ドラクエ的な人生

受験勉強とスポーツ部活動とどっちが大切か。どちらが人生にいい影響を及ぼすか?

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受験勉強とスポーツ部活動とどっちが大切なんだろうか?

「受験勉強とスポーツ部活動とどっちが大切なんだろうか?」

と、昔の友だちと飲んでいてふと思いました。

一生懸命、受験勉強に取り組んでいた人もいます。スポーツ部活動に取り組んでいた人もいます。

果たしてどっちに熱中した方が人生を豊かにするのか、考えてみました。

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受験勉強はどれほど人生の役に立つのか?

私は早稲田大学の出です。どちらかといえば成績上位者の方でした。クラスで一番、予備校で一番、そのぐらいのことはあたりまえでした。受験勉強にもまじめに取り組んだ方だと思います。

その受験勉強がどれほど人生の役にたったかというと……よくわかりませんね。直接的にはまったく役に立っていないといっても過言ではありません。もっとも取り組んだのが数学と英語だったのですが……数学は何の役にも立っていないし、英語も平均的な人よりは使えるかもしれませんが、しょせんは実用レベルには達していません。

日本語と韓国語。英語とフランス語。どっちが近い言語か? 似てるのはどっちか。

何よりも……受験勉強には害が大きすぎるように思います。受験勉強は孤独で個人的な仕事であるために、影響されすぎると、内向的になり、人と人とを分断します。人間関係がうまく処理できなくなります。青春時代にそういう経験をして、その結果(合格)が人に褒められたりすると、その影響は生涯に及ぶ可能性があります。

私の場合も、人間関係(とくに異性関係)がうまく処理できない症候群に陥りました。人格形成期に友達と遊ぶよりも参考書に取り組んだのですから当然といえば当然です。

そしてそれすらも受験勉強のやり方で克服しました。基本ドリルからはじめて、徐々に難しい問題に一歩一歩取り組んでいくという受験勉強のやり方です。具体的に言うとレベルの高すぎる憧れの人にアタックするよりも、適当なレベルの女性とつきあうことで経験値をあげていく、というドラクエスタイルです。

このスタイルだと、自分のレベルが上がると目の前の相手とは別れることになります。だってはじめは日本大学で満足していたけれど、慶應義塾に合格できるならそっちに行きたいじゃないですか。それと同じです。

このように受験勉強スタイルは人道的にどうなのかな? という問題が残ります。自分のことしか考えなくなるかもしれないよ、という意味です。

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スポーツ部活動はどれほど人生の役に立つのか?

成長期に運動することで体が大きくなり、異性にモテるようになれば、それは人生に圧倒的に貢献してくれるだろうな、とは思います。

勉強ができるよりも、異性にモテる方が、よっぽど人生を幸せにする

ただ、スポーツをすれば全員が異性にモテるわけではありません。自分の中の可能性を極大化できるとは思いますが、それまでのことです。顔がいいのは本人の努力よりも遺伝の要素が大きいので。

私は大人になってから、血の小便を流すほどマラソンに取り組んだので、スポーツ部活動が人の精神に及ぼす影響についてはよく知っています。「いくらやってもかなわないやつがいる」ということを目の前にまざまざとスポーツは見せてくれます。そしてそれを爽やかに受け入れることができました。

たとえば芸術活動で考えてみましょう。芸術は甲乙つけがたいものがあります。だってシャガールの絵よりもピカソの絵の方が高く値がつくからってどうしてピカソの方がすぐれていると言えるでしょうか?

たとえば文学賞に落選しても、それが本当の「負け」とは限りません。太宰治が芥川賞をとれなかったのは有名な話しですし、ハリー・ポッターの作者が出版社に断られ続けたということも伝説となっています。

でもスポーツ部活動は「負けは負けだ」とはっきりと、まざまざと見せつけてくれます。たとえば私はマラソンで多くの人から凄いなあと言われることが多いのですが、それでも自分のレベルでいくらでも負けています。上には上がいるのです。そのことを自分がいちばんよく知っています。それは真剣にスポーツに取り組んだからでしょう。

それでも、トップを獲れなくても走り続けてきました。それは今も。自分なりのベストを尽くすというスピリッツは受験勉強ではなくスポーツが教えてくれました。

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※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。

