おじさんが英語の勉強をしたらどうなりますか?
わたしはもうおじさんですが、英語の勉強をしています。若い頃、お受験英語で一度失敗をしているので、今は別のやり方で。
やがてくる世界大放浪に向けて、ここ(机の前)でできることをやろうとすれば、英語力を高めるぐらいしか、やれることはないからです。
お受験英語での失敗。成績上位者でも使いものにならない英語力
若い頃にお受験英語で一度失敗をしているというのは、けっして学生時代の英語の成績が悪かったという意味ではありません。むしろその逆です。私の英語の成績はきわめていいものでした。お受験英語としては上位に位置していたのです。
しかしそんな私ですが、ネイティブイングリッシュスピーカーと流暢に会話ができたかというとそんなことはぜんぜんありませんでした。暗記によって難しい単語は読めたので英語の原書の授業を受けてもついていけるほどでしたが、最盛期でもネイティブと会話するのは無理でした。ハリウッド映画のスターたちが何を喋っているのかさっぱり聞き取れませんでした。成績上位者が使いものにならないというのは日本のお受験英語のやり方が間違っていたことを意味しています。当時は教材(メディア)が紙媒体しかなかったので「英語力=読み書き」となってしまったのでしょう。実際には「英語力=リスニング、スピーキング」だということを私はもう知っています。聞き取れなければ、話せなければ意味がありません。英語なんてコミュニケーションの手段なのに、コミュニケートできないのではいったい何の意味があるでしょうか。
その後、ものかきになろうと思って、わたしは日本語能力に全振りします。ここでいちど英語は捨てました。最大の武器だったのは英単語力でしたが、それがゼロになりました。暗記した英単語はもうほとんどおぼえていません。つまりこれが「お受験英語で失敗している」ってことです。お受験英語のやり方では使いものにならない、ということです。
楽しいのならば学ぼう。つまらないなら勉強するつもりはない。
もうひとつお受験英語には問題がありました。高い偏差値の源泉は、英単語の暗記にこそありました。そのお受験英語学習が楽しかったかというと、けっして楽しくはありませんでした。それでも自分の進路のためにやらざるを得なかったわけですが、大人になって今ふたたび海外大放浪のために英語勉強をしようとするとき、なにも我慢してつまらないことをやるつもりはまったくありません。英語の勉強も「おもしろいと思える範囲内でやろう」ぐらいのスタンスです。英語が喋れなくても世界大放浪はできますし、旅先で出会う大半の人は英語が喋れないことを私はもう知っています。
おもしろい英語の勉強というのは、具体的にはYouTube動画の視聴です。まさかこんな時代が来るとは思ってもいませんでした。これがあるから英語の勉強をしようという気になっているといっても過言ではありません。YouTubeはもちろんアメリカの会社のプラットフォームであり、英語が理解できれば楽しめるコンテンツが倍増どころではありません、世界中で製作されている動画を飛躍的に楽しむことができるようになります。内容がおもしろいと英語で聞いていることなんか忘れたかのように内容が頭に入ってくることもあります。そのぐらいの英語力はすでに身につけています。理解できるかは相手によります。ドナルドトランプの喋っていることは理解できるけど、ジョーバイデンの喋っていることは理解できなかったりします。
英語を身につける究極の方法は、第一言語を英語に切り替えること
英語を身につけよう、という動画もたくさん視聴しています。どうすれば英語が身につくのか、という内容を英語で聞いています。たくさんのそれら動画を視聴して、一つの結論に私はたどり着きました。流暢に英語を理解できるようになる方法、それは英語を英語のままで理解することです。究極的には第一言語を英語に切り替えることです。いちいち脳内で翻訳作業をしていては、ネイティブの流暢な会話についていくことはできません。
英語教育系のYouTuberで、母国語が英語以外の人は、みんなここまでやっています。トランスレート(翻訳)をやめる、ということです。その翻訳作業のゆえにネイティブスピーカーの喋りについていけなくなるのです。英語を英語のままに頭から理解するということはそういうことです。そして第一言語を英語に切り替えるということは、ふだんから英語でものを考えるということでもあります。
