競争が性能を飛躍的に高める
知り合いの農家からお米をもらった。お米というのは県の農業研究所が品種改良の研究を毎年続けており、今も新しい品種が日本各地で誕生している。
お米と言えばコシヒカリだったのは今は昔の話である。今はコシヒカリをベースとした改良種のほうがおいしかったり、倒伏しにくかったり、収量が多かったりするのだ。
しかし新種は誰でも栽培できるというわけではない。新発明が特許によって知的所有権が守られているように、お米の新種も基本的にはしばらくの間は県内でしか栽培できないルールがある。新潟県の農業研究所が開発した新種は、当分の間、新潟県の水稲農家でしか販売できないとされているのだ。
これはもっともな措置だと思う。研究費をかけて研究所が新しい品種を開発しても、成果をただ盗りされては、誰も新しい種を改良しようとは思わないだろう。
兵器開発がそうだが、敵に勝たなければ我が方が死んでしまうというような命がけの生存競争こそが、性能開発を飛躍的にあげるものだ。ロケットもジェットエンジンも原子力もそのようにして生まれた。
県の予算で開発したのだから、その県内の農家のみが儲けられる仕組みでいいと思う。悔しかったら自分の県の農業研究所にはっぱをかければいい。そして県どうしで熾烈な争いをすれば、その競争が日本の農業競争力を高める。
韓国や中国が、日本が開発したイチゴなどの果物、花の改良種のタネを盗んで自国で栽培して儲けているという。そのように植物の種なんていうのは、改良の知的所有権を維持するのが難しい。もともとお米などは中国や韓国経由で日本にやってきたものなのだ。それに対して日本は何ら対価を支払っていない。逆にトウガラシは日本を経由して韓国にひろまったとされているが、元をただせばメキシコ原産である。日本は偉そうにトウガラシの権利を韓国に主張できる立場にはない。
私がもらったお米も実はこのようなお米である。某県(名は伏す)の農業試験所が開発した新種を地元の農家が「自分ちで食べる分だけ」生産したものだ。JA全農などは全国組織であるから地元の顔役農家が新種の種もみを手に入れることなんてことは難しいことではないのである。
ただしルールはルールだ。市場に出して儲けてはならない。私がもらったお米は、いわば公に市場に出すことができない自家用のお米なのである。
市場に出せない自家用のお米は、統計上のコメ生産高にカウントされていない
ところで日本人の一人当たりのコメの消費量が減っているという。減っているのは確かだろうが、実はこの統計上の数字には「からくり」がある。市場に出回っているお米の量を人口で割ったのがコメの消費量である。つまり私がもらったような「自家用のお米」はいくら食べても日本人の消費量にカウントされないのである。
日本ではサラリーマンをやっていたほうが楽に多くのお金が稼げるために農業離れが進んでいる。親の代までは農家だったが息子の代は他人に耕作してもらって自分は専業サラリーマンという「土地持ち非農家」が増えているのだ。この「土地持ち非農家」は自分の田んぼを耕作者に貸して地代の代わりにお米をもらっている。先祖の田んぼが広ければ家族が一年かけても食べきれないほどのお米を地代として受け取っており、彼らは生涯、お米を買うことはない。
彼らはお腹いっぱいお米を食べているが、市場に出回っていないお米であるため、日本人の一人当たりのコメの消費量にはカウントされていないのである。お金が発生しないものは経済行為としてカウントされないからである。
旅行者的ライフハック「お金を節約することは稼ぐことと同じ」
さすらいのバックパッカーである私は、旅行者的ライフハック「お金を節約することは稼ぐことと同じ」を啓蒙しているが、似たような話だと思う。
たくさん稼いで、たくさん買うことが、資本主義の原則で、そのような生き方を私たちは強制されている。
しかし、稼がなくても、買わなければ、貯蓄残高は変わらない。
節約できることは、稼げることと同じなのだ。
買わないことが「ひもじい」と思うから、広告に踊らされ、強制された人と同じ生き方をするしかなくなるのだ。
私がもらった自家用の新種米は、直売所で買うコシヒカリよりもおいしかった。
大枚をはたいて買った経験が最高だなんて、いったい誰が決めたんだ?