中学生はおとなとは違う感受性をもっている
先日、中学生の感受性という話しになりました。おとなの今とは、中学生の頃は違う感受性をもっていたなあ、という話しです。あの頃は今と違って繊細でみずみずしい感受性をしていたなあ……といういい話しではありません。あの頃は未熟でサルのようだったなあ、という話しです。
私が中学生の頃の話しです。中学校には音楽室というのがありました。楽器を鳴らすのでうるさいからでしょう、一般の教室とは離れた場所に音楽室はありました。
その音楽室の前にトイレがありまして、ある日のこと、私はそのトイレの個室に「大の方」をしに行きました。中学時代には、なんだかクラスメイトが喋りながら立小便をしにくる「教室前のトイレ」で大をするのは恥ずかしいと感じたものです。
ところが誰もいないと思って行った音楽室前のトイレに誰かが入っていたのです。先客でした。
その時、私は何を思ったのか、いたずらを思いついてしまいました。トイレ掃除用具からバケツを取り出して水でいっぱいにして、個室トイレの上部にあった隙間からバケツいっぱいの水を中に向けてまき散らしたのです。
中学生という名のサル
「トイレの先を越されたから腹が立った」とかいう正当な理由では全くありません。ただ誰もいないトイレだったので、いたずらしてもバレないだろうと思ったことがひとつ。
そして私がこっそり大をしようと思ったように、先客もこっそり大をしたかったに違いありません。だから水をぶっかけても「こっそり用をたしている恥ずかしさ」から大声を出したりしないと思ったからです。
言葉で理屈をつければそういうことでしょうが、じっさいのところは「中学生という名のサルだったから」というところでしょう。
おとなになった今ではわけのわからない理由で、意味不明なことをしてしまうのが中学生の感受性、中学生のいたずらです。
案の定、トイレの中から悲鳴が上がることはありませんでした。
私はバケツを片付けてダッシュでその場から逃げました。そして階段のある物陰から誰がトイレから出てくるか、こっそり廊下を見ていました。
しばらくして怖~い体育教師が水びたしになってトイレから出てきた(笑)。
学生と思っていたので、まさかおっかない体育教師がこっそり用をたしているとは思わず、あわてて逃走した次第です。
「おとなの感受性」で理解しようとしても無理
このように中学生というサルには、人の心を思いやるとか、誰かの迷惑だとか、考えるだけの知性や感受性はなかったりします。
ときどき中学生が事件を起こして、大人たちがどうしてこんなことを中学生がしてしまったのか「おとなの感受性」で論じようとしているのをテレビで見ることがあります。
しかし中学生のやることなんてサルのやることとほとんど同じなんですから、おとなの感受性で理解しようたって理解できることとできないことがあると思うのです。
「おとなの感受性」で理解しようとしても無理だと、自分の体験に照らして思うのです。
ビショビショになってトイレから出てきた体育教師の姿が今も忘れられません。落ち着いてウンコしたかっただろうに、中学生という名のサルが邪魔して申し訳なかったと「おとなの感受性」は思うのでした。