ドラクエ的な人生

放浪の大先輩。山下清のルンペン旅。天才画家の乞食行脚

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山下清画伯の放浪旅について

このページでは放浪の大先輩山下清のとくに放浪の部分について語っています。

私は放浪の旅人です。放浪した国や箇所だけなら山下清以上です。歩いた距離(走った距離ですが)も山下清をはるかに上回っています。しかし、山下流放浪のやり方を知れば知るほど「先輩、参りました」と脱帽せざるを得ません。

このページでは放浪の後輩が大先輩山下清の放浪の部分を照らして解説しています。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

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天才画家のルンペン行脚、乞うたのは清々しいもの美しいもの

ルンペンである。はっきりいって山下清は。コツジキです。美を求めての乞食行脚のような放浪でした。

熱い夏は全裸で線路を歩いて、駅舎で寝て、人家を訪ね歩いては、親なしの子と嘘をついて食べ物やお金を恵んでもらって歩いた。オイオイ(笑)。

白いステテコにランニングというテレビでお馴染みのスタイルではない。

正真正銘ガチの全裸だったこともある。新聞に掲載された全裸写真を拝見させていただいた。
全裸にリュックサックだけの姿で線路の上を歩いていた。マジか(笑)。

絵を描くために放浪したわけではない。美しい景色が見たかったことは確かだろうが、放浪中は絵を描いていないのだ。そもそも画材を持ち歩いていない。ものすごい貼り絵は本拠地である千葉県市川市の八幡学園に戻ってから、落ち着いた部屋の中で制作したのである。

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それはそうだろう。実物を見ればわかるが、大作の画布?は大きく、貼った紙片も膨大で、とてもアウトドアで制作できるものではない。外作業では、細かく千切った色紙が風で飛んでしまうよ。

放浪の後輩として山下先輩の気持ちはよくわかる。放浪中はできるだけ荷物を減らしたいのだ。

山下清は「日本のゴッホ」と異名をとったが、「ゴッホ以上じゃないか?」と思わされるほど凄い絵を描く(正確には、貼り絵を制作する)。

貼り絵がこんなに素晴らしいのならば、どうして後に続く後輩たちが現れないのか、と不思議に思うほどだ。やはり山下清ほど細かく時間のかかる作業をやりきれないというのが本当のところではないだろうか?

死んで何十年もたつのに、私のような放浪の後輩が山下先輩のことを書こうと思うのも、そもそも本業である貼り絵があまりにもすばらしいからに他ならない。それがなければただのコツジキだものね。興味深い放浪者ではあるが「頭がいかれていたんだな」という引き出しにレッテルを貼って、コラムを書こうとまでは思わないだろう。

貼り絵あっての山下清である。それは間違いない。画才については圧倒的と言わざるをえません。貼り絵であるため立体感から来る感動が大きいので、できれば山下清の絵だけは本物を見たほうがいいです。パソコンで画像を見るんじゃなくて。

よくまあこんなに紙を貼り付けたものだ、と思う。感動するよ。しかし私は美術評論家ではないので、絵について論評することはこれ以上はしない。

いや実は結構、美術評論やってるけど……(笑)。

世界三大名画の謎
「世界三大名画」は「日本三名泉」のように誰かご意見番が決めたものでしょう。そういう指標を大衆が求めていて、下された評価に大多数が納得したために、今日まで残っているものと思われます。そもそも東洋の絵は評価対象に含まれていません。ご意見番ひとりに三大〇〇を決めさせるのは問題があるのです。
日本一おもしろい美術館『大塚美術館』。全部ニセモノ、けれど感動は本物
ここは世界で2番目に面白い美術館だね

しかし美術よりも放浪のほうがずっと専門家である。

このすばらしい絵と放浪生活には何らかの関係があるのか? と考えざるを得ない。

できればあってほしいと後輩のひとりとして願っている。

ここからは天才画家山下清の美術を支えた放浪生活について書いていきます。

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戦争中、兵役忌避のための出奔が発端

山下清の放浪を調べていくと、おもしろいことがわかる。放浪のきっかけは徴兵忌避ではないか、との疑惑があるのだ。

1922年浅草に生まれる。三歳の頃、山下清は重い消化不良が原因で知的障害を持つに至った。喋るとどもるし、学校の成績は悪い。

学校では馬鹿にされたりいじめられたりするので、清は学校をサボったり、ケンカや盗みをするような不良少年となった。ナイフを持ち出して刃傷沙汰まで起こしている。プライドだけは失っていなかったのだ。

知的障害のある問題児はやがて千葉県市川市の知的障碍児施設「八幡学園」に入ることになる。山下清十二歳。そこで教育の一環として行われた「ちぎり紙細工」に適性を見出して世に出ることになる。

世は日本帝国が大東亜共栄圏構想のために国家総動員法(徴兵令)を敷き、アジア各地に打って出ようとしていた。

山下清が八幡学園から忽然と姿を消したのは1940年18歳の時である。翌々年には徴兵検査を控えていた。

1937年にすでに日中戦争がはじまっており、中国とまだ決着がついていないのに1941年からはアメリカに対して太平洋戦争という無謀なケンカを仕掛けようという時期だった。

清の出奔は、18歳から32歳までおよそ14年間にも及ぶのである。ときどき八幡学園や母のもとに帰ったようだが大浮浪と言わざるを得ない。

しかもその前期5年(18~23歳)は、日本各地に爆弾が落ちて、1億特攻と国民全員が悲壮な叫びをあげていた、国運を賭けた大戦争の真っ最中なのである。

「えっ? 徴兵検査って行方をくらまして回避できるの?」
「えっ? 1億特攻の時代に、コツジキ放浪?」

一代記を読みながら、率直に思った。そんなことが可能だったのか?

