ドラクエ的な人生

スタインベック『怒りの葡萄』車中泊の元祖。車中泊文学の代表的傑作

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車中泊の先達スタインベック『チャーリーとの旅』

作者はジョン・スタインベック。生没年1902-1968.

わたしがスタインベックの本を読んだのは『チャーリーとの旅』がはじめてでした。チャーリーというのはイヌ。飼い犬のワンコと車中泊しながらアメリカを旅するという軽いエッセイでした。

その軽いエッセイストがまともに書いたノーベル文学賞受賞作品『怒りの葡萄』。あまりにも重厚な内容で、チャーリーとの旅とあまりにも違って、面食らってしまいました。

アメリカが貧しく、混迷の時代です。1939年に初版が出ています。

1962年に書かれた「チャーリーとの旅」で書かれた軽い車中泊とはシリアス度がぜんぜん違う作品です。同じ作者が書いたものとは思えないほど。

「チャーリーとの旅」とのあまりの違いに、歴史小説、時代小説のように昔のことを書いたのかと思ったら、スタインベックが自分の時代(同時代)を舞台に描いた作品でした。

『怒りの葡萄』で描かれる小作農家の終焉と、職を求めての西へのさすらいは1930年代末に本当にあった出来事だそうです。ここでは仮に上梓の一年前の1938年のお話しだと仮定しましょう。まさにスタインベックが生きていた時代です。時代小説のように昔のことを書いた作品じゃなかったのか!

『怒りの葡萄』を読めば、世界一の経済大国アメリカも昔は貧しかったんだなあということがわかります。

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作品の時代背景。実際にあった出来事を描いた作品

1938年は戦前(第二次世界大戦1939-1945)の話しです。貧しいといっても、農家が車を所有しているだけでも日本よりはリッチだと言えるかもしれません。

アメリカは第一次世界大戦(1914-1918)で戦争被害に遭わず武器輸出で儲けて好景気で世界経済の覇者になったといいます。世界の基軸通貨がポンドからドルになりました。ニューヨークにエンパイアステートビルディングが建設されたのが1931年です。

おっと、でも世界恐慌とされるのが1929に始まっています。世界恐慌は1939年のドイツのヒトラーによる第二次世界大戦につながっていますから状況は複雑です。

『怒りの葡萄』の舞台である1938年(仮)というのは、大恐慌の渦に巻き込まれた人々が右往左往した時代の転換期であり、混迷の時代だったということでしょう。

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ロードムービーの元祖。車中泊の先達

『怒りの葡萄』は車中泊の作品として読むことができます。このタイプの作品は珍しいんじゃないかな。

ロードムービーの元祖とも言えます。映画にもなっています。1940年公開。小説初版のあとすぐに映画化されたのですね。オスカー賞(アカデミー監督賞)をとっています。

ロードムービー「イージー・ライダー」が1969年の公開ですから、大先輩ですね。

ヒッピー・バイク映画の最高傑作『イージー・ライダー』ワイルドにトリップする映画

オクラホマの農地を銀行資本に奪われたジュード一家は、改造車に乗り込んでルート66を西へ西へと旅します。カリフォルニアに行けば仕事があると信じて。

基本は車のそばでテント野営です。ときにはキャンプ場、貨物車などのハードシェルにも泊まっています。そして車中泊。スタインベックは車中泊の大先輩の作家なんだなあと思いました。

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『怒りの葡萄』の書評、内容、評価

殺人犯トム・ジュードが家族のもとに帰ってきます。家族は銀行資本に農地を奪われていました。カリフォルニアに行けば日雇い農夫の摘み取りの仕事があると知り、一家はルート66でアメリカ横断します。旅の中で家族の何人かが、生まれ故郷を失った絶望の中で死んでいきます。ようやく着いたカリフォルニアでは労働者は低賃金で奴隷のように扱われていました。操作された買い手市場にトムは憤慨します。ストライキを計画する友人は殺されてしまいます。

「どうでもいい。罪なんかないし、善もない。人間のいとなみがあるだけだ。

「じいちゃんが地面を分捕り、先住民を殺して追い払わなきゃならなかった。」

「わたしらじゃなくて銀行がやることなんだ。でかい怪物なんだよ。人間がこしらえたんだが、もう制御できなくなっている。」

おれたちの地面なんだ。ここで生まれて、働いて、死んでいったから、おれたちの地面になったんだ。紙切れじゃなく、それが所有権になる。」

大地に生きる人々を本作では描いています。車中泊の作家としては狩猟採集民族のような移動、放浪を生き方の中心に据えているのかと思ったら、本作では定住、農耕民族を生き方の中心に考えています。これは意外なことでした。

「地面はひとそのもので、それを持っていると、ひとはいろいろなことで大きくなれる。地面はひとそのもので、ひとよりも大きい。ひとは小さい。」

「鉄の緩衝器が家の壁を崩し、基礎からこじって、横倒しにし、虫を潰すみたいに潰した。」

「あの子が悪いことをやったのは、恨みからだった。痛めつけられ、害獣を撃つみたいに狙い撃ち、狩るみたいに追った。恐ろしさで牙を鳴らしてうなった。恨みそのものになった。生きた恐ろしい恨みの塊になったんだよ。あんたもひどく痛めつけられたんじゃないのかい?」

