かについて『ジャック・ロンドン放浪記』をネタに書いています。
放浪記というので各地をさまよいつつ、ワンダーな新しい世界に感動したり、自分探しをするのかと思いきや、主人公のジャック・ロンドンはひたすら鉄道の無賃乗船を繰り返しています。
エクスプローラー、エグザイル、ワンダラーなど放浪者の言い方はいろいろありますが、この「貨物列車ただ乗り」「無賃乗車」系の放浪者のことをホーボーというのです。
ホーボーとは、日本でいえば「青春18きっぷの旅(料金払わない版)」
ホーボーとは、日本でいえば青春18きっぷの旅(お金払わない版)といったところでしょうか。わたしは青春18きっぷでぐるっと日本をまわっていますが、読んでいてそのときのことを思い出しました。
鉄道である以上、移動範囲は限定的です。アメリカ国内の横の移動であるため、移動先が急にイスラム教国家になっていたり、仏教国家になっていたりすることはありません。服装が急にパレオになっていたり、氷点下でアザラシの皮を着ているわけでもありません。それでもジャック・ロンドンは鉄道ただ乗りを繰り返します。
マレーシアの国教がキリスト教ではなくイスラム教であることの不思議
この人は何を求めて旅をしているのだろう。そんな疑問が湧きますが、その答えは最後まで書いてありません。
無賃乗車なんて法にふれるんじゃないか、とお思いでしょうが、当時アメリカでは鉄道会社からおおめにみられていたそうです。ジャック・ロンドンだけがただ乗りしているわけではなく、ほかにもホーボーがたくさんいて、いい場所のとりあいをしている様子が本書に描かれています。
無賃乗車である以上、もちろんまともな客席に座れるわけではなく、貨物列車の屋根の上や、貨車と貨車のあいだの連結部分に乗ったりします。ときにはただ乗りをとがめる鉄道関係者や警察から逃げたりします。映画『イージーライダー』で部外者が猟銃で吹っ飛ばされたように、ホーボーのような人種が来ることを快く思わない人たちもいてときには牢獄に入れられます。
<ホーボー>ジャック・ロンドンと、<ルンペン>山下清の共通点
ホーボーはお金もありません。食べ物をめぐんでもらいながら旅をつづけます。一軒一軒まわりながら食べ物をめぐんでもらうのです。「むすびをください」といって旅をつづけたルンペン山下清のことをちょっと思い出しました。食料をめぐんでもらう時に「マイストーリー」を話すというのは東西共通みたいです。
「不運のためやむにやまれず」「みじめな境遇におちいった被害者」であるほどいい食料をめぐんでもらえることから、ジャック・ロンドンは「作り話」をして話しを盛りました。そのストーリーテリングが上手だったから、ホーボーとして食べていけたし、作家になってからも成功したというのがジャック・ロンドン本人の自己分析です。ちなみに山下清もウソをついて食料をめぐんでもらっています。
山下清の場合は「きれいなものを見たい」が旅の動機でした。そして見た「きれいなもの」を貼り絵にしたところ認められ日本のゴッホなんて呼ばれるようになったのですが、ジャック・ロンドンは「ひたすら移動したかった」というのが旅の動機でした。
私が放浪者になったのは、体の中に生命力があったからであり、血の中にいっときも私を休ませまいとする放浪癖があったからである。社会学を学ぶためではない。それは後からついてきたもので、放浪の旅に出たのはそうせざるを得なかったからであり、汽車賃をもっていなかったからであり、同じ仕事を一生続けるようには人間ができていなかったからである。
と本人もこういっています。
過酷な旅に見えても、旅に出ていた方が楽だったからだ、と述懐しているのです。
一ツ所にとどまっていられないような魂の持ち主だったようです。放浪者とはそういうものなのでしょう。
定職をもたないどころか、住居をもたない。いつも腹が減っているが、自由がある。それがホーボーでした。
羨ましいと思いますか? 私は「ただ移動するだけ。野ざらしで貨物列車に乗るだけ」だと何がおもしろいんだかわかりません。わたしも世界放浪を経験していますが、ツボはそこじゃありません。
ジャック・ロンドンの場合、食べ物の物乞いも楽しんでいたようです。
今いるこの場所を開拓するか、自分から魅力的な場所に近づくか
できれば魅力のある場所で暮らしたい。ふつう人はそう考えます。
考え方は二つあります。自分が今いるこの場所を魅力のある場所に開拓しようという生き方と、魅力ある場所に自分から近づいていこうという生き方です。
開拓しようという人は、農耕民族的です。政治家とか市役所の職員になるのが向いています。なかなか地元を出ようとしないヤンキーなんかもこのタイプかもしれません。しかし地縁という社会的束縛はなくなりませんし、いったいいつこの場所が魅力的になるのか、子供の世代にならないと無理じゃないか、とか、みじかい寿命との勝負になってしまうでしょう。
ぎゃくに自分から近づいていこうという人は放浪者の素質ありです。狩猟採集民的です。ジャック・ロンドンはこのタイプでした。
ジャック・ロンドンは知らない場所に行くのが単純に好きだったんでしょうね。
自分を知っている者が誰もいない場所。何もわからない場所を愛するのが放浪の真髄。
モロッコのカサブランカ空港に降り立った私は、ギュッと心臓がしめつけられるようでした。東洋人は一人もおらず、周囲の人はみんなイスラム教徒で、チャドルの女性は爆弾テロリストにしか見えません。文字はまったく読めず、これから何をどうすればいいのかわからず途方に暮れていました。
あのような気持ちは放浪先でないとあじわえません。言葉の通じる祖国で分別ある大人になってから「カサブランカ空港の気持ち」を感じることはありえません。
あれが放浪の気持ちかもしれません。
自分を知っているものが誰もいない場所で、これまでの自分を捨てて、何もない自分として未知の風景の中に自分を溶け込ませること。宇宙に溶けること。それが放浪の真髄なのかもしれません。