「コーチのひとことで私のランニングは劇的に進化しました」エリートランナーがこう言っているのを聞くことがあります。市民ランナーはこのような奇跡を体験することはできないのでしょうか?
いいえ。できます。そのために書かれた本が本書『市民ランナーという走り方』。ランニングフォームをつくるための脳内イメージワードによって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。「言葉の力によって速くなる」という本書の新理論によって、あなたのランニングを進化させ、現状を打破し、自己ベスト更新、そして市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●言葉の力で速くなる「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」
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腹圧をかける走法。呼吸の限界がスピードの限界。背の低い、太った人のように走る。
マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
本書を読めば、言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く走ることができるようになります。
あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
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どんなレースに出ても自分よりも速くて強いランナーがいます。それが市民ランナーの現実です。勝てないのになお走るのはなぜでしょうか? どうせいつか死んでしまうからといって、今すぐに生きることを諦めるわけにはいきません。未完成で勝負して、未完成で引退して、未完成のまま死んでいくのが人生ではありませんか? あなたはどうして走るのですか?
星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。

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世の中というのは、結局は団体競技なのだ

個人競技のマラソンですらこのとおりです。これが野球やサッカーのような団体競技だった場合、それが魂に刻む刻印はとてつもなく大きな人生の財産になることでしょう。ラグビーのようなボールを仲間に繋がなければ試合に勝てないような競技から出てきた人は、会社組織でもそのように戦うでしょう。個人の力ではどうにもならない局面を知っている人は、社会に向いています。

世の中というのは、結局は団体競技ですから。

受験勉強派は過去の成功体験から、個人の力でどうにかしようとしてしまうのではないでしょうか。みんなの力を結集してどうにかしようというのはスポーツ部活動派の発想です。

ときどき「麻雀学部出身」とか冗談をいう人がいますが、なかば本心なのでしょう。森喜朗元総理は「早稲田大学ラグビー学部の出身」だそうですが、本心なのだと思います。すくなくとも商学部で学んだことよりもラグビー部から得たことのほうがはるかに大きいのでしょう。

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【トウガラシ実存主義】世の中から求められていることよりも、自分のやりたいことをやるべきだ

でも本当のところはよくわかりません。とくに他人のことは。唯一いえることは、私にとっては受験勉強とスポーツ部活動と、どちらが人生にいい影響を及ぼしたかだけだと思います。

こうしてブログを書いて著作、意見を世に問うことができる知性は、受験勉強(とくに数学)が培ってくれた力なのかもしれません。そう考えれば、受験勉強も無駄ではなかったかな。

でも私とっては、ブログを書くことよりも走ることの方が重要です。それが自己満足に過ぎなかったとしても。人間はしょせんは動物です。体を動かしてこその快楽だと思っています。

いい趣味とは「生きていくこと」に直結しているものだ

だからこの稿では、スポーツ部活動に熱中した方が、受験勉強に熱中するよりも人生にいい影響を及ぼす、というのをいちおうの結論とさせていただきます。

しかし、やっぱり人によるでしょう。やりたいほうをやればいいのです。やりたいことをやらないことが、一番よくないことです。

「世の中から求められているから不本意ながらそれをやる」ではなく「世の中が求めているのはそっちじゃないけど自分がやりたいからそれをやる」という態度が大切です。

種のために個を犠牲にする「死の哲学」ではなく、種よりも個を大切にするトウガラシ実存主義です。

人類最大の疑問「どうして人は死ぬのか」「なぜ私は死ななければならないのか」の答えとは

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旅人が気に入った場所を「第二の故郷のような気がする」と言ったりしますが、私にとってそれは韓国ソウルです。帰国子女として人格形成期をソウルで過ごした私は、自分を運命づけた数々の出来事と韓国ソウルを切り離して考えることができません。無関係になれないのならば、いっそ真正面から取り組んでやれ、と思ったのが本書を出版する動機です。私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。

【本書の内容】
●ソウル日本人学校の学力レベルと卒業生の進路。韓国語習得
●関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件
●僕は在日韓国人です。ナヌン・キョッポニダ。生涯忘れられない言葉
●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●韓国人が日本を邪魔だと思うのは地政学上、ある程度やむをえないと理解してあげる
●日本海も東海もダメ。あたりさわりのない海の名前を提案すればいいじゃないか
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●もしも韓国に妹がいるならオッパと呼んでほしい
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●「トウガラシ実存主義」国籍にとらわれず、人間の歌を歌え

韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。

「近くて遠い国」ではなく「近くて近い国」韓国ソウルを、ソウル日本人学校出身の帰国子女が語り尽くします。

帰国子女は、第二の故郷に対してどのような心の決着をつけたのでしょうか。最後にどんな人生観にたどり着いたのでしょうか。

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