イジメられ、虐げられると性格が歪む、という理屈ですね。

「笑ったり、踊ったりはしない。歌ったり、ギターを弾いたりはしない。しょっぱなから始めることはできない。はじめからやれるのは赤ん坊だけだ。なぜって、おれたちは昔からのものなんだ。この地面、赤い地面がおれたちなんだ。おれたちはうらみつらみだ。恨みつらみの軍隊が同じ方向へ行軍するだろう。そこから死の脅威がほとばしる。」

「取り越し苦労はやめな。(刑務所を)出るときのことを考えちゃいけない。頭がおかしくなる。土曜日にやる野球の試合のことだけを考えるんだ。」

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食欲の小説。飢えがテーマ。ガツガツ食べる健啖な胃袋の描写がとても多い。

「先のことなんかわかりゃしないけど、いざとなったら、ひとつの暮らししかないんだよ。道がただ通り過ぎてくだけさ。あとどれぐらいしたらみんなが豚の骨を食べたくなるかって、そういうことだけなんだよ。

「それなら親類縁者と一緒に飢え死にできる。おれたちを嫌っているやつらの前で飢え死にすることはない。

餓え、というのが『怒りの葡萄』のテーマのひとつです。その反面として、ガツガツ食べる健啖な描写がとても多いのでした。

そいつらの顔を見れば、どれだけ嫌われてるかわかる。怖いからなんだ。飢えた人間は、たとえ盗んでも食いものを手に入れる。それがわかっているからだ。だれかに奪われるんじゃないかって、やつらは心配してるんだ。みたこともないぐらい美しいところなのに、住んでるやつらはあんたらにやさしくない。やさしくできないんだ。」

そしてこの「飢餓」は物語の大団円へとつながります。「ローマの慈愛」的なエンディングへと。

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原作は労働運動、共産主義的な作品

「旅するのは、そうせざるをえんからだ。いまよりもましになりたいから、渡り、流れる。あれがほしい、あれがなくてはならない、だったら出てって手に入れるしかない。」

「息子に父親を埋める資格がある時代だった。法律にしたがえないこともある。ひとの道がかかわっているようなときは、ことにそうだ。法律は変わる。だが「やらなきゃならない」はいつだっておなじだ。

映画とは違って、原作は労働運動的、共産主義的なアカっぽい作品です。映画では政治色を取り除いて「大地とともに生きる農民」が強調されていますが、原作小説は「労働者よ、団結せよ」ということが描かれます。

人類史上最大のベストセラー『聖書』。二番目の『共産党宣言』

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人間の虚飾を取り払った原初の姿を描くのが小説の役割のひとつ

「じいちゃんとふるさとは同じものなんだ。あんたらは新しい暮らしができるが、じいちゃんの暮らしは終わった。じいちゃんは今夜死んだんじゃない。あんたらが家から連れ出したとたんに死んだんだ。

カリフォルニアに向かう途中で祖父は死んでしまいました。故郷を離れたくないといっていたのに、無理やり車に乗せたのでした。

「あたしたちが稼ぐお金なんか何の役にも立ちゃしないよ。家族がバラバラになっちまうだけだ。家族がバラバラになるっていうんなら、あたしはこの鉄棒を振り回して暴れてやる。」

ルート66車中泊の中で、お父の権威は下がり、お母の権威が上がります。すがるものをお父はなくし、お母はなくしていないからです。

「ひとかどの男になりたくてたまらない。だけど誰も殴り掛かってこない時にガードを固めるのはやめろ。」

「人手を集めて賃金をピンハネするんだ。腹をすかした奴が多ければ多いほど、払う賃金をすくなくできる。

「手助けを断るか受け入れるか、手助けを申し出るか拒むかは、どちらも許される。求愛するのも、やってよいことだった。飢えているものは食べ物をもらうことが許される。寝静まった後に騒ぐことはやってはならない。誘惑や強姦、不義密通、泥棒、殺人、そういった悪逆なものは叩き潰された。ゆるされたら小さな社会はたとえ一晩でもなりたたない。掟になった。飲み水を汚すのは掟に反する。掟には罰が伴っていた。ケンカを手っ取り早く始めるか、仲間外れにする。仲間はずれにされたら、どの社会にも居場所がなかった。今夜はこの女、次の夜はあの女というように渡り歩くことはできない。それはこの社会をおびやかすからだ。」

ちいさなムラ。社会のルールの萌芽です。日本人でもアメリカ人でも同じようなルールが原初的なんだなあ、と思いました。国籍によって人を色分けする考え方がありますが、たくさんの本を読んで私はそうは考えなくなりました。

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映画版のオチは、小説版のエンディングとは違う

「ひとりが何もかも知るわけないんだ。言えるのは、ほとんどが惨めな暮らしをしているってことだけだ。」

「そのうちに死ぬのはみんなが死ぬうちのひとかけらになり、耐えるのはみんなが耐えるうちのひとかけらになり、耐えるのも死ぬのも、おなじ大きなことのふたかけらになる。痛みもそんなにひどくなくなる。独りぼっちの痛みじゃないからね。」

