ドラクエ的な人生

ルパン三世のお爺ちゃんの最高傑作『奇岩城』。ライバルはシャーロック・ホームズ

このページではアルセーヌルパンシリーズの最高傑作『奇岩城』について語っています。

日本でアルセーヌ・ルパンが超有名なのは、もちろん『ルパン三世』が彼の孫って設定になっていることが決定的に大きいことは避けて通れません。

その他に、彼の宿命のライバルとしてシャーロック・ホームズが小説中に登場することを知っていますか?

ルパン三世のおじいちゃんにして、ライバルはシャーロックホームズ?

そういわれたら読まないわけにはいかないですよね?

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探偵ものと怪盗もの、どっちがおもしろいか?

わたしが本書を手にしたのは、シャーロック・ホームズをすべて読破した縁からです。

名探偵ホームズを読破したなら、怪盗紳士ルパンも読まなきゃね、といったミーハーな心からでした。

探偵ものと怪盗もの、果たしてどっちがおもしろかったでしょうか?

ところがなんと『奇岩城』にはシャーロックホームズが登場するのです。

後発のルパンが、先発のホームズをちゃっかり登場させちゃったんですね。

※ルール違反に見えますよね。これについては後述します。

これが「そっくりそのまま」のホームズだったら文句はないのですが、聡明じゃなくてコナン・ドイルの描いたホームズとは別人みたいに見えます。

『奇岩城』ではアクシデントとはいえ、ルパンの愛する人をホームズが撃ち殺してしまいます。ルパンが泥棒稼業から足を洗って普通の「家庭人」になろうとさえした愛する人でした。その人を撃ち殺されてルパンは絶望します。

そしてホームズを縄でしばりあげ、恋する人の亡骸を抱きかかえていずこかへ去っていくのです。

いや、ルパンはものすごくカッコいいですよ。でもホームズの立場は?

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別人? シャーロキアン(ホームズ愛好家)はルパンはガン無視

『奇岩城』だけ読むと、なんだかホームズはルパンにまったくかなわない人物に見えてしまうのです。単なる引き立て役に甘んじています。ですからシャーロックホームズ愛好家のシャーロキアンからすると、フランスのルパンシリーズは「なかったこと」「見なかったこと」になっているみたいです。

銭形警部的な立ち位置にガニマール警部というガニ股のカニみたいな人物がいますが、ルパンの宿敵はあくまでもシャーロックホームズということになっています。

しかし後世のシャーロキアンの誰に聞いてもシャーロックホームズの宿敵はモリアーティー教授ということになっているのです。ルパンはガン無視なんですね。

シャーロキアンはコナンドイルの正典60編だけを当たるのが王道で、後発作品やスピンオフは基本的には除外するのがスタンスのようです。

まあ自分の好きなキャラクターをカッコ悪く描かれたら「ふざけんな」と言いたくなります。仕方ありませんね。

そもそもルパンがホームズに徹底的に劣ったやつだったら、相手にしてもしかたないでしょう。ところが「そうじゃない」ところが問題なのです。

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フランスの英雄ルパンと、イギリスの英雄ホームズをくらべてみた

ルパンシリーズの最高傑作が長編『奇岩城』であるのに対して、ホームズシリーズの最高傑作は長編『バスカヴィル家の犬』だといわれています。

単純にこの2編だけをくらべた時に、『奇岩城』の方が圧倒的にスケールがデカくておもしろいんですよ。本格的な推理トリックかどうかではなく、小説としてワクワクできるかどうかですが。

両者をくらべてみましょう。

『バスカヴィル家の犬』が「地方の貴族の館」が舞台なのに対して、『奇岩城』の舞台は「海に突き出た要塞のような奇妙な岩の城」です。ルパンの方が謎と冒険に満ちています。

『バスカヴィル家の犬』の悪漢の目的が「財産の相続」なのに対して、『奇岩城』の悪漢の目的はフランスの歴史的、国家的な宝石や美術品や財宝です。ルパンの方がスケールが大きいのです。

『バスカヴィル家の犬』でホームズは、夜光塗料を塗って魔犬に見せかけた犬の謎などをすべて解いてみせますが、事件が解決した後のホームズは決まって「日常生活に戻っていきます」。探偵というのが市民の職業である以上、最後は「平凡な日常生活に戻っていく」のがホームズものの定番の終わらせ方です。

『奇岩城』でルパンは失恋したと思われていましたが、どんでん返しで女性の心を見事に盗んで結婚してみせます。さらにその愛のために、大泥棒としての大遺産は祖国フランスに寄贈して、怪盗である自分を捨てて、平凡な市民・ただの男に戻ろうとするのです。ただの男として愛する人との生活に生きようとしたのですが、目の前で彼女を殺されて、悲しみの中、ルパンは悄然と去っていきます。ルパンが泥棒をやめるのか、また元の悪漢にもどるのか。この時点ではわかりません。

