執筆も苦しかったが、推敲も苦しい。なぜ苦しいのか、なぜもう小説を執筆しないのか?

嫁の退職まで半年となり、必然的に私の執筆生活もあと半年になった。その後、我らはパソコンの前を離れて放浪の旅に出る予定だ。執筆業もそこまでである。
この6年間で6冊の書物を上梓することができた。小説を一冊、哲学書を一冊、実用書を二冊、評論が一冊、随筆が一冊である。恋愛小説、旅の哲学、マラソンの本、ロードバイクの本、読書評論、そして韓国ソウルの随筆である。上梓した内容は多岐にわたっている。
今はその最終推敲をしている。もちろんこれまでも推敲したうえで上梓しているのだが、やっぱりデジタルで見たものと紙で見るものとでは全然違う。今はすべての書籍をペーパーバックで発行しているので、紙にうちだした成果品そのものをチェックしている段階である。
六冊の成果品の中でも、とくに小説は、執筆も苦しかったが、推敲も苦しい。なぜ苦しいのか、あるいはなぜ私はもう小説を執筆しないのかについて、ここには書いておこうと思う。
小説中の、状況はフィクションであるが、感情は本物なのだ
上梓した小説を推敲していて、昔のことを思い出した。もちろん小説であるからフィクションなのであるが、すくなくともその中で語られている感情には魂を込めたつもりである。つまり状況はフィクションであるが、感情は本物なのだ。
その本物の感情が、私の推敲を疲労させるのだ。魂がもっていかれる思いがする。ここらへんの気持ちのことは、実は小説本編の中で登場人物にも語らせている。
『海の向こうから吹いてくる風』(本文より)
「なあ悠士、書くってことは自分の中の感情を呼び覚ましてしまうってことでもあるんだよ。おまえならわかるだろう」美樹本は悠士に語った。「創作するっていうのは、ときに危険なことなんだ。せっかく忘れていられた感情を書くためにむりやり呼び覚ますことで、安定していられた心をわざわざ葛藤の渦に放り込むことにもなりかねない。そしてそのことが時に実生活や対人関係をおかしくしてしまうことがあるんだよ。今度のシナリオの設定はおれには辛いんだ」
美樹本が言わんとしていることは何となくわかった。演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。
ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに戻って掻き乱されてしまうことがあるのだ。たとえば演技のために思い出した愛犬をなくした当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあったりする。悠士のようなキャリアでさえもそのようなことが過去に何度か起こったのだ。役者のメソッドと同じことが作家の身に起こったとしても何ら不思議なことではないだろう。
→まさに作中キャラクターの美樹本が語ったのと同じことが、作者の私にも起こっているというわけだ。推敲しているだけで辛いし、それが私がもう小説を書かない最大の理由である。当時の感情が呼び覚まされて、今の現実が影響されてしまうからだ。
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(本文より)
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
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全知全能の作家は、現実にガッカリすることが多い。

作家はときに神の視点に立つこともある。作家は作品においては全知全能の神である。
小説を執筆するような人は、構成を考える人だ。たとえば映画などを見ていても、こういう対立をさせて、こういう解決方法で、こういうまとめ方をすれば、オチが決まるなあ、ということを瞬時に考える。
たとえば、ドラマを見ていても、自分だったらこういう感動的なセリフを言わせるなあ、とか瞬時に思いついてしまうのが、作家という生き物なのである。
そしてその癖は、ときに実際の人間関係においても止まなかったりする。たとえば、つまらないことしか言えない相手にがっかりしたりするのだ。ここでこういうことを言ったら場が劇的に盛り上がるのに……なんてことを心のどこかで考えてしまう。
そして自分の思い描いた物語・構成を完遂するために、他人を支配したがる。現実社会において他人は支配できず、成り行きをコントロールすることもできない。しかし作家は、構成を考える生き物なので、ドラマをつまらない方向に持っていこうとする人物を許すことができない。そのミスキャストこそが現実なのだが、作家はミスキャストを排除したくなる。
つまり作家をやっていると、現実社会との折り合いが悪くなるのだ。完全に架空の物語を書ける作家はそうでもないのかもしれないが、魂を込める系の作家は、作品に現実が悪影響を受けることがある。
私の場合、それが顕著だった。それが嫌で、私はもう小説を書かないのである。
芸術をつくるのではなく、芸術のように生きる。過去ではなく、未来に生きる

そして私がもう小説を書かない最後の理由は、小説の執筆が必ずしも面白くないからである。面白いどころか、苦しみが大きい。
それが仕事で、小説執筆が生きていく糧を得るためのたったひとつの手段だというのなら話しは別だが、別に小説を書かなくても生きていける状況の中で、あえて小説を書こうという気に私はなれない。それは幻想に生きることだ。私は現実を生きたい。もっとほかのことに時間を使いたい。
そんな中で、なぜ小説を書く人がいるのかというと、それは自分の過去に決着をつけるためだ。自分の中の納得を確認するために、人は小説を書くのである。私の小説執筆の動機もまさしくそのようなものだった。だから苦しくても最後まで書いたのだ。それによってなにかを昇華させたのである。
作品をつくるのではなく、生きていることが作品であるかのように暮らす。そのようなニュアンスのことをオスカー・ワイルドが言っている。発言した本人は男色に奔って獄に入れられてしまったが、執筆だけの人生よりマシだっただろう。
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アートをつくるのではなく、アートを生きる。そちらのほうが、やりがいがあって面白いはずだろう。人生は肉体を使ってナンボだ。執筆はしょせんは大脳新皮質の快楽であって、脳の古い部分の快楽のほうがずっと大きいというのが、私の肉体宣言でした。
小説を書くことは、いつまでも過去に生きているようなものだ。それに対して、芸術のように生きることは、未来に生きることなのである。
だから私はもう小説を書かないのだ。