お母はそういいます。しかしトムはおさまりませんでした。怒ります。

どうでしょうか。この人類生命体みたいな考え方。ひとりひとりは人類生命体のひとつの細胞だとでもいわんばかりです。わたしはこの考え方は受け入れがたいものを感じます。むしろ全宇宙にたった一人、一回きりの運命を背負って生きているという考え方のほうがずっと腑に落ちます。

文学の頂点。ユダヤ人強制収容所の記録『夜と霧』

「男っていうのは、頭に来ることがあるもんだよ。」

「トムはひとの指図は受けないんだ。」

「南へ行く。あいつらのいいなりにはならない。」

「やつらはおれたちを骨抜きにしようとしてるんだ。這いつくばらせようとしているんだ。おまわりをぶん殴らないと、男の顔が立たないときが、ぜったいに来る。やつらは、俺たちの体面をつぶそうとしているんだ。

「罪を犯したと思ったら犯したことになるんだ。喋ったら気が楽になるかもしれんが罪をばらまくだけだ。

「そんなふうにはならないって約束したじゃないか。」

「ほんとうに生きている民はあたしたちなんだ。あたしたちを根絶やしにすることなんかできない。あたしたちが民なんだから。ああいうやつら(金持ちの資本家)がみんな滅びても、生き続けるのはあたしたちなんだから。」

映画『怒りの葡萄』のラストシーンで使われるオチは、このお母の言葉でした。しかし原作小説はさらに先に進みます。深化します。

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おれはそこにいる。それがおれのゆく道になる。おれはどこにでもいる。

「罪ってどんなのなのか、ぜんぶ知りたい。犯してみたいもん。」

「(用水路に人を投げ込んで、まるで洗礼のように)おれたちは救われた。洗われて、雪みたいに真っ白になった。二度と罪は犯さない。」

「おれは25セントで働いている。あんたが20セントで受けておれの仕事を奪う。次はおれが15セントで引き受けて仕事を取り戻す。(こうして労働者の賃金はどんどん下がっていく)一日十二時間働いて、ガキにろくなものを食わせてやれない。」

労働者が団結してストライキをやらないかぎり、飢え死にするギリギリまで賃金は下がっていくという理屈です。最低賃金なんてものはない時代でした。

「価格が高止まりするように、オレンジを地べたに捨てる。拾わせるわけにはいかない。拾うことができたら、一ダース二十セントで買うわけがない。人々が餓えている前で灯油をまいた。食べ物を腐らせなければならない。」

「(食べ物を川に捨てる)流れて行ってやつらに言うんだ。腐り、そうやってやつらに語るがいい。さあ、流れていけ。巷に横たわれ。そうすれば、やつらも悟るかもしれない。」

餓えた人々の前で、価格を維持するために食べ物が捨てられていきます。

「おまわりはもめ事をとめるんじゃなくて、もめ事をふやすんだ。」

「もう一度さわらせて。たとえ覚えているのが指でもいいから、覚えていたいんだ。」

母と息子の暗がりでの別れのシーンです。エロい描写ではありません(笑)。

「自分だけのたましいなんてものはない。大きな魂の小さなかけらである自分は、ひとと一緒でなければ役に立たない。一緒にいることで全きものになる。」

「殺されたとしても、とるに足らないことじゃないか。ケイシーがいったように、ひとりのたましいは自分のものじゃなくて、大きなたましいのかけらなのだとしたら。それなら、おれは闇のどこにでもいる。おれはどこにでもいる。お母が見るどこにでも。みんなが戦うとき、おれはそこにいる。怒れる人々が叫ぶなら、それがおれのゆく道になる。俺たちの仲間が育てた作物を食べて自分たちが建てた家に住んでいるとき……もちろん、おれはそこにいる。」

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『ローマの慈愛』を彷彿とさせる小説版の見事なエンディング

餓えに苦しんでいるのはトム・ジュード一家だけではありませんでした。みんな同じように苦しんでいました。不幸と栄養不足で死産したトムの妹は、見も知らない飢えた男に乳から母乳を飲ませます。

「口を結んで、謎をかけるようにほほえんだ。」

小説『怒りの葡萄』はこう結びます。

映画とは違うエンディングです。

餓えた男に乳首からじかに母乳を飲ませるシーンが脳裏に残ります。映画にするには自主規制があったでしょう。なにせ1940年の白黒映画ですからね。乳首なんて出せたはずがありません。

『ローマの慈愛』という絵画のモチーフがあります。巨匠ルーベンスなどがこのモチーフで作品をものしています。餓死刑に処された父親を救うために、娘が自分のおっぱいから直接母乳を飲ませるという作品です。母乳の栄養はすごいものがあります。そしてエロティックでもあります。エロチックでありながら、女性の偉大さ、人間のすばらしさを感じさせるシーンですね。父母を敬う以上の何かが伝わってきます。

スタインベックは『怒りの葡萄』という物語のラストに現代アメリカの「ローマの慈愛」を持ってきました。

強烈な読後感でした。さすがノーベル文学賞という作品でした。

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