話しのスケールからいっても、ルパンの愛や決意などの物語としても、そしてエンディングシーンも『バスカヴィル家の犬』よりも『奇岩城』の方がずっとおもしろいことがわかるでしょう。こういうとき、ワルは有利です。犯罪だろうと、暴力だろうと、ありえない行為だろうと、なんだってできますから。

歴史的、国家的財産をめぐる『奇岩城』の方が『バスカヴィル家の犬』よりも冒険小説として圧倒的におもしろいので、イギリスのホームズの立場から読んでいても、このフランスのルパンを無視できなくなってしまうのです。

悩ましいのは、作者モーリス・ルブラン(『名探偵コナン毛利蘭のネーミングの由来だそうです)は、『奇岩城』をはじめとするルパンシリーズにシャーロックホームズを出してしまったことです。ガニマールではダメだったのでしょうか。

……ダメだったんだろうなあ。ホームズとガニマールでは役者が違いすぎます。

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イギリスへのライバル意識からホームズを登場させてしまった

ホームズは19世紀後半の人物ですが、ルパンは20世紀前半の人物です。ギリシア神話の神々のように小説のキャラクターは年をとりませんから、いちおう直接対決はできるわけです。

ホームズものは作者コナン・ドイルがやめたくても出版社からやめさせてもらえなかったほどの人気を得ていましたから、モーリス・ルブランはもちろんイギリスの名探偵シャーロックホームズのことを知っていました。

ご存知のようにイギリスとフランスはわたしたち日本人には理解できないような深い因縁のライバル関係にあります。かたやイギリスの名探偵がいて、こちらはフランスの怪盗がいるということで、今ほど著作権にうるさくなかった時代のことですから、ライバル意識からホームズを登場させてしまったのでした。

さすがにコナンドイル側から異議申し立てがあり、シャーロックホームズの名前を直接使用することはなくなりましたが、そのかわりイギリスの名探偵ハーロック・ショーメスという名前をもじった人物を登場させたのです。

大星由良之助が大石内蔵助だと日本人の誰が見てもわかるように、ハーロック・ショーメスがシャーロック・ホームズだということは誰の目にも明らかでした。脳内で読み替えてください。ヨロシク! というわけです。

「あくまで別人」という免罪符を手に入れたモーリス・ルブランは、これで敬意も遠慮もなくハーロック・ショーメスを間抜けな引き立て役にすることができたのです。名前が違うと作者の意識の上でいやでもそうなります。

ところが現代日本の翻訳ルパンでは、ご親切にも読者が脳内で読み替える手間を省いてくださっているため、引き立て役のハーロックショーメスが、シャーロックホームズに文字置換されてしまっているわけです。

それでシャーロックホームズそのままの表記だったら払われていたであろう敬意や配慮がないために、明るくも賢くもないホームズがルパンものには登場してしまうことになっているのです。

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理性に生きる頭脳派ホームズと、人生を謳歌する悪漢ルパン

艶っぽい話しは「報酬はアイリーン・アドラーの写真で」という『ボヘミア王のスキャンダル』だけだった理性の人シャーロックホームズにくらべると、元祖恋泥棒であり、愛する女性のために冒険の人生を捨ててただの男として生きようとしたアルセーヌ・ルパンはフランス的な魅力に溢れています。

「奇岩城とはつまり冒険そのものなんだ。それがわたしのものである限り、わたしは冒険家なんだ。奇岩城を返してしまえば、一切の過去はわたしから切り離され、未来が始まるのだ」

「彼女が心から嫌っているこのわたしの過去を彼女の記憶から消し去ることができるだろうか。わたしは彼女のためにすべてを犠牲にした。わたしはもうどんなものにもなりたくない。人を愛することのできるまっとうな人間になれさえすればそれでいい……」

そのようなルパンを、フランスの感性の代表者であるとさえいう人がいるそうです。

フランス革命にみる反体制。芸術趣味。恋に生きるバラ色の人生。ラヴィアンローズ。『奇岩城』のルパンはそういうフランスの感性を体現しています。

古今東西の膨大な小説の中、たくさんのキャラクターが生まれては消えていきました。そのほとんどが消えていったといっても過言ではないと思います。

シャーロック・ホームズもアルセーヌ・ルパンもむろん架空のキャラクターです。

シャーロックホームズがイギリス人の心に生き続けるように、フランス人の心のどこかにアルセーヌ・ルパンというキャラクターが生き続けていくことは間違いないでしょう。

『奇岩城』がある限り。

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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!

かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。

すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。

『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。

その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。

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