The Power of Now.さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる
21世紀最高のスピリチュアル・リーダーとされるエックハルト・トール著「The Power of Now」。日本語版は「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」。現代のほうがいいタイトルだと思うのは、私が英語圏に慣れ親しんできたからかな。
「今、ここ」に意識を集中して、過去のトラウマや、未来の不安を消し去る方法を提示している本です。「マインドフルネス」はここから始まったとも言われています。
マインドフルネス瞑想の方法論。呼吸に集中する
とくにマインドフルネス瞑想は、座りながら、呼吸に全意識を集中して、今を生きていることを実感しようとするものです。呼吸しているのは今なので、呼吸に全集中すれば、過去や未来に思考が飛ぶことはありません。
そうすることによって「考えていること」と「あなた自身」は別のものだということを知ることができます。すると、ありもしない苦悩というものから解き放たれることができるのです。今を生きれば、幻想の苦悩に悩まされることはありません。
これがマインドフルネスですが、方法論としては「呼吸に集中する」「感覚に集中する」というだけです。人の感覚も呼吸同様に現在のものです。過去の肌感覚とか、未来の香りなんてものはありません。だから肉体に集中すれば、マインドフルネスでいられる、というのが、解き放たれるために方法論です。和訳・邦題の言葉を使うなら、さとりをひらくための方法論であるわけです。
肺の限界が、走力の限界。マラソンランナーはマインドフルネス
ところでこの「呼吸に意識を集中する」ですが、職業的にこれをやっている人たちがいます。それはマラソンランナーです。
わたしは市民ランナーですが、エックハルト・トールに教えられるずっと前から、走っているときには呼吸に集中していました。だってそうしないと苦しくて足が止まってしまうんですから、この欲求は切実です。
人によって違うとは思いますが、マラソン競技では、自分の最も弱いところが限界値を決めます。ふくらはぎが弱ければ、大腿四頭筋がいくら強くても、ふくらはぎの実力以上のタイムを出すことはできません。
私にとってもっとも先に苦しくなるのは呼吸でした。肺の換気能力が走力の限界を決めていました。腹も脚もまだ行けると言っているのに、肺が「もうだめだ」というので、それ以上には走れなかったのです。つまり私にとってマラソンを管理するということは、自分の呼吸を管理することであったのです。とくに本気でマラソンを走る時(勝負レースの時)には、呼吸のことだけに全神経を集中していました。そのとき私はマインドフルネス状態でした。今を生きていた、と言えるでしょう。
わたしの肉体主義。肉体宣言。
私は肉体主義、肉体宣言をしています。肉体をつかって楽しむ以上のものを、この人生に見つけることはできなかった、と宣言しています。私はもう地球一周以上の距離を走り続けてきましたが、走りながらじっさいに世界を見たわけではありません。走りながら常に見ていたのは「自分の心の内側」でした。
私はこの人生に「体をつかうこと」以上の生きる歓びを見つけることができませんでした。身体をつかわずに、自分の限界を知ることも、その限界を押し広げることも、難しい。他人と競り合う時の燃える気持ちも、負けて悔しい思いをすることも、自分の体の内側に燃える炎を感じることも、全能感に満たされることも、すべてはこの体を使うことで手に入れることができた感情です。身体をつかうことが、人生の基本であり、究極の快楽なのではないでしょうか。生きがいというのは大空を鳥が舞うようなものです。遙かなる海をクジラが泳ぐようなものです。この世界を、神からさずかった肉体で駆けめぐることこそが生きがいです。脳の新しい領域である大脳新皮質を使った高度な文化的作業よりも、脳の太古の領域である大脳辺縁系に由来した肉体的な行為の方がだんぜん生きている実感が大きいと私は思っています。たとえば楽器を奏でることよりも、空腹時に美味しいものを食べることの方が、つまり原始的な欲求の方が圧倒的に強いと実感しています。長く走り続けてきた中で、それを知りました。
そして毎日をエブリデイクリスマスのように過ごすためには、走ることが重要なのだと説いています。それが「走るために生まれた」という本ブログの最終ページになりました。
【肉体宣言】走るために生まれた(ブログ・ドラクエ的な人生の最終ページ)
肉体宣言は、マインドフルネスの先駆けだった
私のこの肉体宣言は、マインドフルネスの先駆けだったと思います。過去の亡霊である失敗体験の追憶や、マイナス思考、未来の不安思考から逃れるための方法論は、マインドフルネスでは、肉体とくに呼吸に集中することで、過去や未来から、現在に集中することとされています。真に今を生きるとはメンタルではなくフィジカルだ、というのです。
私もまた、言語による学びとか、さとりの境地の教唆とか、宗教の描く死後の世界の法悦とか、そういったものよりも、太古の本能的な肉体の感覚のほうが上だと喝破したのでした。
きっとランニングを日課にしている人は、この本を読む必要はないだろうと思います。なぜならすでに知っているし、すでに実践していることだから。「いまさら何をこんな当たり前のことをこの人は言うのだろう」そんな感想を持つのではないでしょうか。
走りながら、自分の内側を見つめていました。周囲に気を散らしていたら、足は止まってしまいます。自分の中から42.195km先のゴールまで走り通すだけの何かを見つけて、それをぎゅっとつかんで離さない。それこそが生きている実感であり、自分自身でした。それはインナーボディーにすでにあるもので、思考のように、何かを作り出したわけではありません。
それはつまりは、今風にいえばマインドフルネスだったのでした。私もまた別の場所、別のアプローチで、同じ結論に達していたのです。
マラソンランナーは、今を生きています。マラソンランナーは、誰かに教わらなくても、マインドフルネスなのです。