ふだん、私たちは母国語でものを考えています。いまこうして私がブログを書いているのも、頭の中で日本語で考えたことを日本語で発表しているわけです。この頭の中でものを感じたり考えたりすることを英語に切り替える、これが「英語を喋れるようになる」ことの究極の姿なのでした。
旅と語学の共通点。無力な子供に戻って人生を追体験することができる
私は旅が趣味です。南米大放浪、世界放浪旅が視野にあるからこそ、英語学習熱が冷めないってところもあります。バスで観光名所に連れていかれるだけのツアー旅行はあまり好きではありません。個人旅行派です。バックパッカー旅の面白さはいろいろありますが、そのうちのひとつに、自分が小学生ぐらいに無力化して人生をもう一度追体験することができることにあります。
かんたんに想像できると思いますが、言葉の通じない外国に行くとバスに乗るのも一苦労です。お金は先払いか? 後払いか? そもそも現金が使えるのか? トークン制かもしれませんし、プリペイドカードが必須かもしれません。それを聞きたくても相手が何を喋っているのかわからなかったらどうしますか? これが小学生に戻るということです。小学生の頃は隣町に出かけるだけでも大冒険でした。外国旅行には、それと同じような、人生をもう一度体験するかのような面白みがあるのです。この感覚は国内旅行ではあじわえません。日本語は通じるし円も通じるしでは無力化しません。警察に被害届を提出することも裁判所に訴えることもできます。でも外国ではそうはいきませんよ。訴えようにも相手に言葉が通じないんですから……。
この人生、本来であればそんなことはできないのですが、リセットボタンを押してもう一度ゲームを楽しむかのようなありえないことが、語学学習や外国旅行だと起こるのです。
英語でものを考えるということ。
ところで英語で考える、というのも外国旅行の楽しみに違いものがあります。自分が無力化してもう一度人生を冒険するような気分になれるからです。
子供向けの童話でも、フル英語で聞くとけっこう楽しめますよ。白雪姫とか、ジャックと豆の木とか、日本語で聞いたらとるにたらない内容でも、英語で聞くとすごく脳が刺激されます。母国語だととるにたらない単語が英語だとわからなかったりするので、内容が霧の中にあるかのようにつかみがたいものとなるからです。わからない部分は想像力で補わなければなりません。
英語を身につける究極の方法である「英語で考える=第一言語化する」ですが、こちらも外国旅行と同じ面白さと、能力制限があります。たとえば私が日本語で「大使館と領事館の違いは何か?」というブログを書こうと思ったとします。仕上げるのは簡単なことです。あっという間に書き上げることができます。でもこれを英語でやろうとすると、機能制限されて無力化した私には無理なのです。大使館は英語でembassyですが、領事館を英語で何というか知りません。それに付随する外交だとか査証だとかの関係語も知りません。つまり英語だとこの問題について深く考えることそのものがそもそも無理になってしまうのです。これをつまり無力化すると先ほどから言ってるわけですが。
言葉は概念であり、アイディアは概念の組み合わせです。言葉がわからないということは、頭の中でその概念を扱えないということであり、その状態では刺激的な何かを考えたりすることはできません。
外国旅行では行動力が無力化、語学学習では思考力が無力化する
いくら英語が喋れるようになりたいからといって、自分がどこへ行きたいか、やりたいことを言語化して、そのための計画や予約を立てる。それらをすべて英語でできますか? たぶんかなりのことができなくなるでしょう。まるで小学生に戻ってしまったかのように、英語で考えるようにしただけで旅のスキルが無力化してしまいます。
英語を喋れるようになりたいとは思いますが、だからといって今のところ、英語で考えるところまで振り切ることがどうしてもできません。だってそれは今と同じレベルで考えられなくなる、今のレベルのことが書けなくなるということですから。
考えることまで英語でやると、こうして書くこともできなくなります。外国旅行では行動力が子供化するだけですが、語学学習では思考力が子供化してしまうのです。英語でものを考えることにした場合には。
旅において無力化した自分を楽しむように、語学においても無力化した自分を楽しむべきでしょうか? リセットしてゲームをもう一度はじめからやりなおすようなつもりで。
