SF小説が読めない理由。現実に生きすぎると読書はつまらないものになる

私は『私的世界十大小説』という書籍を出版しているほど読書家なのですが、SF小説はどうにも読めません。別にここでは純文学の人は描写力がゆたかで、SF作家はそうでないと主張するつもりはありません。こっちの頭の問題です。SF作家は自分の頭の中だけにある空想の世界(たとえば火星基地)を一生懸命、描写しているのですが、ちっとも私の頭の中に入ってこないのです。これはなんでかとよく考えてみたのですが、やぱり私が現実に生きすぎているせいだと思います。現実世界に生きるあまり、火星の話しなんてどうでもいいと思ってしまうんですね。だったら自分がデスバレーとかアラスカとかを旅した方が面白いと考えてしまいます。するともう読書するモチベーションがありません。この地球上のことも冒険し終えていないのに、火星基地の空想のことを追いかけて何になるだろうか、と思ってしまうのです。現実家なんですね。そして途中で読むのをあきらめてしまいます。空想の魔法の本である『ハリーポッター』は最後まで読めましたけど。
× × × × × ×

『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え
(本文より)「エンキドゥが死ぬなら、自分もいずれ死ぬのだ」
ギルガメッシュは「死を超えた永遠の命」を探し求めて旅立ちますが、結局、それを見つけることはできませんでした。
「人間は死ぬように作られている」
そんなあたりまえのことを悟って、ギルガメッシュは帰ってくるのです。
しかし私の読書の旅で見つけた答えは、ギルガメッシュとはすこし違うものでした。
なぜ人は死ななければならないのか?
その答えは、個よりも種を優先させるように遺伝子にプログラムされている、というものでした。
子供のために犠牲になる母親の愛のようなものが、なぜ人(私)は死ななければならないのかの答えでした。
エウレーカ! とうとう見つけた。そんな気がしました。わたしはずっと答えが知りたかったのです。
× × × × × ×
小説を読むよりも、自分で体験する方がおもしろい
先日も『デューン』(砂の惑星)という映画の原作になった小説を手に取ってみたのですが、最後まで読み通せませんでした。映画なら最後まで観れたかもしれませんが、小説は無理でした。映像体験ならばこれまでに見たことのない映像を見ることは新経験なので楽しめます。しかし見たこともない場所を活字で追いかけるのは厳しいものです。
私は日本文学はあまり好きではないのですが、それはもう現実だけでおなかいっぱいだからだと自己分析しています。なにも日本の文学で不倫や破産や病気の物語を読まなくても、そんなものいくらでも自分の身の回りに転がっています。なんなら小説読むよりも自分で体験した方が面白いですよ。現実に生きる、とはそういうことです。
× × × × × ×

(本文より)
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
× × × × × ×
未知の外国文学は、一種のSF小説として読むことができる
逆に日本文学のいいところは描写をほとんど読み飛ばせるということではないでしょうか。たとえば清水寺とか南禅寺とか舞台を書いてくれれば詳細な描写なんて読み飛ばしても、情景を頭に思い浮かべることができます。
日本社会に飽きたら、世界の文学があります。たとえばフランス文学やロシア文学があります。パリの描写や、イスラム教世界の描写を読めば、異世界にどっぷりとひたれます。外国文学は、空想小説ではありませんが、一種のSF小説として読むことができます。古代アラビアのゾロアスター教のことを書いた文学を読んだら、それはどこかの惑星のことを書いたSF小説を読んでいるのと同じではないでしょうか。
現実社会に生きすぎると、俳優志望もむずかしくなる
たとえば私は映画やドラマの俳優になりたいと思ったことがありません。それはSF小説が読めないのと同じ根っこの理由だと思います。現実に生きすぎているから空想の世界で生きようと思わないからです。誰かの空想の「つくりものの世界」で、弾の出ないオモチャの拳銃の引き金をひいてピンチのふりをすることに何の意味があるだろうか、と思ってしまうのです。こういうのを現実に生きすぎているというんでしょうね。今では映画俳優として有名になれば、億万長者にもなれるし、影響力を駆使して現実社会で自己実現できるなどのフィードバックがあるのだなあ、とメリットを理解していますが、子供のころの夢にするのは無理でした。
普通の人は限られた一つの選択肢しか生きられないのに、映画俳優はいくつもの人生を疑似的に生きることができるのだなあ(豊かだなあ)、と今ではメリットを理解できるようになりました。俳優志望の人は、そこまで思い描けていたら、もうすでに人生の達人ですね。
読書は暇人のもの。忙しい人に読書は向いていない
子供のころから、そして今も、私はSF小説が読めません。設定が現実離れしていればいるほど読めません。しかも設定がこみいっていればいるほど、読む気をなくしてしまいます。その理由を自己分析してみました。
別に非日常が嫌いなわけではありません。旧石器時代の人の話とか、今でも狩猟採集生活をしている民族の話とか、アラスカのツンドラで氷点下で生きる人の暮らしとか、いくらでも異世界にはひたれます。
『氷点下で生きるということ』(LIFE BELOW ZERO°)の魅力、内容、評価、感想、ツッコミとやらせ疑惑
やはり完全に存在しないことがはっきりしているSF空想世界(たとえば火星基地の話し)を読む気にはどうしてもなれないのです。
そこまで暇じゃないんでね。
忙しい人に読書は向いていないのです。読書は暇人のものなのです。