総理大臣でさえ戦争に反対できないような社会の中で、徴兵や国家総動員の義務を放浪によって忌避できるなんてことは考えも及ばないことだった。逃げてもすぐに探索されたり、残された家族が村八分にされたり拷問されたりするのが、戦時中の日本だったんじゃなかったのかい?

逃げる。そんな単純な手で徴兵検査を逃げられるとは。

実際には山下清は一年遅れの徴兵検査を受けて、知的障害ゆえに不合格となるのだが、放浪で戦争協力体制と縁を切ることができるなんて、天才的なアイディアだと思う。

思いついても大学出のインテリには実践できない。各国を放浪してきたオレも、命の危機まで追い詰められなければちと実践しようとは思わない手だ。

盲点を突いているというか、常人に思いつくアイディアではないのではないか?

山下清は常に知的障がい者の文脈で語られることが多いが、清を見ていると「本当に知的障がい者か?」と思うような場面がいくらも出てくる。

「王様は裸」の少年のように、無邪気ゆえにものごとの本質、核心をズバズバと突いてくるところがあるのだ。

「女性がオバサンになるのは何歳からですか? おばあさんになるのは何歳からですか?」

無邪気にそう聞かれると、誰もが苦笑して返事ができなかったという。

知らんよ、そんなの(笑)。心の持ちよう次第だとサミュエル・ウルマンならいうだろう。

おまえ、バカを装っているだけだろう! と、ツッコミを入れたくなる場面が清の人生には多々ある。

1年遅れての徴兵検査の場面でも、きっとバカを最大限に強調して不合格になるように精一杯演技したに違いない。

オメ、ホントは頭いいんだろ疑惑の第一回目が徴兵検査の回避を目論んだのかもしれない最初の放浪なのであった。風呂敷包み一つでいきなり姿を消したという。いや、もうちょっと荷物を持とうぜ。

放浪中も山下清は太っていた。

ユーラシア大陸横断をヒッチハイクでやった猿岩石じゃないが、放浪するとげっそりガリガリ君になるのが常なのだが、山下清はよほど食べ物をねだるのが上手だったのだろう。

コツジキの際は、生まれの不幸話の虚構を交えて、自分は頭は悪いが善良な人間だというイメージ戦略をとっていたらしいのだ。

やっは本当は頭いいんじゃないの?

なにせ戦時中や敗戦後のことだ。ねだる相手だってろくに物資を持っていなかった時代のことである。

とうてい常人になしうることではないと思う。おれには無理だ。

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放浪地図。魂のおもむくままに歩いた人

大平洋戦争中は我孫子あたりの千葉県北部で住み込みで仕事をしながら過ごした(19~23歳)が、戦争が終わった後のギブミーチョコレートの時代も線路の上を徒歩で歩くという大放浪を続けていた。戦後は住み込みの仕事はなくまさに乞食行脚であった。

日本には四季があり、それがいいところでもあるのだが、放浪者にとっては季節などない方がいい。冬服は夏には荷物でしかない。

第一、日本の夏は放浪するには暑すぎる。冬は寒すぎる。

徒歩旅行者の山下清は夏の暑さは北国や山梨や長野など高原地帯に行って凌ぎ、冬の寒さは鹿児島のような南国に行って凌ごうとしたようだ。

まだエアコンも普及していなかった時代のことである。避暑地が本当に避暑地として価値があった時代のことだ。

秋こそ日本の最高の季節
世界的に見て、日本の夏は湿度が高く決して過ごしやすい夏とは言えません。日本の冬は寒く決して過ごしやすい季節ではありません。年中Tシャツとサンダルの軽装で楽に過ごしたいと考えるアウトドアマンにとって日本という国は残念ながら決して過ごしやすい気...

私が今、車中泊の旅で目的地を決めるときにも全く同じ考え方をしている。同類意識を感じて、共感せざるを得ないのだ。

数年に及ぶ大放浪ではない場合、冬になると実家や八幡学園に戻ってきて、春になると放浪の旅に出かけるというパターンだったらしい。

つまり冬は諦めたわけだ。雪国での浮浪など死にに行くようなものだ。要するに服装は夏仕様のみで十分というわけである。だからいつも軽装だった。だから「裸の大将」なのです。

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放浪に求めたのはすがすがしいもの美しいもの

この放浪時代、山下清は別に美術家になろうとしていたわけではない。美しいものを見たいと思っていただろうが、画家として絵を描くためにロケハンしていたわけではない。ただ単純に見たかっただけだろう。

画家として認められるかどうかなんてまったくわかっていない時代だった。

それどころか、サラリーマンになって生涯をひとつの会社に勤務しなければいけない、という気持ちもサラサラなかった。

出世とか、年収とか、常識的な社会生活とか、画家としての成功とか、ぜんぶ考えてなかった。ぜんぶどうでもよかった。ただ歩きたいところに歩いて行っただけだった。

お金がなくても、そういうことが可能なのだと、山下清の放浪は教えてくれる。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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私はオーディオブックは究極の文章上達法だと思っています。

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