英語を習得するために、英語で考えるところまで、このゲームに没頭すべきでしょうか? こういうことはChatGPTに聞いても、すぐれた英語教師に聞いても、答えてはくれません。答えは彼らが持っているからではなく、自分が持っているからです。
私の場合は、このブログを書いている限りは、日本語で考えることはやめられそうにありません。筆を折るまで、あと一年と少しのあいだだけは日本語で考えようと思っています。しかしそのあとは英語で思考する世界に突入するかもしれません。英語というウェーブに思いきって体重を乗せてしまった方が、この波乗りはうまくいくと思うからです。そうしたほうがこれからの人生、楽しめると思うからです。
わたしはかつて日本語に能力を全振りした人間です。英語の視点から見ると、日本語に全振りした前半生は失敗だったように見えますが、日本語で書いた小説や実用書などの著作をものしていますので、それはそれで面白いゲームをプレイしたといえるでしょう。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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もしも英語がいまの日本語ほどに熟達したら……いや、そんな心配は無用にしましょう。スペイン語とかフランス語など、また自分を無力化して人生をリセットする方法はいくらでもあります。しかし三度も人生をリセットできるほど人生は長くはないでしょう。おそらくそこまでは寿命がそこまでもちますまい。
英語は言い換えが面白い。頭の体操になる外国語
たとえばですが「換気」という言葉がダイレクトにいえなくても、I need fresh air.
といえば、換気してほしいことを伝えることができます。
このように直接の単語がわからなくても、言い換えによってこちらの意思を相手に伝えることができたりします。こういうところが外国語の面白いところ、だいご味ですね。頭の体操としても一級品だと思います。
ちなみに換気は英語でベンチレーション。登山で使うテントの換気孔をベンチレーターといいますので、実は知らないと思っていた単語が実は知っていたりします。
先日、共鳴するという英語がresoneteだと知りました。そうです「りそな銀行」のリソナでした。実は知らないと思っていた単語が実は知っていたりします。こういうところが語学学習の醍醐味ですよね。
ボキャブラリー問題。旅の英単語だけ憶える
先日、タイに旅行してきました。バスの中で会話していた日本人の声が聞こえたのですが、彼は英語とタイ語を駆使してタイで稼いでいるんだそうです。「タイ語、簡単だよ」と友達に彼は喋っていたのですが、そんなわけないだろ! と私は内心でツッコミを入れていました。
タイ語の文法がどれだけ簡単だか知りませんが、ものの数だけ単語をおぼえなければならないのは英語も何語も同じはずです。100個の英単語をおぼえなければならないところは、タイ語だって同じなはず。単語力不足問題は何語も同じことです。
また、シャドーイングが重要なのは、口のまわりの筋肉を鍛えるためだといいます。いくら頭で発音を理解していても、ふだん日本語で英語の発音をしないから、カタカナイングリッシュ(サムライアクセント)になってしまうというのです。それはタイ語だって同じじゃありませんか。
こうして語学学習者はボキャブラリーに苦しむことになります。そこで私からの提案なのですが、旅行英語を習得したい場合、旅の英単語だけをおぼえたらいいんじゃないでしょうか? 旅に使う英単語は特集で限定的です。それだとニュースだとか、テッドトークだとか、ポッドキャストだとか聞いても理解できない人になってしまいますが、両方理解できないよりはまだ旅行英語だけは理解できた方がマシでしょう。
また自分が喋った英語が正しいか正しくないかは、文法よりも膨大なリスニングの経験値によって判断できるようになるものです。そのいい例が母国語の日本語です。私たちは外国人の喋る日本語が「なんかおかしいな」というのは文法から判断していません。膨大なリスニングの経験値によって、相手の言葉づかいがなんとなくおかしいなとわかるのです。それは英語も同じでしょう。膨大なリスニングがベースになければ、流暢な外国語話者になることはできません。