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トルストイ民話集『イワンのばか』キリスト教は愛の宗教か?

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『イワンのばか』キリスト教は愛の宗教か?

「トルストイ民話集」という副題があるとおり、彼の小編をあつめた作品集です。この中で『イワンのばか』だけは、子供向け絵本か何かでストーリーを知っていました。

『馬鹿のイワンは馬鹿正直な農夫。愚直なまでにひたすら農作業に邁進します。小悪魔が登場しイワンを堕落させようとしますが、働くことしかしないイワンを堕落させることはできません。それどころかイワンはお姫様を助けて王様になってしまいます。王様になってもイワンは農作業にいそしみます。王様がそうなので王妃も、国民みんなが農作業をやるようになりました。悪魔はまたしても人々を堕落させようとして、イワンの国で「手を使う労働よりも、頭を使う労働の方がいいのだ」と吹き込みますが、頭脳労働ということをイワンは理解できず、頭をトンカチのように使って仕事をするのだと勘違いするほど馬鹿でした。愚直なまでのイワンには悪魔の誘惑も通用しませんでした』

いうストーリーだったと思います。愚直な馬鹿は悪魔の誘惑も寄せ付けない、という教訓でした。

トルストイの原作を読むともうすこし登場人物があってふくらましてあるものの、ほとんど同じ内容でした。

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『洗礼の子』一部が正しいからといって全部が正しいとは限らない

トルストイ民話集は、キリスト教的な教訓ばなしに溢れています。どうすれば「信仰の道」に入れるのか、どうすれば「誘惑」に「堕落」しないですむのか、という内容ですね。悪魔というのがそもそも聖書の登場人物であることからもわかると思います。さきほどの「イワンのばか」も、実際にはキリスト教的な教訓です。悪魔というのは反キリストという意味なのです。執筆モチーフは『天路歴程』によく似ていますね。

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トルストイ民話集の中にある『洗礼の子』も同じモチーフの作品です。

「今こそわしは悪は悪のために増えるものだということがわかった。悪でもって悪をとりのけることはできないのだ。」

「人から隠れ、人の助けなど求めず、神のうちに自分の生活を見出して、かたくなな心を折る。」

「追剥ぎは今度は自分が洗礼の子から言いつけられたとおりの生活をはじめ、同じように人々を教え出した。」

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『三人の息子』キリスト教の核心の本質は「愛の教え」ではない

同様に『三人の息子』もキリスト教がモチーフです。

「父のように暮らすということは、人々に善をなすという意味にほかならない。」

「人びとは自分たちは神がなくても、ただ自分たちだけで生きてゆけるものと考えている。ある人々は、人生とは満足のたえざる連鎖であるように考えて、生をよろこび、生を楽しんでいるけれども、ひとたび死の時に見舞われると、その幸福が、死の苦痛によって終わるこの人生が、なんのために彼らにあたえられたのか、たちまちその意味を見失ってしまうのである。

「神は人々のために幸福をつくってやりながら、なんじらも他人に対して同じことをせよと命じていられる。」

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典型的な詐欺師の論法。論理の飛躍を見破れ

キリスト教には「愛の教え」というものがあります。非常にいいことを言っていると思います。でも、だからといってキリスト教を信仰しろ、というのは違うと思うんだよなあ。

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「キリスト教の愛の教えはすばらしい」ということと「だからキリスト教はすばらしいん」ということは、必ずしもイコールではありません。一部が正しいから全部が正しいというのは典型的な詐欺師の論法です。

一部が素晴らしいからといって、全体を認めなければならない、ということにはなりません。愛の教えが素晴らしいからといって、キリスト教を信仰しよう。というのは論理の飛躍があります。

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信じれば生き返ることができる。愛の宗教ではなく、よみがえりの宗教

愛の教えだけを取り出してキリスト教を「愛の教え」だという人がいますが、この人たちも詐欺師です。キリスト教の核心の本質は「愛の教え」ではありません。信仰すれば「この肉体、この意識のままで復活することができる」というのが本質です。

キリスト教の本質は、この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということ

いくら「愛の教え」がすばらしいことを認めるとしても、「この肉体、この意識のままで復活することができる」まで認めるかというと、それは別の話しです。

こういう論法が、トルストイだけでなく、ドストエフスキーにも見られます。大文豪の論理の飛躍に騙されてはいけません。(信仰を直接的に勧めてはいませんが、結局は勧めているのです)

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人間ひとりの決意や意志、たどり着ける場所には限界がある、という思想はいいと思うのですが、だからといってひとりの個人以上の何かに「キリスト教」を持ち出すのはどうなんでしょうか。

愛の教えも神の無償の愛を見倣えというような教えなのですが、この神さま、けっこう不寛容で残酷な神でもあります。ビミョーなんですよね。

キリスト教徒だけがこれを評価するんじゃないのかなあ。いいこと言っていると認めることと、信仰することは違います。

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